第2話 読んではいけないものなんて
英作文の授業で「空」をどう訳すかという話があったのは、もう三日も前のことだった。
学校という場所は、思っているよりずっと速く進む。
一時間に五つも六つも英文を処理して、次の時間にはもう別のプリントが配られ、別の単語が赤で囲まれ、別の生徒が当てられる。教師は立ち止まらないし、生徒も基本的には立ち止まらない。あの日の emptiness にしたって、路沙のノートの上ではまだ赤い斜線のまま残っていたけれど、教室全体としてはとっくに終わった話だった。
ただ、終わった話と、消えた話は違う。
昼休み、路沙はそのことをぼんやり考えながら、教室の窓際の自分の席で弁当箱を開けていた。
白いご飯の上に梅干しがひとつ。卵焼き。ほうれん草のおひたし。昨夜の残りの小さな唐揚げとハンバーグ。キャベツの千切り。プチトマトと茹でたブロッコリーが1つ。これでおかず8品。幼稚園でさんざんお弁当の品数は8品目は用意と指導されたのが高校生になっても続いている。友達のお母さんの中にはデパ地下のお弁当みたいな豪華な幕の内弁当を作る人もいる。わたしの母の弁当はいつも地味で、でも味はいい。路沙は卵焼きを半分かじって、窓の外を見た。中庭の木が、五月の風に少しだけ揺れている。
教室の中央では、四、五人の女子が机を寄せて昼食を広げていた。
話題は、最初は昨日の小テストの点数で、それから急に動画配信者の話になり、さらに今度は漫画の話へ移った。
「最近、何読んでる?」
誰かがそう言った。
「わたし、『チ。』途中まで読んだ」 「え、重くない?」 「でも面白いよ」 「わたしは最近、恋愛ものしか無理」 「疲れてるとき、しんどいの読めないよね」
その流れで、なぜか路沙のほうに視線が向いた。
たぶん、前に有馬が一度だけ「路沙さんって本とか漫画、詳しそう」と言ったせいだ。あれ以来、教室の中でたまに、彼女は“変わったものを読む人”として雑に認識されている。
「白谷さんは?」
訊いたのは、たしか佐伯だった。
悪意のない顔をしている。悪意のない顔の質問が、いちばん答えに困ることがある。
「最近?」
「うん。なんか読んでる?」
路沙は少し考えた。
ここで無難なものを言えばいいのだろうとは思った。『葬送のフリーレン』とか、『ブルーピリオド』とか、そういう、賢くて感じがよくて、でも引かれない範囲のものを。実際、どちらも好きだった。
でも、ちょうど昨夜、寝る前に読み返していたのは別のものだった。
「……『ウシジマくん』」
一瞬、教室の空気が止まった。
「え」
佐伯が笑いかけた口のまま固まる。
隣の子が「えっ」と小さく言って、それから、どう反応するのが正解か探るみたいに周囲を見た。
「闇金のやつ?」 「そう」 「読んでるの?」
「読んでる」
路沙は答えた。
答えながら、ああ、と思った。もう遅い。空気が変わるときは、たいてい一秒もかからない。
「なんか……意外」 「意外っていうか」 「こわくない?」
こわいよ、と路沙は思った。
こわいに決まっている。だから読むのだ。
でも、その説明はたぶん、ここではうまく通らない。
「こわいけど、面白いから」
「えー……」
誰かが曖昧に笑った。
その笑いは、前の英作文のときほど露骨ではない。もっと上品で、もっとやわらかくて、だからこそ逃げ場がない。
「そういうのって、なんか……読んじゃいけない感じしない?」
別の子が言った。
声は小さい。責めるというより、本当に不思議そうだった。
「読んじゃいけない?」
「だって、ああいうのって、すごく悪い世界の話じゃない? 暴力とか、お金とか、女の子がひどい目に遭うやつとか」
「そういうのがあるから読んでるわけじゃないけど」
「でも、なんでわざわざ?」
なんでわざわざ。
その問いは、路沙にとってはかなり本質的だった。
なぜ、わざわざ、しんどいものを読むのか。
なぜ、きれいじゃないものに目を向けるのか。
彼女は箸を置いた。
「住んでる世界は全然違うけど、共感するところがあるから」
今度こそ、空気がはっきり変わった。
「共感?」
佐伯が、少しだけ眉をひそめる。
「え、どこに?」
「どこって……」
