第7話 模試の帰り道
日曜日の朝の電車は、平日とは違う種類の静けさがあった。
眠そうな顔をした人が多いのは同じなのに、車内の空気が少しだけ張っている。単語帳を開いている制服の子、私服で英単語アプリを見ている浪人生らしい人、参考書を膝に置いたまま目を閉じている男子。
みんな、どこか同じ方向を向いているように見えた。
路沙は吊り革につかまりながら、窓に映る自分の顔を少しだけ見た。
模試は何度も受けている。今さら特別なことではない。そう思っていたのに、今日は少し違った。
東大志望欄を書くことが、前より冗談ではなくなっている。
有馬の「一緒に東大に行こう」が、まだ頭のどこかに残っていた。
会場の最寄り駅で降りると、同じような年頃の受験生が一斉に改札を抜けていく。大学キャンパスを借りた模試会場は、日曜の朝なのに人が多かった。
女子校の教室とは空気が全然違う。男子が多い。私服の浪人生も多い。背の高い人、声の大きい人、いかにも理系っぽい無口な人、妙におしゃれな人。
路沙は少しだけ圧倒された。
予備校で見た“変な秀才”たちも、こういう場所に普通にいるのだろう。
そう思ったところで、少し前を歩く黒っぽい服の長髪気味の男が目に入った。イヤホンを片耳だけ外して、気だるそうに歩いている。
見覚えがある。
「……いた」
思わず小さく言うと、隣の真壁がそちらを見た。
「誰」
「メタやん」
「名前じゃないだろ」
「でもあの人だよ。大阪の一浪の」
真壁は少しだけ目を細めた。
「ああ、ほんとだ」
その少し先には、金髪の男子もいた。背が高くて、どう見てもストリートダンサーっぽい。友達らしい男子と何か話しながら歩いている。
ラ・サール出身の、あの人だ。
「ほんとにいるんだ」
路沙が言うと、有馬が少しだけ笑った。
「いるでしょう」
「いや、知ってるけど」
「掲示の中の人じゃないってこと?」
「そう」
有馬はそれ以上何も言わなかった。
でも、その横顔は少しだけ楽しそうだった。
*
試験が始まると、余計なことを考えている余裕はなくなった。
国語は比較的落ち着いて読めた。
現代文の評論は少し癖があったけれど、設問の意図は追えた気がする。古文も、思ったよりは悪くない。
英語も前よりましだった。長文の内容が頭に入ってくる感じがある。全部が完璧ではないけれど、少なくとも戦えていない感じではない。
問題は数学だった。
最初の大問を見た瞬間、解けそうな気配はあるのに、最後まできれいに通せる自信がない、といういつもの感覚が来る。
途中までは進む。けれど、どこかで手が止まる。別の問題に移る。そちらも半分くらいで止まる。
解ける問題と解けない問題の差が、今日はいつもよりはっきりしていた。
届くかもしれない。
やっぱり無理かもしれない。
その二つの感覚が、試験時間のあいだずっと行ったり来たりしていた。
*
試験が終わって会場の外に出ると、夕方の光が少しだけやわらかくなっていた。
建物の前には、問題冊子を持ったまま話している受験生たちが何人もいる。答え合わせをしている人、黙ってスマホを見ている人、もう次の科目の話をしている人。
路沙は校門の近くで真壁と合流し、その少しあとで有馬も来た。
「どうだった」
真壁が訊く。
「英語は前よりまし」
路沙が言う。
「数学は?」
「聞くな」
「じゃあ、いつも通りか」
「感じ悪い」
「事実だろ」
有馬が少しだけ笑った。
「国語は?」
「そこはたぶん大丈夫」
「なら、そんなに悪くないんじゃない」
「有馬さんは」
「普通」
「その“普通”が信用ならないんだよね」
「そうかしら」
真壁が問題冊子を軽く振る。
「数学のあの大問、時間足りなくないか」
「足りない」
路沙が即答する。
「だよな」
「でも、完答しなくてもいい問題だったと思う」
有馬が言う。
「途中まででも部分点は来るでしょう」
「有馬、それを試験直後に冷静に言えるのすごいな」
「そう?」
「俺はまだ普通に腹立ってるけど」
「真壁でも腹立つんだ」
「腹立つよ。時間配分ミスると普通に」
その言い方が少し意外で、路沙は少しだけ真壁を見た。
真壁はいつも、何でも軽く処理しているように見える。でも実際は、ちゃんと悔しがるのだ。
会場の出口のほうを見ると、さっきのメタやん浪人生が自販機の横で缶コーヒーを飲んでいた。金髪のラ・サールの人は、友達と問題の話をしている。見た目は相変わらず受験生っぽくない。
「ほんとにいる」
路沙がまた言うと、真壁が少し笑った。
「さっきも言ってたな」
「だって、なんか……」
「あのへんが上位層なんだろうな」
真壁は自然にそう言った。
有馬は、その二人を少し楽しそうに見ていた。
「この人たちも大学で一緒になるのかな」
路沙が言う。
「なるわよ」
有馬が答える。
「だから行きたいの」
その言い方は、以前に言ってたのと同じだった。
東大という名前そのものではなく、そういう人たちが普通にいる場所だから行きたい、という声。
路沙は少し黙った。
自分はまだ、その世界を観察している側にいる気がした。
*
駅へ向かう道は、模試帰りの受験生で少し混んでいた。
コンビニの前に座り込んでいる男子、友達同士で答え合わせをしている女子、黙って歩く浪人生。夕方の街に、受験の疲れた空気が薄く広がっている。
