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空(くう)は空(そら)ではない  作者: はまゆう


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4/11

第4話 PLUTOで泣く

 有馬聖は、約束を守る人だった。

 それは別に、彼女が特別に律儀だからというだけではない。

 頭のいい人間にありがちな、予定と優先順位の管理がうまいという意味でもあるし、自分が口にしたことを曖昧なまま放置するのを好まないという意味でもある。だから、昼休みに「読んだら感想を言う」と言った本や漫画について、彼女は本当に感想を持ってくる。

 その日の昼休み、路沙が弁当箱の蓋を閉めたところで、有馬が席の横に来た。

「読んだわ」

 それだけで、何の話かわかった。

「早いね」

「全巻ではないけど」

「PLUTO?」

「ええ」

 路沙は思わず箸箱を落としかけた。

 机の上で小さく音がして、前の席の子が一瞬だけ振り返る。

「もう読んだの」

「あなたが貸したの、一昨日でしょう」

「一昨日だよ」

「だから」

「だからって、早いよ」

「そうかしら」

 有馬は本気でそう思っている顔だった。

 たぶん本当にそうなのだろう。彼女は読むのが速い。しかも、ただ速いだけではなく、内容もきちんと入っている。

「で」

 路沙は身を乗り出した。

「どうだった」

 有馬は少しだけ考えるように視線を上げた。

「よくできた創作だと思った」

 路沙は数秒、黙った。

「……それだけ?」

「それだけ、ではないけど」

「第一声がそれ?」

「第一声としては妥当でしょう」

「妥当かなあ」

 有馬は椅子を少し引いて、路沙の机の横に軽く腰を預けた。

 教室のあちこちで昼食の片づけが始まっている。お弁当箱をしまう音、水筒の蓋を閉める音、誰かの笑い声。

「AIは感情を持たない前提でしょう」

 有馬は言った。

「だから、そこに感情移入するというより、設定と構成が非常によくできている、という読み方になったの」

 路沙は思わず眉をひそめた。

「え、それ、なんか……」

「なに」

「冷たい」

「冷たいかしら」

「だって、あれ、そんなふうに読む?」

「そんなふうにも読むでしょう」

 有馬は少しも悪びれない。

 その落ち着きが、路沙には少し悔しい。

「わたし、けっこう泣いたんだけど」

「それは知ってる」

「知ってるって何」

「あなたが“号泣した”って三回くらい言ったから」

「三回も言ってない」

「二回半くらいは言ってた」

 路沙は少しだけむっとした。

 でも、たしかに似たようなことは何度か言った気がする。

「どこで泣いたの」

 有馬が訊く。

「どこって、いろいろ」

「いちばん」

 路沙は少し黙った。

 こういう問いに答えるのは、たまに難しい。泣いた場面を説明するのは、泣いた理由を説明するより少し恥ずかしいからだ。

「……第一話から号泣だったよ。ロボットを使ったヒューマンドラマ」

「それは、かなり全体的ね」

「全体的に泣けるんだよ」

「便利な言い方」

「有馬さんだって、“よくできた創作”って便利な言い方じゃん」

「便利だけど、間違ってはいないでしょう」

「間違ってはないけど、足りない」

 有馬は少しだけ目を細めた。

 怒ったわけではなく、考えている顔だった。

「足りない、か」

「うん」

「たしかに」

 その返事が意外で、路沙は少しだけ勢いを失った。

「……たしかに?」

「人間が、感情があるものとして扱いたくなるところは面白かった」

「面白かった、なんだ」

「そこは“面白かった”で合ってると思う」

「泣かなかったの」

「泣いてほしいの?」

「少しは」

 有馬はほんの少しだけ笑った。

「泣いてはいないわ」

「ほんとに?」

「ほんとに」

「ちょっとも?」

「ちょっとも」

 その言い方が妙にきっぱりしていて、路沙は少しだけ不満だった。

 でも同時に、そういうところが有馬らしいとも思う。

「あなたは、作品を読むとき、すぐ人の痛みのほうへ行くのね」

 有馬が言った。

「有馬さんは、すぐ構造のほうへ行く」

 路沙が返す。

「そうかもしれない」

「否定しないんだ」

「事実でしょう」

 その“事実でしょう”が、最近の有馬の口癖みたいになっている。

 たぶん真壁の影響ではなく、もともと彼女の中にあったものが表に出てきただけだ。

「でも」

 有馬は少しだけ声を落とした。

「あなたが泣いた理由は、少しわかる気がした」

 路沙は顔を上げた。

「どこで」

「“理解しようとすること”自体が、必ずしも救いにならないところ」

 その言い方は、路沙が思っていたよりずっとちゃんとしていた。

