第1話 空(くう)は空(そら)ではない
英作文の授業で、人があんなふうにきれいに笑いをそろえることがあるのだと、路沙はその日、少し感心していた。
黒板の上半分に、白いチョークで日本語が書かれている。
インドの五大元素は、宇宙や人間を含む森羅万象を構成する五つの基本要素である「地・水・火・風・空」を指す。
五月の午後だった。窓の外では、グラウンドの端に植えられた若い欅が、風に吹かれてまだ頼りなく揺れている。カトリック系の女子校らしく、教室の前には小さな十字架が掲げられていて、その下で英語教師の高槻が、受験参考書の模範解答みたいな顔をして立っていた。
「はい、じゃあこれを英訳してみましょう。ポイントは“空”をどう訳すか、ですね」
高槻はそう言って、教卓の上の名簿を軽く叩いた。
「有馬」
「The five great elements in Indian thought refer to the five basic elements that make up all things in the universe and human beings: earth, water, fire, wind, and sky.」
「はい、きれいですね。十分です」
有馬聖は、いつものように背筋を伸ばして座ったまま、小さく会釈した。声に無駄がない。答えにも無駄がない。彼女の英語はいつも、正しい場所に正しい部品をはめこんだ模型みたいだった。
高槻は二、三人を続けて当てた。みんなだいたい同じ答えを言った。earth, water, fire, wind, and sky.
そして、誰かが言った。
「でも先生、インド人って空を元素に入れるんですか? skyってことですよね?」
教室のあちこちで、くすくすと笑いが起きた。
「まあ、思想的なものだからね。現代科学とは違うよ」
高槻も少し笑った。
「昔の人の世界理解としては面白いよね。空まで入れちゃうんだ、っていう」
その瞬間、教室の空気がひとつにまとまった。
ああ、ここは笑っていいところなんだ、と全員が理解した顔だった。
路沙は頬杖をついたまま、黒板の「空」という字を見ていた。
空。
その字は、上が穴で、下が工だった。
穴があって、つくる。
あるいは、穴のように、つくられている。
sky。
違うだろ、と思った。
違う、というより、浅い。
浅いというより、平たい。
平たいというより、もったいない。
「じゃあ、路沙さん」
高槻の声で、教室の視線が一斉に集まる。
路沙はゆっくり顔を上げた。
「はい」
「あなたの訳は?」
ノートには、すでに英文を書いてあった。
彼女は立ち上がり、読み上げる。
「The five great elements in Indian thought refer to earth, water, fire, wind, and emptiness, the five fundamental constituents of all phenomena, including the universe and human beings.」
一秒。
二秒。
それから、教室が笑った。
さっきより、はっきりと。
「え、emptiness?」 「虚無ってこと?」 「なんか厨二っぽい」 「いや空でしょ、空」 「それ仏教じゃないの?」
誰かがそう言って、また笑いが広がる。高槻は困ったように口元をゆるめ、それから教師らしい顔に戻った。
「うん、路沙さん。気持ちはわからなくもないけど、この場合はそこまで哲学的に取らなくていいです。普通に sky でいい」
「でも」
路沙は言った。
「“空”は sky じゃないです」
教室が少し静かになる。
その静けさは、彼女に耳を傾けるためのものではなく、変なことを言い出した人を観察するためのものだった。
「インド思想の五大って、たぶん単なる物質の一覧じゃなくて、存在の層というか、性質の分類というか。空は上空のことじゃなくて、空間とか、容れものとか、もっと非実体的な——」
「はいはい、そこまででいいです」
高槻はやわらかく遮った。