路沙は言葉を探した。
こういうとき、彼女はいつも少し遅れる。頭の中には感覚があるのに、それを教室向けの言葉にするのが下手だった。
「追いつめられて、変な見栄張ったりとか。自分でもよくないってわかってるのに、そっちに行っちゃう感じとか。あと、誰にも助けてもらえないまま、ちょっとずつ変なほうに行く感じとか」
沈黙。
それから、誰かが小さく言った。
「……こわ」
その一言で、全部が決まった気がした。
「いや、別に同じことするって意味じゃないよ」
路沙は慌てて言った。
「そうじゃなくて、人が追いつめられるときの感じが、わりとちゃんと描いてあるっていうか」
「でも、そういうのに共感するって、ちょっと危なくない?」
「危ないって」
「なんか、影響されそうじゃない?」
影響。
その言葉に、路沙は少しだけ笑いそうになった。
影響されるから読まない、という発想は、彼女にはずいぶん幼く思えた。けれど、その幼さをここで指摘したら、たぶんもっと悪くなる。
「影響されるっていうか、考える材料にはなるでしょ」
「でも、カトリックの学校だし」
誰かがそう言った。
それはたぶん、決定打のつもりではなかった。ただ、なんとなく“正しい側”に立てる言葉として出てきたのだろう。
「そういうのって、あんまりよくないんじゃない?」
よくない。
読んではいけない。
危ない。
こわい。
言葉が、やわらかい綿みたいに次々積もっていく。
殴られているわけではないのに、息がしづらくなる。
「別に、学校に持ってきて回し読みしてるわけじゃないし」
路沙はなるべく平らな声で言った。
「家で読んでるだけだよ」
「でも、そういうの好きって、ちょっと……」
その“ちょっと”の先を、相手は言わなかった。
言わなくても十分だった。
教室の前のほうで椅子が引かれる音がした。
路沙はそちらを見た。有馬聖が、自分の席から立ち上がっていた。昼食を終えたらしく、空の弁当箱を小さな巾着にしまっている。彼女は一瞬だけこちらを見た。視線が合う。けれど、すぐには何も言わなかった。
その沈黙が、路沙には少し痛かった。
「ごめん、わたし、図書室行くから」
そう言って、路沙は弁当箱を閉じた。
まだ唐揚げが一つ残っていたけれど、食欲はなくなっていた。
「え、もう?」 「うん」
誰も引き止めなかった。
それがいちばん自然で、いちばんきれいな排除だった。
*
図書室は昼休みの終わりかけになると少し空く。
路沙は窓際の席に座って、借りるつもりもない新書を一冊開いた。内容はほとんど頭に入らない。ページをめくる指先だけが動いている。
別に、慣れていないわけではなかった。
小学校のころから、好きな本や漫画や映画の話をすると、たいていどこかで少しずれる。
みんなが「かわいい」「泣ける」「かっこいい」で済ませるところを、路沙は別のところで引っかかる。
みんなが避けるものに、彼女は妙に誠実なものを見つけてしまう。
そのたびに、説明しようとして、うまくいかなくて、面倒になって、黙る。
だから今日のことだって、特別新しいわけではない。
ただ、少しだけ疲れた。
「ここ、いい?」
声がして、路沙は顔を上げた。
有馬聖が立っていた。
図書室の静かな光の中だと、彼女は教室にいるときより少しだけ輪郭がやわらかく見える。けれど、やっぱりきれいだった。きれいな人というのは、たぶん図書室でもきれいなのだ。
「……どうぞ」
有馬は向かいの席に座った。
しばらく何も言わない。路沙も言わない。図書室の奥で、司書の先生が返却本を棚に戻す音だけがする。
「さっき」
先に口を開いたのは有馬だった。
「止められなくて、ごめん」
路沙は少し瞬いた。
「別に、有馬さんが謝ることじゃないでしょ」
「でも、あの空気、よくなかった」
「うん」
「わたし、わかってたのに」
その言い方が少し意外で、路沙は本を閉じた。
「わかってた?」
「白谷さんが、変なことを言ってるわけじゃないって」
有馬はまっすぐ言った。
まっすぐすぎて、少し困るくらいだった。
「……変なことは言ってるよ」
「そういう意味じゃなくて」
「わかってる」
路沙は視線を落とした。
机の木目が、妙に細かく見える。
