第3話 アシモフの『校正』
その朝の路沙は、めずらしく機嫌がよかった。
機嫌がいいといっても、誰にでも愛想がよくなるわけではない。歩く速度が少し軽いとか、机に鞄を置く音がやわらかいとか、窓際の席に座ってから文庫本をしまう手つきが少し丁寧だとか、その程度の違いだ。けれど、見ている人が見ればわかる。
「今日、機嫌いいでしょう」
一時間目の前、有馬聖がそう言った。
路沙は英語のノートを出しかけた手を止めて、彼女を見上げる。
「そう?」
「そう」
「なんでわかるの」
「三日くらい曇ってた人が、急に晴れた顔してるから」
「天気予報みたいに言うね」
「当たってるでしょう」
当たっていた。
路沙は少しだけ口元をゆるめた。
「まあ、ちょっと」
「何かあったの」
「昨日、本読んだ」
「それで?」
「それで」
有馬は一瞬だけ黙って、それから小さく笑った。
「あなた、本当に単純なところあるわね」
「好きなものに関してはね」
「何を読んだの」
訊かれるのを待っていたみたいに、路沙は少し身を乗り出した。
「アシモフの『校正』」
「……アシモフって、アイザック・アシモフ?」
「そう」
「SFの?」
「そう」
「『校正』っていう作品があるの」
「ある」
教室の前のほうでは提出物が集められ、後ろでは体育祭実行委員の話が続いている。そのざわめきの中で、路沙の声だけが少し熱を帯びていた。
「すごいんだよ」
「何が」
「今のAIみたいな世界のこと、かなり前にもう考えてるの」
「AIみたいな世界」
「うん。もちろん今の生成AIそのものじゃないけど、機械が言葉を扱うことの気味悪さとか面白さとか、ちゃんとあるの。昔の作品なのに」
「へえ」
「昔の人が、今っぽいことを今っぽい人よりちゃんと考えてると、ちょっと悔しくならない?」
「その感覚は少しわかるかもしれない」
有馬がそう言ったところで、前の席の中村が振り返った。
「何の話?」
「SF」
路沙が答える。
「へえ、また難しそうなの読んでる」
「短編だよ」
「アシモフってロボットの人だっけ」
「そう」
「路沙さん、ほんとそういうの好きだよね」
その言い方は、褒めているのか少し引いているのか判別しづらかった。
たぶん本人も判別していないのだろう。
「好きだよ」
路沙は平らに答えた。
「何がそんなに面白いの?」
路沙は少し考えた。こういうとき、どこから説明するかでだいたい失敗する。
「機械が言葉を扱うときって、人間が思ってる“意味”とずれることがあるでしょ」
「うん?」
「で、そのずれが、ただ便利とか不便とかじゃなくて、もっと変な感じになるっていうか」
「……ごめん、全然わかんない」
中村は笑った。
悪意はない。ないのだけれど、その“全然わかんない”は会話を閉じるには十分だった。
「まあ、路沙さんっぽいけど」
別の子がそう言って、話題は自然にコスメや模試の話へ流れていった。
路沙は少しだけ肩をすくめて、ノートを開いた。
別に傷ついたわけではない。たぶん。
ただ、せっかく面白かったものの話が三十秒で終わるのは少しもったいないと思っただけだ。
「続き、あとで聞かせて」
有馬が小さな声で言った。
路沙は顔を上げる。
「聞くの」
「聞くわよ。気になってるもの」
「ほんとに?」
「ほんとに」
そのとき教師が入ってきて、一時間目の現代文が始まった。
有馬は自分の席へ戻りながら、振り返りもせずに言った。
「昼休み、図書室」
それだけで、路沙は少しだけ一日をやり過ごしやすくなった。
*
昼休みの図書室で、有馬は先に来ていた。
窓際の席に座り、机の上には紙パックの紅茶と、アシモフの短編集が置かれている。
「これ、借りたの」
路沙が言うと、有馬は文庫本を少し持ち上げた。
「朝、気になったから」
「早いね」
「図書室にあったから」
路沙は向かいに座る。
「で、どんな話なの」
「ざっくり言うと、文章を直す仕事の話」
