第5話 古いものばかり好きなわけじゃない
路沙は、自分が古いものばかり好きだと思われるのを、少しだけ不本意に感じていた。
たしかに、アシモフを読んでわくわくするし、浦沢直樹の漫画で泣くし、学校の図書室の古い蔵書棚を眺めていると落ち着く。けれど、それは別に「昔のものだから好き」なのではない。今読んでも面白いものが、たまたま昔からあるだけだ。
その違いは、説明すると長くなるし、たいてい途中で相手が飽きる。
だから、その日の昼休み、教室でそう言われたときも、最初は適当に流すつもりだった。
「路沙さんって、古い漫画とか小説好きだよね」
言ったのは佐伯だった。
悪意のない顔をしている。悪意のない顔の言葉は、たいてい少しだけ面倒だ。
「そうかな」
「だって、この前アシモフの話してたし、PLUTOも元ネタ古いじゃない」
「元ネタが古いだけで、PLUTO自体は別に古くないよ」
「でも、なんか全体的にそういう感じ」
全体的にそういう感じ。
便利な言い方だな、と路沙は思った。
「今流行ってるのは読まないの?」
別の子が訊いた。
たしか中村だった。机に頬杖をつきながら、純粋に不思議そうな顔をしている。
「読むこともあるよ」
「たとえば?」
路沙は少し考えた。
ここで具体例を出すと、また変な方向に話が転がる気がした。
「いろいろ」
「読んでなさそう」
「失礼だね」
「だって、路沙さんって、ダンジョンとか異世界転生とか悪役令嬢とか、あんまり読まなそう」
「読まない」
即答すると、何人かが笑った。
「やっぱり」 「そこは即答なんだ」 「なんで?」
なんで、と訊かれると少し困る。
嫌いというほどではない。嫌いなものをわざわざ話題にしたいわけでもない。ただ、自分の興味とずれているだけだ。
「自分の興味とは、ちょっとずれる」
「どうずれるの?」
「なんか……」
路沙は言葉を探した。
こういうとき、彼女はいつも少し遅れる。頭の中には感覚があるのに、それを教室向けの言葉にするのが下手だった。
「世界観の説明が先に来る感じとか、最初から“こういう快感を用意してます”って決まってる感じとか、あんまり乗れない」
「えー、でも異世界転生って読みやすくない?」
「読みやすいのはわかる」
「悪役令嬢とか、スカッとして面白いじゃん」
「面白いのもあると思う」
「でも読まないんだ」
「読まない」
「頑固」
「頑固っていうか、時間有限だから」
その言い方が少しおかしかったのか、何人かが笑った。
笑い方は前よりやわらかい。路沙も、前より少しだけ慣れている。
「じゃあ最近何読んでるの」
佐伯が訊く。
「昨日は『いぬやしき』が届いて読んでた」
「……またちょっと古いやつ」
「古いってほどでもないでしょ」
「でも今の流行りではないよね」
「流行りではないね」
「面白いの?」
その問いには、路沙は少しだけ顔を上げた。
「すごいよ」
「へえ」
「ネットで途中まで読んで、四話ずつ更新されるの待ってたんだけど、無理だった」
「無理?」
「一日四話じゃ待てなくて、全巻買っちゃった」
今度は、教室の空気が少しだけ変わった。
引かれたわけではない。むしろ、少しだけ面白がられている。
「そんなに?」 「勢いあるね」 「大人買い?」
「大人じゃないけど」
「何がそんなにすごいの」
路沙は少しだけ迷った。
でも、ここで黙るのも違う気がした。
「なんていうか、すごく雑に始まるのに、途中から急に人間の話になるところ」
「雑に始まるの?」
「うん。かなり」
「じゃあ、やっぱり変なやつ好きなんじゃん」
「変でも、ちゃんと面白ければいいでしょ」
「路沙さんって、ほんと“ちゃんと面白い”の基準が独特だよね」
その言い方に、路沙は少しだけ肩をすくめた。
「そうかも」
そこで、少し離れた席から有馬が口を開いた。
「でも、ネットで読んでいて待てなくなって全巻買うのは、わりと健全な読者だと思う」
教室の何人かがそちらを見る。
有馬はいつもの落ち着いた顔で、英単語帳にしおりを挟んでいた。
「健全?」
中村が笑う。
「健全よ。少なくとも、ちゃんと面白いと思ったものにお金を払ってるんでしょう」
「まあ、そうだけど」
「それに、流行ってるかどうかと、自分に合うかどうかは別じゃない?」