やわらかいのに、きっぱりしていた。
「授業では、伝わる英語を優先しましょう。emptiness だと意味がずれて伝わる可能性が高い。受験でも不利です」
「でも sky のほうがずれてます」
今度は、笑いではなく、ざわめきが起きた。
有馬聖が、前の席から少しだけ振り返る。整った横顔。まっすぐな眉。彼女はたぶん、路沙がどこまで本気なのか測っていた。
高槻はチョークを置いた。
「路沙さん。英語は、あなたの思想を披露する場じゃない。相手に通じるように書くものです」
「思想を削ったら、通じたことにならない場合もあります」
「この文でそこまで要求されていません」
「要求されてなくても、元の文にあるものを勝手に減らすのは誤訳です」
教室の空気が、すっと冷えた。
ああ、と路沙は思った。
ここで止まれば、まだ“ちょっと変わった子”で済む。
でも、止まれなかった。
「“空”を sky にした瞬間、宇宙論が天気の話になります」
誰かが吹き出した。
それをきっかけに、また笑いが起きる。
高槻はため息をついて、赤ペンを取った。
「はい、じゃあ採点します。路沙さんの emptiness は、この授業では不適切。バツです」
ノートが返ってくる。
赤い斜線が、彼女の書いた emptiness を横切っていた。
その線は、単語を消しているというより、そこに含まれていたはずの奥行きを平らに潰しているように見えた。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。
祈りの前のざわめきみたいに、椅子の音と声がいっせいに立ち上がった。
路沙はノートを閉じた。
emptiness の上に引かれた赤線が、閉じる直前にもう一度だけ見えた。
まるで、傷口みたいだった。
*
放課後、路沙は聖堂の裏にいた。
校舎と修道院をつなぐ石畳の小道を抜けた先に、小さな中庭がある。手入れされた低木と、古いマリア像と、誰も座らない白いベンチ。生徒たちはだいたいここを「なんか神聖すぎて落ち着かない場所」と認識していて、だからこそ路沙は気に入っていた。
ベンチに座って文庫本を開く。
表紙カバーの下に隠してあるのは、メタSFの短編集だった。作中人物が自分の登場する物語の脚注を発見して発狂する話が入っている。最高だ。
「ここにいたんだ」
声がして、路沙は顔を上げた。
有馬聖が立っていた。夕方の光が、彼女の肩のあたりだけ薄く金色にしている。制服の着こなしまできれいで、たぶんこの人は寝起きでも品行方正に見えるんだろうな、と路沙は思った。
「なに」
「別に。……ちょっと気になっただけ」
「わたしが?」
「今日の授業」
有馬はベンチの端に立ったまま、座ろうとはしなかった。
「あなた、本気で言ってたの?」
「どのへん」
「sky は誤訳で、emptiness のほうが正しいって」
「本気だけど」
「でも emptiness って、普通は“空虚”とか“むなしさ”でしょう」
「普通はね」
「だったら、授業では普通の意味で取られるじゃない」
「sky も普通の意味で取られるよ。だから困るんじゃん」
有馬は少し眉を寄せた。
怒っているというより、理解できないものを前にしている顔だった。
「路沙さんって、わざと話を難しくしてる?」
「してない。むしろ逆。みんなが雑にしてるのを戻してるだけ」
「雑って……」
「だってそうでしょ。空って、空じゃん」
「それ説明になってない」
「説明すると長い」
「して」
即答だった。
路沙は少しだけ目を丸くした。
有馬聖は、もっと“関わらない”タイプだと思っていた。正しい答えの側にいて、わざわざ誤答者のところまで降りてこない人だと。
「……インド思想の“空”って、たぶん物理的な空だけじゃないんだよ。ものが存在できる余地とか、広がりとか、他の元素を成立させる場とか。見えないけど、ないと困るもの」
「space じゃだめなの?」
「space でもいいかもしれない。でも英作文の一文だけ切り取ると、space もかなり物理寄りになる」
「じゃあ emptiness?」