 ちゃんとしていて、少しだけ悔しい。

「……ちゃんと読んでるね」

「読むわよ」

「読むの速すぎるけど」

「それは関係ないでしょう」

 予鈴が鳴った。

 有馬は自分の席へ戻りながら、振り返りもせずに言った。

「放課後、真壁くんにも訊いてみたら」

「何を」

「泣いたかどうか」

「真壁が?」

「意外と泣くかもしれないじゃない」

「どうかな」

「どうかしら」

 そのまま午後の授業が始まった。

     *

 放課後、予備校の休み時間に、路沙は本当に真壁に訊いてみた。

 英語の授業と数学の授業のあいだ、廊下の自販機の前で、真壁はスポーツドリンクのボトルを片手に立っていた。

 予備校の廊下はいつも少し乾いている。冷房のせいか、蛍光灯の色のせいか、学校よりも人間が“受験生”に寄って見える。

「真壁」

「なに」

「PLUTO読んだことある?」

「ある」

「泣いた?」

 真壁はボトルの蓋を閉める手を止めた。

 それから、少しだけ笑う。

「いきなりだな」

「いいから」

「泣いたかどうか?」

「うん」

「……まあ、ちょっとは」

 路沙は思わず目を見開いた。

「泣くんだ」

「何その反応」

「いや、真壁って、もっとこう……」

「もっとこう、何」

「泣かなそう」

「失礼だな」

「でも、どこで?」

「どこっていうか、全体的にしんどいだろ、あれ」

「全体的に、は便利な言い方だね」

「お前も今それ言っただろ」

 真壁は少しだけ肩をすくめた。

「なんていうか、誰かを守ろうとしてるのに、全然うまくいかない感じがきつい」

 その言い方は、思っていたよりずっと素直だった。

 路沙は少しだけ驚く。

「……ちゃんと読んでるね」

「だから読むって。漫画も」

「真壁、たまに見た目と中身が合ってないよね」

「お前にだけは言われたくない」

「それ、便利だね」

「便利だからな」

 そこへ、有馬が教室から出てきた。

 手には英単語帳を持っている。休み時間まで単語を見ていたらしい。

「何の話?」

「PLUTO」

 路沙が答える。

「真壁がちょっと泣いたって」

「ちょっとじゃない。“まあ、ちょっとは”だ」

「同じでしょ」

「違う」

 有馬は少しだけ目を上げた。

「真壁くん、泣くのね」

「有馬まで何なんだよ」

「だって、少し意外」

「お前ら、俺を何だと思ってるんだ」

「もっと雑な人」

 路沙が言う。

「もっと勢いだけの人」

 有馬が言う。

「ひどいな」

 真壁は呆れたように笑った。

 でも、少しも本気で怒ってはいない。

「で、有馬はどうだったんだよ」

 真壁が訊く。

「読んだんだろ」

「読んだわ」

「泣いた?」

「泣いてない」

 有馬は即答した。

「AIは感情を持たない前提だから、そこに感情移入するというより、よくできた創作だとは評価した」

 真壁が一瞬だけ黙る。

 それから、少しだけ感心したように言った。

「すげえ、模範解答みたいな感想」

「褒めてるの?」

「半分くらい」

「路沙さんにも似たようなことを言われたわ」

「だろうな」

 路沙は少しだけ不満そうに口を尖らせた。

「でも、それだけじゃないってさっき言ってた」

「言ったわよ」

 有馬は落ち着いて続ける。

「人間が、感情があるものとして扱いたくなるところは面白かった」

「面白かった、なんだ」

 真壁が繰り返す。

「泣けた、じゃなくて」

「泣けた、ではないもの」

「へえ」

 真壁は少しだけ笑った。

「でも、それはそれで有馬っぽいな」

「そうかしら」

「うん。まず前提を確認してから入る感じ」

 有馬は少しだけ考えて、それからうなずいた。

「それはそうかもしれない」

「路沙は逆だよな」

 真壁が今度は路沙を見る。

「前提とか構造とかより先に、痛いかどうかで入る」

「痛いかどうかって言い方やめて」

「でも合ってるだろ」

「合ってるけど」

 有馬が静かに言った。

「あなたは、作品を読むとき、すぐ人の痛みのほうへ行くのよ」

「有馬さんは、すぐ構造のほうへ行く」

「で、真壁は?」

 真壁は少し考えた。

「俺は……どっちも見るけど、まず“これ、うまいな”って思うかも」

「うまい、なんだ」

「だって、話の運び方とか、見せ方とか、あるだろ」

「それはわかる」

 路沙は少しだけうなずいた。

 真壁のそういうところは、たぶん受験勉強ともつながっている。文章の構造を見る癖があるのだろう。でも、それだけではない。構造だけ見て終わる人間の言い方ではなかった。

「三人とも、読み方が違うのね」

 有馬が言う。

「違うね」

 路沙が答える。

「でも、同じもの読んで話せるのはいい」

 真壁が何気なくそう言ったので、路沙は少しだけ黙った。

