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空(くう)は空(そら)ではない  作者: はまゆう


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7/11

第7話 模試の帰り道

 日曜日の朝の電車は、平日とは違う種類の静けさがあった。

 眠そうな顔をした人が多いのは同じなのに、車内の空気が少しだけ張っている。単語帳を開いている制服の子、私服で英単語アプリを見ている浪人生らしい人、参考書を膝に置いたまま目を閉じている男子。

 みんな、どこか同じ方向を向いているように見えた。

 路沙は吊り革につかまりながら、窓に映る自分の顔を少しだけ見た。

 模試は何度も受けている。今さら特別なことではない。そう思っていたのに、今日は少し違った。

 東大志望欄を書くことが、前より冗談ではなくなっている。

 有馬の「一緒に東大に行こう」が、まだ頭のどこかに残っていた。

 会場の最寄り駅で降りると、同じような年頃の受験生が一斉に改札を抜けていく。大学キャンパスを借りた模試会場は、日曜の朝なのに人が多かった。

 女子校の教室とは空気が全然違う。男子が多い。私服の浪人生も多い。背の高い人、声の大きい人、いかにも理系っぽい無口な人、妙におしゃれな人。

 路沙は少しだけ圧倒された。

 予備校で見た“変な秀才”たちも、こういう場所に普通にいるのだろう。

 そう思ったところで、少し前を歩く黒っぽい服の長髪気味の男が目に入った。イヤホンを片耳だけ外して、気だるそうに歩いている。

 見覚えがある。

「……いた」

 思わず小さく言うと、隣の真壁がそちらを見た。

「誰」

「メタやん」

「名前じゃないだろ」

「でもあの人だよ。大阪の一浪の」

 真壁は少しだけ目を細めた。

「ああ、ほんとだ」

 その少し先には、金髪の男子もいた。背が高くて、どう見てもストリートダンサーっぽい。友達らしい男子と何か話しながら歩いている。

 ラ・サール出身の、あの人だ。

「ほんとにいるんだ」

 路沙が言うと、有馬が少しだけ笑った。

「いるでしょう」

「いや、知ってるけど」

「掲示の中の人じゃないってこと?」

「そう」

 有馬はそれ以上何も言わなかった。

 でも、その横顔は少しだけ楽しそうだった。

     *

 試験が始まると、余計なことを考えている余裕はなくなった。

 国語は比較的落ち着いて読めた。

 現代文の評論は少し癖があったけれど、設問の意図は追えた気がする。古文も、思ったよりは悪くない。

 英語も前よりましだった。長文の内容が頭に入ってくる感じがある。全部が完璧ではないけれど、少なくとも戦えていない感じではない。

 問題は数学だった。

 最初の大問を見た瞬間、解けそうな気配はあるのに、最後まできれいに通せる自信がない、といういつもの感覚が来る。

 途中までは進む。けれど、どこかで手が止まる。別の問題に移る。そちらも半分くらいで止まる。

 解ける問題と解けない問題の差が、今日はいつもよりはっきりしていた。

 届くかもしれない。

 やっぱり無理かもしれない。

 その二つの感覚が、試験時間のあいだずっと行ったり来たりしていた。

     *

 試験が終わって会場の外に出ると、夕方の光が少しだけやわらかくなっていた。

 建物の前には、問題冊子を持ったまま話している受験生たちが何人もいる。答え合わせをしている人、黙ってスマホを見ている人、もう次の科目の話をしている人。

 路沙は校門の近くで真壁と合流し、その少しあとで有馬も来た。

「どうだった」

 真壁が訊く。

「英語は前よりまし」

 路沙が言う。

「数学は?」

「聞くな」

「じゃあ、いつも通りか」

「感じ悪い」

「事実だろ」

 有馬が少しだけ笑った。

「国語は?」

「そこはたぶん大丈夫」

「なら、そんなに悪くないんじゃない」

「有馬さんは」

「普通」

「その“普通”が信用ならないんだよね」

「そうかしら」

 真壁が問題冊子を軽く振る。

「数学のあの大問、時間足りなくないか」

「足りない」

 路沙が即答する。

「だよな」

「でも、完答しなくてもいい問題だったと思う」

 有馬が言う。

「途中まででも部分点は来るでしょう」

「有馬、それを試験直後に冷静に言えるのすごいな」

「そう?」

「俺はまだ普通に腹立ってるけど」

「真壁でも腹立つんだ」

「腹立つよ。時間配分ミスると普通に」

 その言い方が少し意外で、路沙は少しだけ真壁を見た。

 真壁はいつも、何でも軽く処理しているように見える。でも実際は、ちゃんと悔しがるのだ。

 会場の出口のほうを見ると、さっきのメタやん浪人生が自販機の横で缶コーヒーを飲んでいた。金髪のラ・サールの人は、友達と問題の話をしている。見た目は相変わらず受験生っぽくない。