「でも、止めなくてよかったよ」
「どうして」
「止めたら、たぶんもっと変な感じになってた」
「それはそうかもしれないけど」
「有馬さんがあそこで急に味方したら、たぶんみんな、わたしが庇われる側の変な人になっただけだし」
有馬は少し黙った。
それから、小さく息をつく。
「あなた、そういうところだけ妙に冷静ね」
「そういうところだけじゃないけど」
「そうかしら」
少しだけ、空気がやわらいだ。
「……でも」
有馬が言う。
「本当に共感するの?」
「するよ」
「『ウシジマくん』に?」
「する」
「どこに」
昼休みと同じ問いだった。
でも、今度は少し違った。
知りたいから訊いている声だった。
路沙は少し考えてから答えた。
「たとえば、自分は大丈夫だと思ってる人が、ちょっとずつ変なほうに行く感じとか」
「うん」
「あと、見栄とか。自尊心とか。そんなに大したものじゃないのに、それを守ろうとして余計ひどくなる感じとか」
「……それは、わかるかもしれない」
有馬がそう言ったので、路沙は顔を上げた。
「わかるの」
「少しだけ」
「有馬さんが?」
「失礼ね」
「いや、だって」
有馬聖は、少なくとも路沙の目には、そういう泥臭い失敗からいちばん遠いところにいる人だった。
成績優秀、品行方正、容姿端麗。先生にも生徒にも好かれていて、たぶん人生で“ちょっとずつ変なほうに行く”経験なんてしたことがない。
そう思っていたのが顔に出たのか、有馬は少しだけ笑った。
「わたしだって、見栄くらいあるわよ」
「あるんだ」
「あるわよ」
「なんか安心した」
「どういう意味?」
「人間っぽい」
「ひどい」
でも、有馬は怒っていなかった。
むしろ少し楽しそうだった。
「それに」
彼女は続ける。
「共感って、同じことをするって意味じゃないでしょう」
路沙は一瞬、言葉を失った。
それは、昼休みに自分がうまく言えなかったことだった。あるいは、言いたかったけれど、教室の空気の中では言葉にする前に潰れてしまったことだった。
「……うん」
「さっき、あなたが言ってたこと。たぶん、そういう意味だったんでしょう」
「そう」
「だったら、別におかしくないと思う」
図書室の窓から、風が少し入ってきた。
ページの端がめくれそうになって、路沙は手で押さえた。
「有馬さんって」
気づくと、そう言っていた。
「たまに、すごくちゃんとしたこと言うね」
「たまに?」
「いつもじゃない」
「失礼ね、ほんとうに」
「でも、教室だともっと、模範解答みたいな感じなのに」
有馬は少しだけ目を細めた。
「それ、褒めてないでしょう」
「褒めてない」
「正直ね」
「有馬さんも」
「わたし?」
「今、ちょっと面白がってる」
「……少しはね」
認めるのか、と思って、路沙は少しだけ笑った。
そのとき、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
図書室の空気が、わずかに動く。席を立つ生徒、本を閉じる音、司書の先生の「返却はカウンターへお願いします」という穏やかな声。
「戻ろうか」
有馬が立ち上がる。
「うん」
路沙も本を閉じた。借りるつもりはなかったので、そのまま棚に戻す。背表紙を指でなぞっていると、有馬がふいに言った。
「ねえ」
「なに」
「その……『ウシジマくん』って、そんなに面白いの?」
路沙は振り返った。
「すっごく面白いよ」
「怖そうだけど」
「怖いよ」
「じゃあ、なんで勧めるみたいな顔するの」
「勧めてはない」
「してるわよ、少し」
有馬は本気なのか冗談なのかわからない顔をしていた。
路沙は少し考えてから言う。
「別に、無理して読まなくていいよ」
「無理はしない」
「たぶん有馬さん、嫌いかも」
「そうかもしれない」
「でも、もし読んだら、感想は聞きたい」
「読む前提なのね」
「有馬さん、気になってるでしょ」
「……少しだけ」
その“少しだけ”は、たぶん本当だった。
*
午後の授業は古文だった。
先生が助動詞の活用を板書し、生徒たちが一斉にノートを取る。教室はもう、昼休みの空気をほとんど引きずっていない。誰かが当てられて、誰かが笑って、誰かが眠そうにしている。世界は何事もなかったみたいに進む。
