第10話 白いハンカチ
衣替えの朝、教室の空気は少しだけ白くなる。
夏服に変わっただけで、同じ校舎の光まで薄くなったように見える。半袖のセーラー、軽い生地、白の分量が増えた制服。窓から入る六月の光が机の上に反射して、教室全体がいつもより明るかった。
路沙は席に着いて、鞄を机の横にかけた。
ポケットには、校章の入った白いハンカチが入っている。きれいにアイロンのかかった、真っ白なハンカチ。鞄の内ポケットには、刺繍入りのティッシュケース。中には、箱から出したティッシュを一枚ずつ折って入れてある。
それを特別なことだと思ったことは、あまりない。
幼稚園のころから、そうしてきたからだ。
朝、制服にアイロンがかかっているかを見る。
ハンカチを折ってポケットに入れる。
ティッシュケースの中身を確かめる。
市販のポケットティッシュをそのまま持たない。
なぜだめなのかは、今でもよくわからない。たぶん見た目なのだろう。でも、理由がわからなくても、身体のほうが先にやる。
「白谷さん、もう夏服なんだ」
後ろの席の佐伯が言った。
「今日からでしょ」
「うち、まだ合服でもよかったかなって思ってた」
「朝ちょっと涼しかったしね」
「でも夏服のほうがかわいいよね」
「そう?」
「そうだよ。なんか、この学校って夏服になると急にちゃんと女子校っぽい」
その言い方が少しおかしくて、路沙は笑った。
たしかに、冬服や合服のときより、夏服のほうがこの学校の“らしさ”が出る気がする。白くて、清潔で、少し抑制がきいていて、でも完全には地味ではない。
教室の前のほうで、中村がリボンを結び直していた。
少し曲がっている。袖口にも、洗ったままの生地の癖が残っていた。中学から入ってきた子たちは、こういうところが少しだけ違う。別にだらしないわけではない。ただ、どこをどう整えるとこの学校らしく見えるのかを、まだ身体で知らないだけだ。
路沙はそれを見て、何となく、ああ、と思った。
自分はそこを引っかからない。
引っかからないように気をつけているというより、最初からそこに手が行く。
チャイムの少し前、教室の前の扉が開いた。
入ってきたのは、シスター・マグダレナだった。
空気が少しだけ変わる。
大きな声を出したわけでもないのに、教室のざわめきが自然に細くなる。初めて会った日から変わらない、あの人の空気だった。厳しいというより、見逃さない。細部まで目が届く。学校の規律そのものが歩いてきたみたいな人。
「おはようございます」
何人かが言い、教室全体がそれに続く。
「おはようございます」
マグダレナは短くうなずいて、教室を見渡した。
その視線が前列から後列へゆっくり動く。誰も騒いでいないのに、見られているだけで姿勢を直したくなる。
中村の前で、その視線が止まった。
「中村さん」
「はい」
「リボンを直しなさい」
「……はい」
「袖口も」
中村は慌ててリボンに手をやった。
マグダレナはさらに、机の横にかけられた鞄のポケットを見た。
「ハンカチは」
「あります」
「見せなさい」
中村が出したのは、市販のポケットティッシュだった。
教室の空気が、ほんの少しだけ固まる。
マグダレナは眉を動かさなかった。
「それはティッシュです」
「……はい」
「私はハンカチを訊きました」
「すみません」
「それから、ポケットティッシュをそのまま持たないこと。以前にも言いましたね」
「はい……」
中村の声が小さくなる。
怒鳴られているわけではない。けれど、逃げ道のない言い方だった。
「身だしなみは自分のためだけではありません」
マグダレナは教室全体に向けて言った。
「共同体の一員として整えるのです。夏服は軽く見えますが、軽く扱ってよいという意味ではありません」
その言葉は、説教というより確認事項みたいに響いた。
この学校では、そういうものなのだ。
マグダレナが出ていくと、教室に少し遅れて息が戻った。
「こわ……」
