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空(くう)は空(そら)ではない  作者: はまゆう


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10/11

第10話 白いハンカチ

 衣替えの朝、教室の空気は少しだけ白くなる。

 夏服に変わっただけで、同じ校舎の光まで薄くなったように見える。半袖のセーラー、軽い生地、白の分量が増えた制服。窓から入る六月の光が机の上に反射して、教室全体がいつもより明るかった。

 路沙は席に着いて、鞄を机の横にかけた。

 ポケットには、校章の入った白いハンカチが入っている。きれいにアイロンのかかった、真っ白なハンカチ。鞄の内ポケットには、刺繍入りのティッシュケース。中には、箱から出したティッシュを一枚ずつ折って入れてある。

 それを特別なことだと思ったことは、あまりない。

 幼稚園のころから、そうしてきたからだ。

 朝、制服にアイロンがかかっているかを見る。

 ハンカチを折ってポケットに入れる。

 ティッシュケースの中身を確かめる。

 市販のポケットティッシュをそのまま持たない。

 なぜだめなのかは、今でもよくわからない。たぶん見た目なのだろう。でも、理由がわからなくても、身体のほうが先にやる。

「白谷さん、もう夏服なんだ」

 後ろの席の佐伯が言った。

「今日からでしょ」

「うち、まだ合服でもよかったかなって思ってた」

「朝ちょっと涼しかったしね」

「でも夏服のほうがかわいいよね」

「そう?」

「そうだよ。なんか、この学校って夏服になると急にちゃんと女子校っぽい」

 その言い方が少しおかしくて、路沙は笑った。

 たしかに、冬服や合服のときより、夏服のほうがこの学校の“らしさ”が出る気がする。白くて、清潔で、少し抑制がきいていて、でも完全には地味ではない。

 教室の前のほうで、中村がリボンを結び直していた。

 少し曲がっている。袖口にも、洗ったままの生地の癖が残っていた。中学から入ってきた子たちは、こういうところが少しだけ違う。別にだらしないわけではない。ただ、どこをどう整えるとこの学校らしく見えるのかを、まだ身体で知らないだけだ。

 路沙はそれを見て、何となく、ああ、と思った。

 自分はそこを引っかからない。

 引っかからないように気をつけているというより、最初からそこに手が行く。

 チャイムの少し前、教室の前の扉が開いた。

 入ってきたのは、シスター・マグダレナだった。

 空気が少しだけ変わる。

 大きな声を出したわけでもないのに、教室のざわめきが自然に細くなる。初めて会った日から変わらない、あの人の空気だった。厳しいというより、見逃さない。細部まで目が届く。学校の規律そのものが歩いてきたみたいな人。

「おはようございます」

 何人かが言い、教室全体がそれに続く。

「おはようございます」

 マグダレナは短くうなずいて、教室を見渡した。

 その視線が前列から後列へゆっくり動く。誰も騒いでいないのに、見られているだけで姿勢を直したくなる。

 中村の前で、その視線が止まった。

「中村さん」

「はい」

「リボンを直しなさい」

「……はい」

「袖口も」

 中村は慌ててリボンに手をやった。

 マグダレナはさらに、机の横にかけられた鞄のポケットを見た。

「ハンカチは」

「あります」

「見せなさい」

 中村が出したのは、市販のポケットティッシュだった。

 教室の空気が、ほんの少しだけ固まる。

 マグダレナは眉を動かさなかった。

「それはティッシュです」

「……はい」

「私はハンカチを訊きました」

「すみません」

「それから、ポケットティッシュをそのまま持たないこと。以前にも言いましたね」

「はい……」

 中村の声が小さくなる。

 怒鳴られているわけではない。けれど、逃げ道のない言い方だった。

「身だしなみは自分のためだけではありません」

 マグダレナは教室全体に向けて言った。

「共同体の一員として整えるのです。夏服は軽く見えますが、軽く扱ってよいという意味ではありません」

 その言葉は、説教というより確認事項みたいに響いた。

 この学校では、そういうものなのだ。

 マグダレナが出ていくと、教室に少し遅れて息が戻った。

「こわ……」

 誰かが小さく言う。

「中村、どんまい」

「ハンカチ忘れたの?」

「いや、あるんだけど、今日たまたま……」

 中村は顔をしかめたまま席に戻った。

 路沙は何となく、自分のポケットの中の白いハンカチを指先で確かめた。きれいに折られた布の感触がある。

「白谷さん、そういうの絶対引っかからなさそう」

 佐伯が小声で言う。

「まあ」

「やっぱ内部だから?」

「えー そうなのかな?わからない」

「何が違うの」

 路沙は少し考えた。

「違うっていうか、もう反射なんだよね」

「反射」

「ハンカチ入れるとか、アイロンかけるとか、ティッシュケース持つとか」

「ティッシュケースって、あの刺繍の?」

「うん」

「え、みんな持ってるの?」

「幼稚園から組はだいたい」

「何で?」

「知らない」

「知らないの?」

「たぶんお母様のお手がかかっている証拠」

 佐伯は少し笑った。

「すごい学校だね」

「そうなのかな」

 路沙も笑った。

 でも、その“すごい”の中身を、自分はかなり深いところまで知っている気がした。

     *

 昼休み、有馬と中庭のほうへ出ると、聖母像の前の木陰に夏服の白がいくつも揺れていた。風が少しだけあって、半袖の袖口が軽く動く。校舎の壁は明るく、六月の空気はまだ真夏ほど重くない。