「ほんとにいる」

 路沙がまた言うと、真壁が少し笑った。

「さっきも言ってたな」

「だって、なんか……」

「あのへんが上位層なんだろうな」

 真壁は自然にそう言った。

 有馬は、その二人を少し楽しそうに見ていた。

「この人たちも大学で一緒になるのかな」

 路沙が言う。

「なるわよ」

 有馬が答える。

「だから行きたいの」

 その言い方は、以前に言ってたのと同じだった。

 東大という名前そのものではなく、そういう人たちが普通にいる場所だから行きたい、という声。

 路沙は少し黙った。

 自分はまだ、その世界を観察している側にいる気がした。

     *

 駅へ向かう道は、模試帰りの受験生で少し混んでいた。

 コンビニの前に座り込んでいる男子、友達同士で答え合わせをしている女子、黙って歩く浪人生。夕方の街に、受験の疲れた空気が薄く広がっている。

「やっぱり」

 路沙は、歩きながら言った。

「わたしは見てるだけのほうが向いてるかも」

 真壁がすぐに返した。

「今日の出来で決めるの早すぎるだろ」

「今日の出来だけじゃないし」

「でも今日の出来も入ってるだろ」

「入ってるけど」

 有馬は少しだけ考えてから、静かに言った。

「あなた、国語と英語でちゃんと取れるでしょう」

 路沙は黙った。

 否定はしにくい。少なくとも、その二科目はまだ自分の中で戦える感覚がある。

「……まあ、そこはまだ」

「東大数学は全部できなくていいの」

 有馬は、まるで確認事項みたいに言った。

「二問できれば合格だから、微積分と幾何に絞って、それだけは合格レベルまで引き上げる」

 路沙は思わずそちらを見た。

「そんなふうに言われると、急に現実っぽい」

「現実でしょう」

「いや、そうなんだけど」

「国語と英語で取れて、数学で二問作れれば、十分戦えるわ」

 その言い方は、励ましではなかった。

 かなり具体的な戦略として言われている。

 路沙は、自分の勝ち筋を他人が先に見つけていたことに、少しだけ動揺した。

「有馬、急に受験コンサルみたいだな」

 真壁が半分呆れたように言う。

 有馬は平然と答えた。

「合格したら、家庭教師より予備校のフェローの方がバイトの効率いいから、ほんとにやるかも」

 真壁が吹き出す。

「発想が具体的すぎるんだよ」

「事実でしょう」

「そこまで見てるのかよ」

「見てるわよ」

 有馬は少しも冗談っぽくなかった。

 それがかえっておかしくて、路沙も少しだけ笑った。

「でも、だいたい合ってる」

 真壁が言う。

「東大志望って、全部できるやつの集まりじゃないし」

「そうなの」

「そうだよ。得意で引っ張って、苦手を落としすぎないやつが残る」

 その言い方は、軽いのに妙に現実的だった。

 真壁もまた、ちゃんと同じ戦場の人間なのだとわかる。

「お前、そういう意味ではわりと受験向きだと思うけど」

「何それ」

「好きなものに偏ってるくせに、英語と国語はちゃんと取るし」

「褒めてる?」

「半分くらい」

「便利だね」

「便利だから」

 三人とも少しだけ笑った。

 でも、路沙の胸の奥には、まだ有馬の「二問できれば合格」が残っていた。

 全部できなくていい。二問でいい。

 その言葉は、東大を少しだけ“人間のやること”に近づけた。

     *

 駅の改札前で、人の流れが三方向に分かれる。

 いつもの場所で、三人は少し立ち止まった。

「今日、東大志望欄にちゃんと書いた?」

 有馬が訊く。

 路沙は少しだけ迷ってから、うなずいた。

「書いた」

 有馬は少しだけ笑った。

「それでいいと思う」

 その一言が、思っていたより深く残った。

「まあ、書くのはただだからな」

 真壁が横から言う。

「感じ悪い」

「でも、書いたなら半分入ってるだろ」

「半分?」

「気持ちの話」

「雑」

「でも合ってる」

 有馬が言う。

「書くって、そういうことでしょう」

 改札の向こうに、人が吸い込まれていく。

 真壁が先に手を上げた。

「じゃ、また」

「また」

 有馬が答える。

 路沙も小さく手を振った。

 真壁が人混みに紛れていってから、有馬が静かに言った。

「まだ信じてないでしょう」

「何を」

「自分が戦えるってこと」

 路沙は少し黙った。

 改札機のランプが、規則的に緑に光っている。

「……うん」

「そう」

「だって、今日も数学きつかったし」

「きついのはみんな同じよ」

「有馬さんも?」

「ええ」

「ほんとに?」

「ほんとに」

 その返事は、少しだけ意外だった。

 有馬は何でも余裕でやっているように見えるからだ。

「でも」

 有馬は定期を取り出しながら言った。

「きついことと、向いてないことは別でしょう」

 路沙は何も言えなかった。

「まだ高二だから間に合う」

 有馬は、改札を通る前にもう一度言った。

「今なら、ちゃんとやれば届く」

「……有馬さんって、たまにすごく逃がさないね」

「褒めてるの?」

「半分くらい」

「便利ね」

「便利だから」

 有馬が少し笑う。

 その笑い方は静かで、でもたぶん本物だった。

     *

 家に帰ってから、路沙は机に問題冊子を置いた。

 自己採点をしようと思って赤ペンを出したけれど、英語の途中でやめた。点数が怖いわけではない。今日は、点数よりも残っているものが多すぎた。

 朝の電車。

 会場の空気。

 ほんとうにいたメタやんの一浪生と、金髪のラ・サール。

 有馬の「二問できれば合格」。

 真壁の「得意で引っ張って、苦手を落としすぎないやつが残る」。

 路沙は、自分がまだ観察者の気分を捨てきれていないことを知っていた。

 ああいう人たちを見て、面白いと思う。少し遠いと思う。自分とは違う世界の人たちだと思いたくなる。

 でも、東大志望欄に書いた以上、もう完全な外野ではいられない。

 見ているだけの場所には、少し戻りにくくなっている。

 その半端な位置が、今の自分にはいちばん本当だった。

 路沙は問題冊子を閉じて、机の端に寄せた。

 まだ何も決まっていない。

 でも、前より少しだけ、自分を外側に置かずに考えられる気がした。

 それはたぶん、悪くないことだった。


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