 有馬も、何も言わなかった。

 予備校の廊下を、次の授業へ向かう生徒たちが通り過ぎていく。

 誰かの参考書の角が、蛍光灯の光を一瞬だけ反射した。

「真壁って」

 路沙が言う。

「たまに、すごく普通にいいこと言うよね」

「たまに?」

「いつもじゃない」

「お前ら、その言い方好きだな」

「便利だから」

 有馬が言って、今度は三人とも少し笑った。

     *

 その日の帰り道は、三人で駅まで歩いた。

 予備校の授業が終わると、もう夜だ。駅前の店の明かりがはっきりして、制服姿の高校生たちも少し疲れた顔になる。昼間の学校とは違う顔だ。

「で」

 真壁が言う。

「結局、路沙はどこでいちばん泣いたんだよ」

「またその話?」

「気になるだろ。お前、“号泣した”って言ってたし」

「二回半くらいね」

 有馬が言う。

「有馬さん、その数え方まだ引きずってるの」

「便利だから」

「何でも便利で済ませるな」

 路沙は少し考えた。

 駅前の横断歩道の信号が赤から青に変わる。三人で渡る。

「……誰かが、誰かを理解したいと思うこと自体は本物なのに、それでも届かないところ」

「それ、昼にも言ってたな」

 真壁が言う。

「うん」

「お前、そういうのに弱いよな」

「弱いよ」

「なんで」

 その問いに、路沙は少しだけ困った。

 なんで、と言われると難しい。好きなものの理由を説明するのは、たいてい少し恥ずかしい。

「……たぶん、届かないのに、届こうとするのが好きだから」

 言ってから、少しだけ顔が熱くなった。

 真壁は何も言わず、有馬もすぐには口を開かなかった。

 少ししてから、有馬が静かに言う。

「それは、少しわかる」

 路沙はそちらを見た。

「泣いてないのに?」

「泣いてないけど」

「そこは別なのね」

「別でしょう」

 真壁が笑う。

「お前、ほんと泣くかどうかを重視するな」

「だって大事じゃん」

「大事だけど、唯一ではないだろ」

「それはそう」

 駅の改札が見えてくる。

 人の流れが少しずつ三方向に分かれていく。

「今度、別のも貸して」

 有馬が言った。

「漫画?」

「本でもいいけど」

「何系がいいの」

「あなたが、また泣いたやつ」

 路沙は少しだけ笑った。

「雑な指定」

「でも、わかりやすいでしょう」

「わかりやすいけど」

「じゃあ、次は何」

 真壁が横から訊く。

「お前も読むの?」

「読むかもしれない」

「原書で?」

 路沙が言うと、真壁は少しだけ笑った。

「それは作品による」

「無粋」

「今日は言われるなあ」

「自業自得」

 改札前で立ち止まる。

 真壁は別の路線、有馬と路沙は同じ改札を通る。

「じゃ、また明日」

 真壁が手を上げる。

「また」

 有馬が答える。

 路沙も小さく手を振った。

 真壁が人混みに紛れていくのを見送ってから、有馬がふいに言った。

「あなた、ほんとうに泣くのね」

「何それ」

「だって、前から知ってはいたけど、今日あらためて」

「有馬さんは、ほんとうに泣かないね」

「泣かないわけじゃないわよ」

「PLUTOでは泣かなかった」

「ええ」

「じゃあ何で泣くの」

 有馬は少しだけ考えた。

 改札機に定期を通しながら、視線を少し斜め上に向ける。

「……現実のほうが泣けるかもしれない」

 その答えは、路沙の予想と少し違っていた。

「現実?」

「ええ。作品で泣くこともあるけど、わたしはたぶん、現実に起きたことのほうが先に来る」

「へえ」

「あなたは逆でしょう」

「逆かも」

「だから、読み方が違うのね」

 改札を抜けた先の通路は、少しだけ人が少なかった。

 白い蛍光灯の下を、二人で並んで歩く。

「でも」

 有馬が言う。

「あなたがどうしてあれで泣いたのかは、前よりわかった」

「ほんとに?」

「少しだけ」

「少しだけ、ばっかりだね」

「全部わかったふうに言うのは、あまり好きじゃないの」

 その言い方が、有馬らしいと思った。

 きれいで、慎重で、でも逃げてはいない。

「それは、いいと思う」

 路沙が言うと、有馬は少しだけこちらを見た。

「珍しい。素直」

「たまにはね」

「たまに?」

「いつもじゃない」

 有馬が少し笑う。

 その笑い方は、教室で見せるものよりずっと静かで、でもたぶん本物だった。

 作品をどう読むかなんて、たぶん本当はどうでもいい。

 泣くか、泣かないか。構造を見るか、痛みを見るか。そんなことだけなら、ただの感想の違いだ。

 でも、その違いを雑に切り捨てずに話せる相手がいることは、路沙にとっては、どうでもよくないことだった。


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