「朝、見てた?」

 路沙が言う。

「マグダレナのこと?」

「うん」

「見ていたわ」

「やっぱり」

「中村さん、気の毒だったわね」

「要所要所押さえておけばいいんだけど、そういうの中村さんは苦手っぽいね」

 有馬が少しだけ笑う。

「白谷さんは小さい頃から訓練されているのね」

「訓練っていうか、もう反射」

 路沙はポケットからハンカチを少しだけ出して見せた。

 校章の入った、真っ白な布。角まできれいに折られている。

「こういうのも」

「きれいね」

「きれいだけど、理由はよくわからない」

「理由?」

「何でちゃんとアイロンかかってないといけないのか、とか。何で市販のティッシュをそのまま持っちゃだめなのか、とか」

「共同体の作法って、だいたいそういうものじゃない」

 有馬は静かに言った。

「理由を一つずつ説明する前に、身体に入るの」

「それはそうなんだけど」

「だから、外から来た人には少し不思議に見えるし、中に長くいる人には自然に見える」

「有馬さんは、どっち寄り?」

「私は途中からだから、わかるけれど自然ではない、くらいかしら」

「なるほど」

「でも、あなたはかなり自然」

 その言い方に、路沙は少しだけ笑った。

「褒めてる?」

「半分くらい」

「便利だね」

 同じやりとりなのに、有馬が言うと少し整って聞こえる。

 路沙はハンカチをポケットに戻した。

「中学からの子って、洗ったセーラーそのまま着てくるじゃない」

「そうね」

「別に悪いわけじゃないんだけど、幼稚園と小学校からの子は、なぜかそこにちゃんとアイロンかけるんだよね」

「知っているからでしょう」

「何を」

「この学校が、そういうところを見ているってこと」

 路沙は少し黙った。

 たしかにそうだった。

 どのシスターがどこを見るか。どこまでなら見逃されるか。どこで“ちゃんとしている”と判断されるか。そういうことを、自分は長くいるぶんだけ知っている。

「慣れてるだけなんだけどね」

 路沙が言うと、有馬は少しだけ首を傾けた。

「信者じゃなくても身についているものはあるでしょう」

「それ、ちょっと怖い言い方」

「そう?」

「うん。宗教っぽい」

「ここ、宗教の学校よ」

「それはそう」

 二人とも少し笑った。

 聖母像の白い石膏が、木漏れ日の中で静かに光っていた。

     *

 放課後、予備校へ向かう途中でその話を真壁にすると、案の定、真壁はかなり驚いた。

「ティッシュ一枚ずつ折って入れるの?」

「そう」

「何の修行だよ」

「わたしも理由は知らない」

「市販のポケットティッシュそのままはだめなの?」

「だめ」

「何で」

「知らない」

「全部知らないな」

「でも守る」

 真壁は笑った。

「すごいな、お前の学校」

「でしょ」

「ハンカチも白いやつ?」

「校章入りの真っ白いの。ちゃんとアイロンかける」

「そこまでいくと様式美だな」

「様式美」

「うん。意味が全部説明できなくても、形としてきれいに保つやつ」

 その言い方は少し意外で、路沙は真壁を見た。

「真壁って、たまに変にうまいこと言うよね」

「たまに?」

「いつもじゃない」

 真壁は肩をすくめた。

「でも、お前そういうの似合うな」

「褒めてる?」

「半分くらい」

「またそれ」

「なんか、お前の学校の夏服って、変に崩してない感じが学校に合ってるし、お前もそういうの自然にやってそう」

 路沙は少しだけ黙った。

 自分にとっては当たり前すぎて、外から見てどう映るかを考えたことがあまりなかった。

「自然にやってるよ」

「だろうな」

「でも、自然すぎて、たまにちょっと嫌になる」

「何で」

「理由もよくわからないのに、身体が先にやるから」

 真壁は少し考えてから言った。

「でも、それって帰属ってそういうもんじゃないの」

「帰属」

「好きとか嫌いとか、信じてるとか信じてないとかより先に、手が動くやつ」

 路沙は返事をしなかった。

 でも、その言い方は少し残った。

     *

 帰りのホームで電車を待ちながら、路沙は自分のポケットに手を入れた。

 白いハンカチの角が指に触れる。鞄の中には、刺繍入りのティッシュケースがある。朝、何も考えずに入れたものたち。

 こういうものを自然に持っている自分は、たしかにこの学校の子なのだと思う。

 御ミサをさぼっていても、共同体の正しい話し方をたまに外しても、白いハンカチとアイロンのかかった制服は、もう理屈ではなく身体の一部になっている。

 それは少し窮屈で、少しきれいで、少しだけ誇らしい。

 全部が混ざっていて、自分でもうまく名前をつけられない。

 電車が来る少し前、ホームのガラスに自分の姿がぼんやり映った。

 白い夏服。整った襟。折り目のついた袖。

 似合っているのか、馴染みすぎているのか、自分でもよくわからない。

 ただ、長く着てきたぶんだけ、自分の一部にはなっている。

 その制服のまま、予備校へ行き、模試を受け、学校の外の世界へ少しずつ出ていく。

 電車が滑り込んできて、風が起きた。

 路沙はポケットの中のハンカチを一度だけ握ってから、前を向いた。


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