第6話 まだ高2だから
進路希望調査票は、六月の湿った空気と一緒に配られた。
朝のホームルームで担任が白い紙を持って教壇に立ち、「まだ高二ですから、現時点での仮の希望で構いません」と言ったとき、教室の空気は一度だけ静かになって、それからすぐに小さくざわついた。
この学校の生徒たちは、進路の話を嫌うわけではない。むしろ、かなり早い段階から現実的に考えるように育てられている。どの科目をどこまで取るか、推薦を使うか、一般で行くか、医学部なら私立も視野に入れるか。そういう話は、文化祭や定期試験と同じくらい、日常の一部として存在している。
「まだ仮でいいって言われてもね」 「うちは親が医学部ってうるさいんだよね」 「でも私立医は学費がやばくない?」 「早慶上智の推薦で十分じゃない?」 「上智の推薦、英語どれくらいいるんだろ」 「この学校、推薦基準だけは絶対乗せてくるよね」 「苦手科目もちょっと盛ってくれるし」
担任が説明を続けているあいだも、机のあいだから小声が飛び交う。
路沙は調査票を受け取って、自分の名前が印字された欄を見た。第一志望、第二志望、第三志望。学部・学科。志望理由。
白い紙の上に、まだ何もない。
この学校では、ちゃんとしていれば、だいたいどこかには収まる。
それは別に皮肉ではなく、かなり正確な実感だった。
医学部志望は多い。女子校の進学校らしく、親も本人も医師という職業に現実味を持っている子が少なくない。地方国公立も私立も含めて、医学部という選択肢はかなり身近だ。
その一方で、早慶上智の推薦枠で十分、という子も多い。学校側もそれをよくわかっていて、推薦基準に届くように成績を整える。苦手科目があっても、内申で大きく落ちないように、先生たちはかなり親切に面倒を見る。
だから、よほど何もしなければ別だけれど、普通にやっていれば、だいたい早慶上智か、医学部か、それなりの国公立には収まる。
それは安心でもあり、少しだけ息苦しくもあった。
収まる先が最初から用意されている感じがするからだ。
「有馬さんは東大でしょ」
誰かが、教室の後ろのほうでそう言った。
その一言で、何人かが笑う。
「理三?」 「でも文一っぽくもある」 「医学部も似合うよね」 「いや、研究者っぽい」
有馬聖は、自分の席で調査票を見ていた。
そういう声を聞いても、嫌そうな顔はしない。ただ、乗りすぎもしない。少しだけ顔を上げて、「まだ決め打ちするには早いでしょう」とでも言いたげな、静かな表情をするだけだ。
その“静かさ”が、路沙には少し不思議だった。
普通なら、期待されすぎて面倒そうにするか、逆に少し得意そうにするか、どちらかになりそうなのに、有馬はどちらでもない。
東大と言われることを、特別なこととして受け取っていないように見える。
「白谷さんは?」
今度は自分のほうに声が来た。
佐伯だった。悪意のない顔をしている。
「まだちゃんと決めてない」
路沙がそう答えると、教室の空気がほんの少しだけ揺れた。
驚かれたわけではない。ただ、この学校では少し珍しい答えなのだ。みんな、はっきり決めていなくても、なんとなくの“収まり先”は持っている。
「へえ」 「でも国公立っぽいよね」 「路沙さん、私大専願って感じじゃない」
その“感じ”が何なのか、路沙にはよくわからなかった。
たぶん、変わっている人は国公立っぽい、くらいの雑な分類なのだろう。
「有馬さんは?」
中村が訊く。
有馬は少しだけ視線を上げた。
「東大には行きたいと思ってる」
教室が、わずかに沸いた。
「やっぱり」 「すごい」 「理三?」 「学部は?」
「まだそこまでは」
有馬はそう言って、きれいに会話を閉じた。
東大、というラベルだけが教室に残る。
でも路沙には、そのラベルだけで終わるのが少し変に思えた。有馬が見ているのは、たぶんもっと先のものだ。
*
昼休み、路沙は図書室へ向かう途中の階段の踊り場で、有馬に会った。
有馬は手に進路希望調査票を持っていて、窓から入る薄い光の中で、その白い紙だけが妙に明るく見えた。