その言い方は、あまりにもまっとうだった。
まっとうすぎて、誰も反論しにくい。
「有馬さんって、たまに路沙さんに甘いよね」
誰かが冗談っぽく言った。
有馬は少しだけ首をかしげる。
「そうかしら」
「そうだよ」 「この前から、わりと拾ってるし」 「気になるんじゃない?」
その言い方に、路沙は少しだけ居心地が悪くなった。
有馬はどう返すのだろうと思って、そちらを見る。
「気にはなるわよ」
有馬はあっさり言った。
「だって、読み方が独特だもの」
教室に小さな笑いが起きる。
その笑いは、路沙を外に置くものではなく、少なくとも今はそうではなかった。
「ほら、やっぱり」
「研究対象みたい」
「失礼ね」
有馬はそう言いながら、少しだけ笑った。
その笑い方が自然だったので、路沙は少しだけ助かった気がした。
*
放課後、予備校へ向かう電車の中で、路沙はスマホの購入履歴を見ていた。
昨夜の勢いで注文した『いぬやしき』全巻セットの明細が、まだそこに残っている。自分で買っておいて、少しだけ笑ってしまう。たしかに勢いがあった。
「何見てるの」
隣から声がして、路沙は顔を上げた。
真壁透真だった。
「購入履歴」
「生々しいな」
「昨日、漫画全巻買ったから」
「何を」
「『いぬやしき』」
真壁は少しだけ目を上げた。
「へえ」
「へえ、なんだ」
「いや、またちょっと意外なとこ行くなと思って」
「そう?」
「もっと、ひたすら古いのばっか読んでるのかと思ってた」
「それ、今日も言われた」
「何て」
「古い漫画や小説好きだね、今流行ってるのは読まないの、って」
「で、何て答えたの」
「ダンジョンとか異世界転生とか悪役令嬢は、自分の興味とずれるって」
真壁は少し笑った。
「言いそう」
「でも、古いものばっか好きなわけじゃない」
「『いぬやしき』は別に古典じゃないしな」
「そう」
「何で急にそれ読んだの」
「ネットで読んでたら、一日四話更新じゃ待てなくて」
「買ったんだ」
「買った」
「健全」
「有馬さんも同じこと言ってた」
「有馬、そういう言い方しそう」
電車が揺れる。
真壁は吊り革につかまりながら、少しだけ考えるように言った。
「でも、お前の読み方って、流行りに乗るかどうかじゃなくて、“刺さるかどうか”だけで決まってる感じあるよな」
「そうかも」
「そのへんは一貫してる」
「褒めてる?」
「半分くらい」
「便利だね、その言い方」
「便利だから」
そこで、後ろから「路沙さん」と声がした。
振り向くと、有馬が同じ車両の少し後ろから歩いてくるところだった。
「いた」
「いたよ」
「見ればわかる」
真壁が少し笑う。
「お前ら、ほんとその会話好きだな」
「便利だから」
路沙が言うと、有馬が少しだけ笑った。
「何の話?」
「『いぬやしき』」
真壁が答える。
「路沙がネットで途中まで読んで、待てなくて全巻買ったって」
「本当に?」
有馬が少しだけ目を見開く。
「ええ」
「一日四話じゃ足りなかったの?」
「足りなかった」
「そんなに面白いの」
「すごい」
路沙は少しだけ身を乗り出した。
「最初、かなり雑に始まるのに、途中から急に、どうしようもなく人間の話になるの」
「また“人間の話”」
真壁が言う。
「お前、何でもそこに回収するな」
「だってそうなんだよ」
「でも、わかる気はする」
「真壁、最近わかりすぎじゃない?」
「お前が説明するのに慣れてきた」
有馬は少し考えるように黙ってから、静かに言った。
「あなたって、流行ってるかどうかより、“自分が待てなくなるかどうか”で判断してるのね」
「そうかも」
「それは、かなり信用できる基準かもしれない」
「信用できるんだ」
「少なくとも、“みんなが読んでるから”よりは」
その言い方が、有馬らしかった。
流行を見下しているわけではない。ただ、自分の判断基準を他人に預けないだけだ。
「有馬さんは、流行ってるの読むの」
路沙が訊く。
「読むものもあるわよ」
「異世界転生とか悪役令嬢とか」
「そこはあまり通っていないわね」
「意外」
「そう?」
「もっと何でも効率よく摂取してそう」
「わたしを何だと思ってるの」
「情報処理能力の高い人」