「校正って、その校正」
「そう」
「地味そう」
「地味だよ。でも面白い」
「あなた、地味なものを面白がる才能あるわね」
「褒めてる?」
「半分くらい」
路沙は少しだけ笑った。
「昔のSFって、未来の道具を出すだけじゃなくて、人間の仕事とか考え方がどう変わるかをちゃんと考えてるのがいいんだよね」
「うん」
「で、『校正』は、言葉を扱う仕事が機械に近づいていく感じが、今読むとちょっとぞっとする」
「ぞっとするのに、わくわくするの?」
「する」
「変ね」
「変でいいよ」
有馬は少し黙ってから訊いた。
「あなた、AIって好きなの?」
「好きっていうか、面白い」
「信用してる?」
「してない」
「即答ね」
「便利だとは思う。でも、便利なのと信用できるのは別でしょ」
「それはそうか」
「あと、人間が“わかった気になる”のがいちばん危ない気がする」
「AIで?」
「AIでも、人間でも」
有馬はその言葉を少し考えるように黙った。
「あなたって、たまにすごくまともなこと言うわよね」
「たまに?」
「いつもじゃない」
「有馬さん、ほんと失礼だよね」
「知ってる」
予鈴が鳴る。二人は席を立った。
「読んだら感想言う」
「うん」
「でも、わたし、たぶんあなたみたいには興奮しないわよ」
「別にいいよ。読んでくれるだけで」
「珍しい。ずいぶん寛大」
「有馬さん相手だと、たまに寛大になる」
「それ、光栄に思っていいのかしら」
「少しは」
*
放課後、予備校へ向かう電車は昨日より少し空いていた。
路沙はドア横に立って、スマホをぼんやり見ていた。
「今日、機嫌いいな」
真壁透真の声がして、路沙は顔を上げた。
「みんな同じこと言うね」
「みんな?」
「有馬さんにも言われた」
「へえ」
真壁は吊り革につかまりながら、路沙の顔を少しのぞきこむ。
「で、何があった」
「本読んだ」
「またそれか」
「またそれ」
「何読んだの」
「アシモフの『校正』」
真壁は一瞬だけ黙った。
それから、あっさり言った。
「アシモフ? 英語の勉強になるから原書で読めばいいじゃん」
路沙は思わず真壁を見た。
「……は?」
「いや、アシモフくらいなら原書でいけるだろ。短編だし」
「いきなり何」
「何って、せっかく読むなら英語で読んだほうが得じゃん」
その言い方は軽いのに、内容だけ妙に具体的だった。
真壁はそういうところがある。普段の口調は雑なのに、勉強の話になると急に地盤が固い。
「真壁、アシモフ原書で読んでるの」
「アシモフはまだそんなに読んでないけど」
「読んでないんだ」
「でも英語で読むのは別に珍しくないだろ。俺、Z会の東大コースもやってるし、マヌエル・プイグでもR・F・クァンでも英語で読んでるよ」
路沙は数秒、黙った。
「……急に嫌な秀才アピールしないでくれる?」
「アピールじゃなくて事実」
「いちばん嫌なやつだよ、それ」
真壁は少し笑った。
「いや、でもお前、そういうの好きなら原書向いてると思うけど」
「向いてるかどうかと、気軽に読むかどうかは別でしょ」
「まあ、それはそう」
「第一、わたしは昨日、内容にわくわくしたのであって、英語力を鍛えたかったわけじゃないし」
「でも両方できたら効率いいじゃん」
「効率で読書する人ばっかりじゃないんだよ」
「してないよ。面白いから読むし、ついでに英語にもなるだけ」
その“ついでに”が、路沙には少し腹立たしかった。
たぶん真壁にとっては本当に“ついで”なのだろう。そういう人間がいることは知っているし、別に悪いとも思わない。けれど、同じ土俵に立たされると少しむっとする。
「何読んだの、R・F・クァン」
「『Babel』」
「原書で?」
「うん」
「高二で?」
「高二で」
「嫌味」
「だから事実だって」
電車が揺れる。
路沙は少しだけため息をついた。
「真壁って、普段もっとバカっぽいのに、たまにそういうこと言うよね」