「逃げてきたの」
有馬が言う。
「少しだけ」
「進路の話が嫌?」
「嫌っていうか、この学校って、ちゃんとしてればだいたいどこかに収まる感じあるよね」
有馬は少しだけ考えてから、うなずいた。
「そうね。先生たちも、そのためにかなり調整してくれるし」
「苦手科目も推薦基準に届くようにしてくれるし」
「親切よね」
「親切だけど」
「息苦しい?」
路沙は少しだけ笑った。
「有馬さん、たまに先に言うね」
「たまに?」
「いつもじゃない」
「便利ね、その言い方」
「便利だから」
有馬も少しだけ笑った。
それから、踊り場の手すりに軽く指を置く。
「でも、悪いことではないと思うわよ」
「うん」
「ちゃんとしていれば、だいたいどこかには行ける。そういう学校って、かなり親切だもの」
「それはそう」
「ただ、あなたは“収まる”って言い方が嫌なのよね」
路沙は少し黙った。
嫌、というほどではない。けれど、たしかに少し違和感はある。
「有馬さんは、そういう“収まる”感じじゃないよね」
そう言うと、有馬は少しだけ視線を上げた。
「東大には行きたいと思ってる」
「やっぱり」
「模試の判定、今は六五パーセントくらい」
路沙は思わず顔を上げた。
「六五?」
「ええ」
「それ、かなり現実的じゃない」
「現実的でしょう」
有馬の声は落ち着いていた。
夢を語る声ではなく、現在地を確認する声だった。
「まだ高二だし、ここから上げられると思ってる」
「有馬さんは、そうだろうね」
路沙は少し冗談っぽく言った。
でも、有馬は冗談として受け取らなかった。
「あなたも」
「……は?」
「まだ高二だから間に合う。一緒に東大に行こう」
路沙は、一瞬、言葉の意味がわからなかった。
階段の下から、誰かが笑う声が聞こえる。遠くでチャイムの予鈴が鳴りそうな気配がする。そういう周囲の音だけが、急にくっきりした。
「何それ」
「そのままの意味」
「いや、わたしは別でしょ」
「どうして」
「どうしてって」
路沙はうまく言えなかった。
自分がそういう側の人間ではない、という感覚はある。けれど、それを説明しようとすると、ただの自己評価の低さみたいになってしまう。
「国語も英語も悪くないでしょう」
有馬は静かに言う。
「数学も、今の段階ならまだ十分間に合う。ちゃんとやれば届くと思う」
「有馬さん、それ励ましてるの」
「励ましてないわよ」
「じゃあ何」
「評価してるの」
その言い方があまりにまっすぐで、路沙は少し黙った。
励ましなら、まだ受け流せた。優等生の親切なら、少しむっとして終われた。
でも評価だと言われると、逃げ場がない。
「……そんなふうに見てたんだ」
「見てるわよ」
「変な人だと思ってるだけかと思ってた」
「変な人だとは思ってる」
「ひどい」
「でも、それだけじゃない」
有馬は少しだけ笑った。
「好きなものに対して変に深いし、ちゃんと考えるし、成績だって悪くないでしょう」
「“変に深い”は褒めてるの」
「かなり」
予鈴が鳴った。
踊り場の空気が少しだけ動く。
「あとで続き、してもいい?」
路沙が言うと、有馬はうなずいた。
「もちろん」
*
その日の予備校は、いつもより少しざわついていた。
ロビーの掲示板に、駿台模試の校舎内上位者と全国上位者の紙が貼り出されていたからだ。授業前の生徒たちが、参考書を抱えたまま立ち止まり、名前と順位を見上げている。
路沙も、真壁と有馬と一緒にその前に立った。
「またこの人いる」
真壁が言った。
指さした先には、大阪出身の一浪生の名前があった。
路沙はその人を何度か見たことがある。黒っぽい服に、少し長めの髪。イヤホンからヘビーメタルでも漏れていそうな、今どきメタやん、という感じの人だ。気だるそうに歩いているのに、成績は異様にいい。
「この人、ほんとに受験生っぽくないよね」
路沙が言う。
「でも英語えぐいらしい」
真壁が答える。
「あと現代文も強い」
「メタル聴きながら現代文満点近いの、ちょっと意味わかんない」