「それは否定しないけど」
真壁が横から言う。
「有馬って、流行りものもちゃんと選んでそうだよな」
「選ぶわよ」
「全部追うわけじゃないんだ」
「時間有限だもの」
路沙は少しだけ笑った。
「それ、今日わたしも言った」
「そうなの?」
「異世界転生とか悪役令嬢を読まない理由で」
「気が合うじゃない」
「そこだけね」
「そこだけ?」
有馬が少しだけ笑う。
電車の窓に、三人の制服姿がぼんやり映っていた。
*
予備校の授業は数学だった。
ベクトルの問題を講師が黒板に展開し、途中式を飛ばさずに書いていく。路沙はノートを取りながら、さっきの「待てなくなるかどうか」という言い方を思い出していた。たしかに、自分はそういうふうに読んでいるのかもしれない。
授業後、自販機の前で三人は少し立ち話をした。
真壁はスポーツドリンク、有馬は温かいカフェラテ、路沙は水。最近、だいたいこの組み合わせだ。
「で」
真壁が言う。
「結局、『いぬやしき』は何がそんなにすごいんだよ」
「説明しづらい」
「またそれか」
「でも、ほんとに説明しづらいんだよ。雑さと切実さの落差がすごい」
「雑さと切実さ」
有馬が繰り返す。
「それは少し気になるわね」
「有馬さん、また読むの」
「読むかもしれない」
「読むんだ」
「あなたがそこまで言うなら」
路沙は少しだけうれしくなった。
でも、それをそのまま顔に出すのは少し悔しい。
「別に、無理して読まなくていいよ」
「その言い方、だいたい読んでほしいときでしょう」
「……少しは」
真壁が笑う。
「わかりやすいな」
「真壁は読まないの」
「読むかも」
「原書で?」
路沙が言うと、真壁は少しだけ呆れた顔をした。
「漫画を原書で読むなよ」
「でも英語版あるかもよ」
「あるだろうけど、今その話じゃない」
「無粋」
「まだ言うのか」
有馬がカフェラテを持ったまま、少しだけ首をかしげた。
「でも、路沙さんって、たしかに古いものばかり好きなわけではないのね」
「だからそう言ってる」
「ただ、“今流行ってるから読む”という回路が薄いだけ」
「うん」
「それは、少し羨ましいかもしれない」
その言葉に、路沙は少しだけ驚いた。
「羨ましい?」
「ええ。わたし、流行っているものを把握しておいたほうがいいと思うことがあるから」
「把握しておいたほうがいい?」
「会話のために」
真壁が少し笑う。
「有馬、そういうとこあるよな」
「あるわよ」
「大変だね」
路沙が言うと、有馬は少しだけ肩をすくめた。
「別に苦ではないけど」
「でも、自分が待てなくなるかどうかで選ぶほうが、たしかに楽しそう」
その言い方は、少しだけ本音っぽかった。
「有馬さんって」
路沙は言う。
「ほんとに優等生だね」
「今さら?」
「いや、改めて」
「褒めてるのかしら」
「半分くらい」
「便利ね、その言い方」
「便利だから」
真壁が笑う。
「お前ら、ほんとそのうち何でもそれで済ませそうだな」
「真壁も使ってるじゃん」
「俺は最初から使ってる」
「それはそう」
三人で少し笑う。
予備校の廊下には、次の授業へ向かう生徒たちの足音が響いていた。
*
帰り道、路沙は一人で電車に乗った。
窓の外はもう暗い。ガラスに映る自分の顔は、少し疲れていて、でも悪くなかった。
古い漫画や小説が好きだね、と言われた。
今流行ってるのは読まないの、と訊かれた。
たぶん、そういうふうに見えるのだろう。少しずれていて、少し昔に寄っていて、少し面倒なものばかり好きな人。
でも本当は、古いか新しいかはあまり関係ない。
ネットで古い漫画を読んでわくわくして、一日四話じゃ待てなくて全巻買ってしまうこともあるし、昨日届いた『いぬやしき』を夜更かしして読むこともある。
ただ、自分が待てなくなるものを選んでいるだけだ。
その基準を、今日は少しだけ言葉にできた気がした。
しかも、それをちゃんと聞いてくれる人がいた。
一人は、流行と自分の興味は別だと当然のように言った。
もう一人は、刺さるかどうかで決まってる感じがすると言った。
そういうふうに言われると、自分の読み方が、ただの偏屈ではなく、少しは輪郭のあるものに思えてくる。
それはたぶん、悪くないことだった。