路沙もノートを取った。
ただ、前の席の有馬のうなじが、いつもより少しだけ近く感じられた。
放課後、予備校へ向かう電車の中で、路沙は文庫本を開いていた。
駅前の混んだホーム、制服姿の高校生、部活帰りの中学生、スーツの会社員。夕方の電車はいつも少しだけ息苦しい。
「何読んでるの」
隣から声がして、路沙は顔を上げた。
真壁透真だった。
予備校の特別選抜クラスで一緒の男子生徒。筑駒。GUらしい私服。背が高くて、いつも少しだけ声が大きい。悪いやつではないが、静かな車内で話しかけられると少し困るタイプでもある。
「なんで筑駒生が四ツ谷にいるの?」
「おじさんが上智の先生で洋書を処分するから欲しいのあったらあげるって言うんで研究室寄ってきたとこ」
「おじさん、上智の先生なんだ」
「うん。で、何読んでるの?」
真壁は吊り革につかまりながら、路沙の手元をのぞきこんだ。
「小説?」
「エッセイ」
「へえ。珍しく軽そう」
「珍しく?」
「いつももっと、なんか難しそうなの読んでるイメージ」
「イメージで人を読むな」
「読むだろ、普通」
普通。
その言葉に、昼休みのことが少しだけよみがえった。
たぶん顔に出たのだろう。真壁が首をかしげる。
「なに。なんかあった?」
「別に」
「その“別に”は、だいたい別にじゃないやつ」
「真壁って、そういうとこだけ妙に勘がいいね」
「そういうとこだけってなんだよ」
電車が揺れる。
路沙は本を閉じた。どうせあと二駅で着く。
「昼休みに、漫画の話してて」
「うん」
「『ウシジマくん』読んでるって言ったら、ちょっと引かれた」
「……あー」
真壁は、すぐに事情を察した顔をした。
「女子校っぽい」
「偏見」
「でも、なんかわかる」
「わかるんだ」
「いや、俺の学校だと読んでるやついるけど、厳しい女子校じゃ“感じよく拒絶”されそう」
感じよく拒絶。
言い得て妙だったので、路沙は少しだけ笑った。
「それ」
「当たってた?」
「だいたい」
「で、お前はなんて言ったの」
「共感するところがあるって」
「それはまた、火に油だな」
「そうかな」
「そうだろ。もっと無難に、“社会勉強になる”とか言っとけばいいのに」
「それは嘘っぽい」
「嘘でも丸く収まるやつあるじゃん」
「嘘つけない性格なんだよね」
真壁は少し黙った。
それから、珍しくまじめな声で言った。
「そういうとこ、偉いとは思う」
「偉くないよ。損してるだけ」
「でも、そういうやつのほうが信用できる」
電車が駅に滑り込む。
ドアが開いて、人が少し入れ替わる。
「真壁は読んだことあるの」
「ある。全部じゃないけど」
「どうだった」
「20年以上前の、俺たちが生まれる前から連載してた作品なんだよね。でも、今と変わらないところが面白い」
「うん」
「共感っていうのも、まあ、わからなくはない」
路沙は少しだけ驚いた。
真壁はもっと、そういう話を雑に処理するタイプだと思っていた。
「意外」
「お前に言われたくない」
「どこに共感したの」
「見栄張って失敗するところ」
「人間っぽいね」
「お前、それ有馬にも言ってただろ」
「なんで知ってるの」
「知らねえけど、言いそう」
路沙は少し笑った。
電車の窓に映る自分の顔が、昼より少しだけましに見えた。
*
予備校の授業は、いつも通り速かった。
英文解釈、英作文、長文読解。講師は板書をしながら、入試ではこう書く、ここは減点される、ここは出題者の意図を読め、とテンポよく進めていく。学校よりずっと実利的で、でもそのぶん、変な感情が入りこむ余地が少ない。
授業が終わると、教室の空気が一気にほどけた。
椅子の音、プリントをしまう音、スマホを取り出す音。
路沙が鞄に筆箱を入れていると、後ろから声がした。
「白谷さん」
振り向くと、有馬だった。
予備校の教室で見ると、彼女は学校にいるときより少しだけ匿名性が高い。もちろん目立つのだけれど、ここでは“有馬聖”というより、“成績のいいきれいな女子生徒の一人”に近い。
「なに」
「今日、帰り一緒でいい?」
「真壁もいるけど」
「別にいいわよ」
「わたしに訊くんだ」