「偏見だろ」
「でも見た目がそうなんだよ」
その隣には、別の名前があった。
ラ・サール出身の、金髪の男子。これも何度か見かけたことがある。どう見てもストリートダンサーっぽい。背が高くて、顔がよくて、受験生というよりMVに出てきそうな雰囲気なのに、数学で上位常連だ。
「あの人もまたいる」
路沙が言う。
「どう見てもダンサーなのに」
「実際ちょっと踊ってるらしいよ」
真壁が言う。
「え、ほんとに?」
「知らない。噂」
「雑」
「でもラ・サール出身なのはほんと」
有馬は、掲示を静かに見ていた。
驚いた顔も、引いた顔もしていない。むしろ少しだけ楽しそうだった。
「この人たちも、大学で一緒になるのかな」
路沙は、半分独り言みたいに言った。
「なるわよ」
有馬が答える。
「だから行きたいの」
路沙はそちらを見た。
「だから?」
「東大って、ああいう人たちが普通にいる場所でしょう」
有馬の声は、少しだけ明るかった。
「好きなことをやっていて、しかも勉強もちゃんとできる人たち。学業は高水準なのに、妙に個性的で、変な人たち」
「変な人たち、なんだ」
「褒めてるのよ」
「わかるけど」
「わたし、ああいうの、いいと思う」
その言い方は、路沙が思っていたよりずっと本音だった。
東大という名前そのものに憧れているのではない。
好きなことを持っていて、それをやりながら、勉強も余裕で高い水準にある。そういう個性的な天才集団の中に行きたいのだと、はっきりわかる声だった。
「有馬さんは、そういうところに行きたいんだ」
「ええ」
「わたしは、外から見るだけで十分かも」
そう言うと、有馬は少しだけ眉を寄せた。
「どうして」
「どうしてって」
「あなたも、そっち側だと思うけど」
路沙は思わず笑いそうになった。
でも、有馬は冗談の顔をしていない。
「わたしが?」
「そうよ」
「いや、あのメタやんとか、金髪の人とかと一緒にされても困るんだけど」
「見た目の話はしてないわ」
「してないのはわかるけど」
「好きなものに対して変に深いし、ちゃんと考えるし、成績だって悪くないでしょう」
「またそれ言う」
「だって本当だもの」
真壁が横から口を挟んだ。
「俺も、わりとそう思うけど」
路沙はそちらを見る。
「真壁まで何」
「いや、だってお前、変なものばっか読んでるのに、模試ではちゃんと取るじゃん」
「“変なものばっか”は余計」
「でも合ってるだろ」
「合ってるけど」
「そういうの、あっち側っぽいよ」
真壁は掲示板の上位者たちを顎で示した。
「好きなことやってて、勉強も普通にできるやつ」
路沙は少し黙った。
自分がそんなふうに見られているとは、思っていなかった。
「まだ高二だから間に合う」
有馬が、昼と同じ声で言った。
「一緒に東大に行こう」
ロビーのざわめきの中で、その言葉だけが妙に静かに聞こえた。
熱血でもなく、冗談でもなく、ただ冷静な提案として置かれる。
「有馬、それ本気?」
真壁が少しだけ面白そうに言う。
「本気よ」
「へえ」
「何、その“へえ”」
「いや、いいなと思って」
「何が」
「そういう誘い方するの、有馬っぽい」
「どういう意味?」
「励ますんじゃなくて、普通に戦力として見てる感じ」
路沙は少しだけ顔が熱くなった。
戦力、という言い方は雑だけれど、たぶん近い。
「真壁、たまに言い方が雑だよね」
「たまに?」
「いつもじゃない」
「便利だな、それ」
三人とも少しだけ笑った。
でも、路沙の胸の奥には、まださっきの言葉が残っていた。
*
授業のあいだも、路沙は少し落ち着かなかった。
英語長文の解説を聞きながら、ノートを取りながら、頭のどこかでずっと「一緒に東大に行こう」が反響している。
授業後、駅までの道を三人で歩いた。
夜の駅前は、昼より少しだけ現実的だ。コンビニの白い光、塾帰りの高校生、仕事帰りの大人たち。みんなそれぞれの場所へ戻っていく。
「さっきの人たち」
路沙が言う。
「大学で一緒になったら、ちょっと面白いかも」
「メタやんと金髪?」