「普段から別にバカじゃないけど」
「見た目と喋り方が損してる」
「お前にだけは言われたくない」
「わたしは最初から面倒くさそうでしょ」
「それはそう」
そこで後ろから「路沙さん」と声がした。
振り向くと、有馬が同じ車両の少し後ろから歩いてくるところだった。
「いた」
「いたよ」
「見ればわかる」
真壁が横で笑う。
「お前ら、会話が雑だな」
「真壁に言われたくない」
路沙が言うと、有馬が真壁を見た。
「何の話をしてたの」
「アシモフ」
真壁が答える。
「路沙が昨日『校正』読んで浮かれてたから、原書で読めばって言った」
有馬が少し目を上げる。
「原書で?」
「英語の勉強になるし」
「あなた、そういうの平気なの」
「平気っていうか、別に読むだろ」
「何を」
「最近だと、マヌエル・プイグとかR・F・クァンとか」
有馬は一瞬だけ黙った。
それから、ほんの少しだけ感心したように言う。
「……それは、だいぶ読むわね」
「有馬さんまで」
「事実でしょう」
路沙は少しだけ不服だった。
真壁が頭のいいことは知っていた。大手予備校の国立選抜クラスに高二でいる時点で、当然そうなのだ。けれど、こうして具体的な固有名詞を並べられると、急に輪郭が変わる。
「でも」
有馬が言う。
「路沙さんが日本語で読んでわくわくした、という話とは別じゃない?」
「別だけど」
真壁が肩をすくめる。
「せっかくなら原書もありってだけ」
「それはそうかもしれないけど、最初の感動に対して“英語の勉強になるから”って返すの、ちょっと無粋よ」
路沙は思わず有馬を見た。
有馬は真顔だった。真顔で、かなり正しいことを言っている。
「無粋かな」
真壁は少し考える。
「まあ、そうかも」
「そうだよ」
路沙が言う。
「わたしは昨日、アシモフすごいって話をしたかったのであって、英語多読の相談をしたわけじゃない」
「でも、お前、英語できるじゃん」
「できるのと、今その話をしたいのは別」
「なるほど」
真壁はそこで素直に引いた。
「じゃあ訂正。アシモフすごい、でいい」
「雑な訂正」
「でも合ってるだろ」
「まあ、合ってる」
三人で駅を降り、予備校まで歩く。
駅前の商店街には、夕方の匂いが混ざっていた。たこ焼き、排気ガス、ドラッグストアの洗剤、パン屋の甘い匂い。
「で、何がそんなにすごかったの」
真壁が今度はちゃんと訊いた。
路沙は少しだけ気を取り直す。
「今のAIみたいなことを、ずっと前に考えてるところ」
「うん」
「機械が言葉を扱うことの気味悪さとか、人間の仕事がどう変わるかとか」
「それはたしかに面白そう」
「でしょ」
「でも、そういうのって昔のSFけっこうあるよな」
「ある」
「じゃあアシモフが特別っていうより、昔のSF全体が強いんじゃないの」
路沙は少しだけ目を細めた。
その言い方は、雑ではない。ちゃんと論点を立てている。
「それもそう」
「じゃあ、昨日の感動は“アシモフすごい”というより、“昔のSFすごい”では?」
「……真壁、たまに嫌な詰め方するよね」
「議論の整理だろ」
「有馬さんみたいなこと言わないで」
「失礼ね」
有馬が言う。
「わたしはもっと丁寧に整理するわ」
「そこ張り合うんだ」
真壁が笑った。
「でも、路沙さんの言いたいこともわかる」
有馬が静かに言う。
「“昔のSFがすごい”は一般論で、“昨日、自分が読んでわくわくしたのがアシモフだった”は個別の話でしょう」
「そう、それ」
路沙は少し勢いよく言った。
「一般論にされると、昨日のわくわくが薄まる」
「なるほど」
真壁はうなずいた。
「それはわかった」
「ほんとに?」
「ほんとに。俺、たぶん最初に返す言葉を間違えた」
その認め方があまりにあっさりしていて、路沙は少し拍子抜けした。
「……素直だね」
「間違ってたら直すだろ」
「それができるのは偉い」
「お前、上からだな」