「あなたのほうが嫌がりそうだから」
「有馬さん、たまに失礼だよね」
「たまに?」
その言い方が少しおかしくて、路沙は肩をすくめた。
三人で予備校を出る。
駅前はもう薄暗くなり始めていて、コンビニの明かりがやけに白い。制服姿の高校生たちが、同じように駅へ流れていく。
「そういえば」
真壁が言った。
「昼の話、結局どうなったんだよ」
「どうにも」
路沙が答える。
「感じよく拒絶されて終わり」
「感じよく拒絶って、なにそれ」
有馬が少し眉を上げる。
「真壁の表現」
「正確だった?」
「かなり」
有馬は少しだけ黙って、それから言った。
「……たしかに、そうかもしれない」
「有馬さん、いたの?」
「いたわよ」
「止めなかったんだ」
「止められなかったの」
その言い方に、真壁は少しだけ空気を読んだらしい。
珍しく、それ以上は軽口を叩かなかった。
「でも」
有馬が続ける。
「わたし、少し考えたの。共感って、同じことをしたいって意味じゃないでしょう」
「うん」
「だったら、別におかしくないわよね」
真壁が「へえ」と言って、路沙を見る。
「よかったじゃん。理解者増えて」
「理解者ってほどじゃない」
「でも、ちゃんと聞いてくれる人ではあるでしょ」
路沙は答えなかった。
答えない代わりに、少しだけ歩幅をゆるめた。すると有馬が自然に隣に並ぶ。
「ねえ」
有馬が言う。
「もし、わたしが読むなら、何巻がいちばん嫌な感じ?」
「勧め方として最悪の質問だね」
「でも気になるじゃない」
「嫌な感じで選ぶの?」
「あなたが共感したって言うなら、その理由がいちばん出てるところを知りたいの」
路沙は少し考えた。
真壁が横から「真面目か」と笑う。
「……たぶん、フリーターくんの話とか」
「フリーターくん」
「うん」
「タイトルからして嫌そう」
「嫌だよ」
「でも読む価値はある?」
「ある」
有馬は小さくうなずいた。
「じゃあ、今度貸して」
路沙は思わず立ち止まりそうになった。
「本気で?」
「本気で」
「やめたほうがいいかも」
「どうして」
「有馬さん、たぶん、読んだあとすごく嫌な気持ちになる」
「それでも、あなたがどうしてウシジマくんに共感するのかは知りたい」
夕方の駅前は人が多くて、立ち止まると流れに押される。
だから路沙は歩きながら、その言葉だけを何度も頭の中で反芻した。
知りたい。
有馬聖が、そう言った。
理解したい、ではなく。
正しいかどうか裁きたい、でもなく。
知りたい。
「……じゃあ、今度持ってくる」
「ありがとう」
有馬は、ほんの少しだけ笑った。
その笑い方は、教室で見せるものよりずっと静かで、でもたぶん本物だった。
駅の改札が見えてくる。
三人の帰る方向はそこで分かれる。
「じゃ、また明日」
真壁が手を上げる。
「また」
有馬が答える。
路沙も小さく手を振った。
真壁が人混みに紛れていくのを見送ってから、有馬がふいに言った。
「ねえ、路沙さん」
「なに」
「今日、図書室で言ってたこと」
「どれ」
「“有馬さんって、たまにすごくちゃんと言うね”って」
「うん」
「たまにじゃなくて、わりといつもちゃんと言ってるつもりなんだけど」
路沙は少し考えた。
それから言う。
「じゃあ、教室だとそう見えないのかも」
「それは困るわね」
「困って」
「少しは」
改札前の人波が、二人のあいだを少しだけ押し広げる。
有馬は定期を取り出しながら、ふとこちらを見た。
「でも、あなたも」
「なに」
「好きなものの話をするときだけ、少しだけ人を信用するのね」
その言葉は、思っていたより深く刺さった。
路沙はすぐに返事ができなかった。
有馬はそれ以上何も言わず、改札を抜けていく。
白いシャツの背中が、人の流れの中で少しずつ遠ざかる。
路沙はしばらくその場に立っていた。
それから、自分も別の改札へ向かった。
読んではいけないものなんて、たぶんない。
少なくとも、最初から誰かにそう決められていいものではない。
ただ、読んだものの話をするとき、
その人が何に共感したのかを、ちゃんと聞いてくれる人は少ない。
少ないけれど、いないわけではないのだと、
今日はそれだけで、少しだけましだった。