「完全に正解とは言ってない。ただ、sky よりは“実体がないけど重要なもの”に近い」
有馬は黙った。
風が吹いて、マリア像の足元に落ちていた葉が転がる。
「でも、先生が言ってたこともわかる」
彼女は言った。
「英語は相手に伝わるように書くもの、って」
「うん」
「だったら、伝わりにくい言葉を選ぶのは不親切じゃない?」
「伝わりやすさのために別のものにすり替えるほうが不親切なこともある」
「それは、誰に対して?」
「元の文」
有馬は、そこで初めて少しだけ笑った。
呆れたような、でも完全には否定しきれない笑いだった。
「文に人権あるみたいに言うね」
「あるでしょ」
「ないよ」
「あるよ。少なくとも、勝手に浅くされない権利くらいは」
「……変な人」
「知ってる」
路沙は本を閉じた。
有馬はまだ立っている。座ればいいのに、と思ったが、言わなかった。彼女はたぶん、座ると負けた気がするタイプだ。
「有馬さんは、sky で納得してるの」
「授業としては、ね」
「授業としては、って便利な言い方だね」
「便利じゃないよ。必要なの」
「必要だから、ほんとは違うと思ってても合わせるの?」
「ほんとは違うとまでは言ってない」
「じゃあ、少しは思った?」
有馬は答えなかった。
その沈黙だけで、路沙には十分だった。
遠くで部活のホイッスルが鳴る。
聖堂の鐘は、まだ鳴らない。
「……あなたさ」
有馬がぽつりと言った。
「なんでそんなに、言葉にこだわるの」
路沙は少し考えた。
考えなくても答えはあったけれど、そのまま出すとたぶん変すぎると思った。
「世界が、言葉でできてる感じがするから」
「詩人みたい」
「ちがう。もっと嫌な意味で」
「嫌な意味?」
「誰かが雑な言葉を使うと、ほんとに世界のほうが雑になる感じがする」
有馬は、今度こそ露骨に困った顔をした。
それを見て、路沙は少しだけ安心した。
理解されないことには慣れている。でも、最初から理解したふりをされるよりは、困ってくれたほうがましだった。
「……やっぱり、よくわからない」
「うん」
「でも」
「でも?」
「今日、みんなが笑ったとき。あなた一人だけ怒ってたのは、ちょっとだけ、わかった」
その言い方はずるい、と路沙は思った。
全部はわからないけど、少しだけわかる。
そういう言葉は、変に救いになる。
「怒ってたかな」
「怒ってたよ。静かだったけど」
「有馬さん、観察力あるね」
「クラス委員だから」
「関係ある?」
「あるの」
ようやく彼女はベンチの反対端に座った。
白いベンチの真ん中には、制服一人分くらいの距離が空いている。
その距離を見て、路沙はなぜか少しおかしくなった。
「なに」
「いや。ちゃんと遠いなって」
「近く座ってほしかった?」
「別に」
「じゃあいいでしょ」
「いいけど」
沈黙。
風。
夕方。
聖堂の壁に、木の影が揺れている。
「……emptiness ってさ」
有馬が言った。
「“空っぽ”って意味だけじゃないの?」
「英語圏でどういう哲学的蓄積があるかにもよるけど、少なくとも“何もない”だけではない場合がある」
「難しい」
「うん」
「じゃあ、あなたなら最終的にどう訳すの」
路沙は少し考えて、それから肩をすくめた。
「たぶん、一語では訳さない」
「は?」
「注釈つける」
「英作文で?」
「ほんとはそのくらい必要」
「それは反則でしょ」
「世界のほうが先に反則してる」
有馬は吹き出した。
今度の笑いは、教室の笑いとは違った。
誰かを平らにするための笑いじゃなくて、意味のわからなさに耐えきれなくなって漏れる笑いだった。
そのとき、聖堂の裏口が開いた。
「まあ。こんなところで哲学討論?」
二人そろって振り向く。
修道服姿のシスター・マグダレナが、買い物帰りらしい紙袋を提げて立っていた。年齢のわかりにくい、静かな目をした人だ。学校では古典と倫理の補助をしていて、生徒のあいだでは「たまに何言ってるかわからないけど、たぶんすごい人」と認識されている。
「討論ってほどじゃ……」
有馬が立ち上がりかけると、シスターは手で制した。
「いいのよ、座っていて。で、何について?」
路沙は少し迷ってから言った。