「やっぱり」
路沙は、歩きながら言った。
「わたしは見てるだけのほうが向いてるかも」
真壁がすぐに返した。
「今日の出来で決めるの早すぎるだろ」
「今日の出来だけじゃないし」
「でも今日の出来も入ってるだろ」
「入ってるけど」
有馬は少しだけ考えてから、静かに言った。
「あなた、国語と英語でちゃんと取れるでしょう」
路沙は黙った。
否定はしにくい。少なくとも、その二科目はまだ自分の中で戦える感覚がある。
「……まあ、そこはまだ」
「東大数学は全部できなくていいの」
有馬は、まるで確認事項みたいに言った。
「二問できれば合格だから、微積分と幾何に絞って、それだけは合格レベルまで引き上げる」
路沙は思わずそちらを見た。
「そんなふうに言われると、急に現実っぽい」
「現実でしょう」
「いや、そうなんだけど」
「国語と英語で取れて、数学で二問作れれば、十分戦えるわ」
その言い方は、励ましではなかった。
かなり具体的な戦略として言われている。
路沙は、自分の勝ち筋を他人が先に見つけていたことに、少しだけ動揺した。
「有馬、急に受験コンサルみたいだな」
真壁が半分呆れたように言う。
有馬は平然と答えた。
「合格したら、家庭教師より予備校のフェローの方がバイトの効率いいから、ほんとにやるかも」
真壁が吹き出す。
「発想が具体的すぎるんだよ」
「事実でしょう」
「そこまで見てるのかよ」
「見てるわよ」
有馬は少しも冗談っぽくなかった。
それがかえっておかしくて、路沙も少しだけ笑った。
「でも、だいたい合ってる」
真壁が言う。
「東大志望って、全部できるやつの集まりじゃないし」
「そうなの」
「そうだよ。得意で引っ張って、苦手を落としすぎないやつが残る」
その言い方は、軽いのに妙に現実的だった。
真壁もまた、ちゃんと同じ戦場の人間なのだとわかる。
「お前、そういう意味ではわりと受験向きだと思うけど」
「何それ」
「好きなものに偏ってるくせに、英語と国語はちゃんと取るし」
「褒めてる?」
「半分くらい」
「便利だね」
「便利だから」
三人とも少しだけ笑った。
でも、路沙の胸の奥には、まだ有馬の「二問できれば合格」が残っていた。
全部できなくていい。二問でいい。
その言葉は、東大を少しだけ“人間のやること”に近づけた。
*
駅の改札前で、人の流れが三方向に分かれる。
いつもの場所で、三人は少し立ち止まった。
「今日、東大志望欄にちゃんと書いた?」
有馬が訊く。
路沙は少しだけ迷ってから、うなずいた。
「書いた」
有馬は少しだけ笑った。
「それでいいと思う」
その一言が、思っていたより深く残った。
「まあ、書くのはただだからな」
真壁が横から言う。
「感じ悪い」
「でも、書いたなら半分入ってるだろ」
「半分?」
「気持ちの話」
「雑」
「でも合ってる」
有馬が言う。
「書くって、そういうことでしょう」
改札の向こうに、人が吸い込まれていく。
真壁が先に手を上げた。
「じゃ、また」
「また」
有馬が答える。
路沙も小さく手を振った。
真壁が人混みに紛れていってから、有馬が静かに言った。
「まだ信じてないでしょう」
「何を」
「自分が戦えるってこと」
路沙は少し黙った。
改札機のランプが、規則的に緑に光っている。
「……うん」
「そう」
「だって、今日も数学きつかったし」
「きついのはみんな同じよ」
「有馬さんも?」
「ええ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
その返事は、少しだけ意外だった。
有馬は何でも余裕でやっているように見えるからだ。
「でも」
有馬は定期を取り出しながら言った。
「きついことと、向いてないことは別でしょう」
路沙は何も言えなかった。
「まだ高二だから間に合う」
有馬は、改札を通る前にもう一度言った。
「今なら、ちゃんとやれば届く」
「……有馬さんって、たまにすごく逃がさないね」
「褒めてるの?」
「半分くらい」
「便利ね」
「便利だから」
有馬が少し笑う。
その笑い方は静かで、でもたぶん本物だった。
*
家に帰ってから、路沙は机に問題冊子を置いた。
自己採点をしようと思って赤ペンを出したけれど、英語の途中でやめた。点数が怖いわけではない。今日は、点数よりも残っているものが多すぎた。
朝の電車。
会場の空気。
ほんとうにいたメタやんの一浪生と、金髪のラ・サール。
有馬の「二問できれば合格」。
真壁の「得意で引っ張って、苦手を落としすぎないやつが残る」。
路沙は、自分がまだ観察者の気分を捨てきれていないことを知っていた。
ああいう人たちを見て、面白いと思う。少し遠いと思う。自分とは違う世界の人たちだと思いたくなる。
でも、東大志望欄に書いた以上、もう完全な外野ではいられない。
見ているだけの場所には、少し戻りにくくなっている。
その半端な位置が、今の自分にはいちばん本当だった。
路沙は問題冊子を閉じて、机の端に寄せた。
まだ何も決まっていない。
でも、前より少しだけ、自分を外側に置かずに考えられる気がした。
それはたぶん、悪くないことだった。