「真壁がたまにバカっぽいから」
「だからバカじゃないって」
有馬が少しだけ笑った。
「たしかに、真壁くんって、最初の印象よりずっと勉強ができる感じはするわね」
「最初の印象って何」
「もっと勢いだけで生きてる人かと思ってた」
「ひどいな」
「でも、少しは合ってるでしょう」
「少しはな」
予備校のビルが見えてくる。
ガラス張りの入口に、同じような制服姿の生徒たちが吸いこまれていく。
「ねえ」
有馬が言う。
「わたし、昼休みに少し読んだの」
「『校正』?」
「ええ」
「どうだった」
「面白い、というより、気持ち悪い」
路沙は思わず笑った。
「いい感想」
「褒めてるの?」
「かなり」
「人間がやっていたことを、別のものがやり始める感じが、少し落ち着かないのよね」
「うん」
「でも、たしかに今っぽい」
「でしょ」
真壁が横から言う。
「じゃあやっぱり原書で」
「まだ言うの」
「冗談半分」
「半分は本気なんだ」
「本気だよ。英語の勉強になるし」
「だから無粋だって」
「でも、お前ら二人とも、そのうち普通に原書読む側だろ」
その言い方に、有馬は少しだけ笑った。
「それはそうかもしれないけど」
「今はまだ、日本語でわくわくした話をしてるの」
「了解」
真壁は両手を軽く上げた。
「今日はそこを尊重します」
「今日は、って何」
「明日は知らない」
「感じ悪い」
「でも頭はいい」
路沙が言うと、真壁は少しだけ得意そうな顔をした。
「知ってる」
「そこは謙遜しないんだ」
「する必要ある?」
その返しがあまりに自然で、路沙は少しだけ笑ってしまった。
有馬も、ほんの少しだけ口元をゆるめている。
*
授業は英語長文だった。
講師は相変わらず速く、論理展開を矢印で板書し、接続詞に丸をつけ、設問の罠を説明していく。路沙はノートを取りながら、真壁の「原書で読めばいいじゃん」を思い出して、少しだけ腹が立ち、少しだけ感心していた。
授業後、自販機の前で三人は少し立ち話をした。
真壁はスポーツドリンク、有馬は温かいカフェラテ、路沙は水。
「で」
真壁が言う。
「結局、そのアシモフ、俺でも読めるの」
「読めるよ」
「日本語で?」
「日本語で」
「原書じゃなくて?」
「今日はその話しない」
「厳しいな」
「自業自得」
有馬がカフェラテを持ったまま言う。
「でも、真壁くんなら原書で読めるんじゃない?」
「読めると思う」
「自分で言うんだ」
「事実だから」
「嫌な秀才」
路沙が言うと、真壁は少し笑った。
「お前もそのうち読むって」
「読むかもしれないけど、今はまだ昨日のわくわくを日本語で反芻したいの」
「反芻って言うなよ、牛みたいだな」
「真壁、ほんと語彙の使い方が雑」
「でも意味は合ってるだろ」
「合ってるけど」
有馬が二人を見比べて、静かに言った。
「あなたたち、意外と相性いいのかもしれないわね」
「どこが」
路沙が言う。
「どこが」
真壁も言う。
「そうやって同時に返すところ」
今度は三人とも少し笑った。
*
帰り道、路沙は一人で電車に乗った。
窓の外はもう暗い。ガラスに映る自分の顔は、朝より少し疲れていて、でも悪くなかった。
アシモフの『校正』を読んだ。
今のAIみたいな世界の到来を予見していて、すごいと思った。
そのわくわくを、全部ではなくても、少しずつ受け取ってくれる人がいた。
しかも一人は、最初に無粋なことを言ったあとで、ちゃんと訂正した。
もう一人は、その無粋さを無粋だときちんと言葉にした。
そういうことは、案外大事なのかもしれない。
好きなものの話をするときだけ、人を少し信用する。
昨日、有馬にそう言われたことを思い出す。
たぶん、その通りだった。
そして今日、自分は昨日より少しだけ、信用する範囲を広げてしまったのかもしれない。
それがいいことなのかどうかは、まだわからない。
でも少なくとも、悪いことばかりでもなさそうだった。