「“空”を sky と訳すのは雑じゃないかって話です」
シスターは一度だけ瞬きをした。
それから、ふっと笑った。
「まあ。それはまた、面白いところで揉めたのね」
「揉めてはないです」
「揉めてる人はみんなそう言うのよ」
シスターは紙袋をベンチの脇に置いた。
「で、あなたはどう訳したの?」
「emptiness」
「なるほど」
「バツでした」
「でしょうね」
あっさり言われて、路沙は少しむっとした。
シスターはその顔を見て、やさしく続ける。
「バツになることと、考える価値がないことは、同じじゃないわ」
有馬が、少しだけ身を乗り出した。
「シスターはどう思われますか。“空”は sky でいいんでしょうか」
「授業としてなら、そういう処理もあるでしょうね」
「ほら」
有馬が小さく言うと、シスターは首を横に振った。
「でも、“でいい”と“それで尽くせる”は別よ」
路沙は顔を上げた。
シスター・マグダレナは、夕方の光の中で、まるで最初からそこに答えが置いてあったみたいな口調で言った。
「言葉はね、意味を運ぶ箱ではないの。
ときどき、世界のほうを削ってしまう刃物にもなるのよ」
風が止んだ。
その一瞬だけ、中庭の空気が妙に澄んだ気がした。
路沙は息をするのを忘れたみたいになって、シスターを見た。
「だから、何をどう訳すかは、案外こわいことなの」
「……ですよね」
思わずそう言うと、シスターは少しだけ笑った。
「ええ。でも、emptiness が最善かどうかはまた別問題」
「ですよね」
「そこは簡単に味方しないんですね……」
「思想に誠実であることと、生徒に甘いことは別です」
有馬がくすっと笑う。
路沙はベンチの背にもたれた。
そのときだった。
彼女の鞄の中で、教科書の角が何かに引っかかるような、妙な感触がした。
気になって取り出す。
英語の教科書。さっきの授業で使ったページが、ちょうど開いた。
そこに載っている例文のひとつが、なぜか目に刺さった。
Language helps us understand the world.
言語は、私たちが世界を理解する助けになる。
ただの例文だ。
中学英語みたいな、なんの変哲もない文。
なのに、その一行だけが、印刷された文字ではなく、もっと別のものに見えた。
help ではない。
understand でもない。
その下に、薄く、もうひとつの文が透けている気がした。
Language helps the world remain understandable.
言語は、世界が理解可能なままでいることを助ける。
「……え」
声が漏れた。
「どうしたの?」
有馬がのぞきこむ。
路沙は反射的に教科書を閉じた。
「いや、なんでも」
「顔色悪いけど」
「なんでもない」
でも、なんでもなくなかった。
今のは読み間違いじゃない。
見間違いでもない。
文字の下に、別の意味がいた。
まるで、文章そのものに裏面があるみたいに。
シスター・マグダレナが、静かに路沙を見ていた。
その目は、驚いていなかった。
知っている目だった。
「路沙さん」
シスターが言う。
「もし言葉が世界を削ることがあるなら、逆もあると思う?」
「逆……?」
「ええ。
言葉によってしか、見えない継ぎ目もあるのではないか、ってこと」
路沙は答えられなかった。
教科書を持つ手が、少し震えている。
有馬は何もわからない顔で、でも確かに心配そうにこちらを見ていた。
聖堂の鐘が鳴った。
一打。
二打。
三打。
夕方の祈りの時間を告げる音が、校舎の窓にも、中庭の木にも、白いベンチにも、同じように落ちていく。
その音のあいだに、路沙ははっきりと感じた。
世界は、思っていたよりずっと薄い膜でできている。
そしてたぶん、さっき自分は、その膜の裏側に書かれた注釈を見た。
空は空ではない。
たぶん、言葉も言葉ではない。
そしてもし、そうなのだとしたら。
今日、emptiness に引かれたあの赤いバツは、
ただの採点記号なんかではなく、
何かをこちら側に固定するための、
もっと大きな印だったのかもしれなかった。