真壁が言う。
「名前で呼ぶなよ」
「だって名前まだ覚えてないし」
「ひどいな」
「でも、わかる」
有馬が言った。
「好きなことをやっていて、しかも勉強もちゃんとできる人たちって、見ていて気持ちがいいもの」
「有馬さん、ほんとにそういうの好きなんだね」
「好きよ」
「東大ブランドが欲しいとかじゃなくて?」
「それはあまり興味ないわ」
有馬はきっぱり言った。
「名前がすごいことより、そういう人たちが普通にいる環境のほうが大事」
その言い方が、あまりにも有馬らしかった。
見栄ではなく、環境を選ぶ人の言葉だった。
「路沙も、そういうの好きだろ」
真壁が言う。
「変な才能の集まり」
「見るのは好き」
「見るだけじゃなくて、混ざる側だって話だよ」
「だから、それがよくわかんないんだって」
「何が」
「自分がそっち側っていうのが」
真壁は少しだけ肩をすくめた。
「まあ、自分ではそう思わないもんかもな」
「真壁は思うの」
「俺は思うよ」
「自信あるね」
「ある程度は」
「嫌味」
「事実」
そのやりとりに、有馬が少しだけ笑った。
「でも、真壁くんはそういうところ、ちゃんとしてるわね」
「何が」
「自分の位置を把握してるところ」
「把握してないと戦えないだろ」
その言い方は、少しだけ受験生らしかった。
路沙は、真壁がただ軽口を叩く人ではないことを、最近ようやくちゃんと理解し始めていた。
駅の改札が見えてくる。
三人の帰る方向はそこで分かれる。
「じゃ、また明日」
真壁が手を上げる。
「また」
有馬が答える。
路沙も小さく手を振った。
真壁が人混みに紛れていくのを見送ってから、有馬がふいに言った。
「さっきの、まだ信じてないでしょう」
「何を」
「あなたもそっち側だってこと」
路沙は少し黙った。
改札前の人波が、二人のあいだを少しだけ押し広げる。
「……うん」
「そう」
「だって、わたし、そんな感じじゃないし」
「そんな感じ、って何」
「好きなことやってて、勉強も余裕でできて、変で、でもちゃんとすごい人たち」
「かなり雑な定義ね」
「でもだいたい合ってるでしょ」
「だいたいは」
有馬は定期を取り出しながら、静かに言った。
「あなた、自分のことを過小評価してるわよ」
「そうかな」
「そうよ」
「有馬さんに言われると、ちょっと怖い」
「どうして」
「本気で言ってるから」
「本気よ」
改札機に定期を通しながら、有馬は少しだけこちらを見た。
「まだ高二だから間に合う」
昼と同じ言葉。
でも今度は、少しだけやわらかかった。
「今なら、ちゃんとやれば届く」
「……有馬さんって、たまにすごく怖いね」
「褒めてるの?」
「半分くらい」
「便利ね」
「便利だから」
有馬が少し笑う。
その笑い方は、教室で見せるものより静かで、でもたぶん本物だった。
「一緒に行けたら、面白いと思うの」
彼女はそう言った。
「あなた、ああいう人たちの中にいたら、たぶん今よりもっと面白くなるから」
その言葉に、路沙はすぐ返事ができなかった。
東大に行けるかどうかより先に、そんなふうに言われたこと自体が、少し信じがたかったからだ。
*
家に帰ってから、路沙は机の上に進路希望調査票を広げた。
白い紙の上に、第一志望、第二志望、第三志望。まだ何も書いていない。
この学校では、ちゃんとしていれば、だいたいどこかには収まる。
それはたぶん本当だ。
でも今日は、その“どこか”に自分を入れるだけでは、少し足りない気がした。
有馬の六五パーセント。
「まだ高二だから間に合う」。
「一緒に東大に行こう」。
予備校の掲示板の、メタやんの一浪生と、金髪のラ・サールの人。
好きなことをやっていて、学業は余裕で高水準な、個性的な天才集団。
そんな場所が本当にあるのだとしたら。
しかも有馬は、自分もそこに行ける側だと思っているらしい。
路沙は、志望欄をしばらく見つめた。
まだ書けない。
でも、前より少しだけ、遠くを見ることができる気がした。
それはたぶん、悪くないことだった。