誰かが小さく言う。
「中村、どんまい」
「ハンカチ忘れたの?」
「いや、あるんだけど、今日たまたま……」
中村は顔をしかめたまま席に戻った。
路沙は何となく、自分のポケットの中の白いハンカチを指先で確かめた。きれいに折られた布の感触がある。
「白谷さん、そういうの絶対引っかからなさそう」
佐伯が小声で言う。
「まあ」
「やっぱ内部だから?」
「えー そうなのかな?わからない」
「何が違うの」
路沙は少し考えた。
「違うっていうか、もう反射なんだよね」
「反射」
「ハンカチ入れるとか、アイロンかけるとか、ティッシュケース持つとか」
「ティッシュケースって、あの刺繍の?」
「うん」
「え、みんな持ってるの?」
「幼稚園から組はだいたい」
「何で?」
「知らない」
「知らないの?」
「たぶんお母様のお手がかかっている証拠」
佐伯は少し笑った。
「すごい学校だね」
「そうなのかな」
路沙も笑った。
でも、その“すごい”の中身を、自分はかなり深いところまで知っている気がした。
*
昼休み、有馬と中庭のほうへ出ると、聖母像の前の木陰に夏服の白がいくつも揺れていた。風が少しだけあって、半袖の袖口が軽く動く。校舎の壁は明るく、六月の空気はまだ真夏ほど重くない。
「朝、見てた?」
路沙が言う。
「マグダレナのこと?」
「うん」
「見ていたわ」
「やっぱり」
「中村さん、気の毒だったわね」
「要所要所押さえておけばいいんだけど、そういうの中村さんは苦手っぽいね」
有馬が少しだけ笑う。
「白谷さんは小さい頃から訓練されているのね」
「訓練っていうか、もう反射」
路沙はポケットからハンカチを少しだけ出して見せた。
校章の入った、真っ白な布。角まできれいに折られている。
「こういうのも」
「きれいね」
「きれいだけど、理由はよくわからない」
「理由?」
「何でちゃんとアイロンかかってないといけないのか、とか。何で市販のティッシュをそのまま持っちゃだめなのか、とか」
「共同体の作法って、だいたいそういうものじゃない」
有馬は静かに言った。
「理由を一つずつ説明する前に、身体に入るの」
「それはそうなんだけど」
「だから、外から来た人には少し不思議に見えるし、中に長くいる人には自然に見える」
「有馬さんは、どっち寄り?」
「私は途中からだから、わかるけれど自然ではない、くらいかしら」
「なるほど」
「でも、あなたはかなり自然」
その言い方に、路沙は少しだけ笑った。
「褒めてる?」
「半分くらい」
「便利だね」
同じやりとりなのに、有馬が言うと少し整って聞こえる。
路沙はハンカチをポケットに戻した。
「中学からの子って、洗ったセーラーそのまま着てくるじゃない」
「そうね」
「別に悪いわけじゃないんだけど、幼稚園と小学校からの子は、なぜかそこにちゃんとアイロンかけるんだよね」
「知っているからでしょう」
「何を」
「この学校が、そういうところを見ているってこと」
路沙は少し黙った。
たしかにそうだった。
どのシスターがどこを見るか。どこまでなら見逃されるか。どこで“ちゃんとしている”と判断されるか。そういうことを、自分は長くいるぶんだけ知っている。
「慣れてるだけなんだけどね」
路沙が言うと、有馬は少しだけ首を傾けた。
「信者じゃなくても身についているものはあるでしょう」
「それ、ちょっと怖い言い方」
「そう?」
「うん。宗教っぽい」
「ここ、宗教の学校よ」
「それはそう」
二人とも少し笑った。
聖母像の白い石膏が、木漏れ日の中で静かに光っていた。
*
放課後、予備校へ向かう途中でその話を真壁にすると、案の定、真壁はかなり驚いた。
「ティッシュ一枚ずつ折って入れるの?」
「そう」
「何の修行だよ」
「わたしも理由は知らない」
「市販のポケットティッシュそのままはだめなの?」
「だめ」
「何で」
「知らない」
「全部知らないな」
「でも守る」
真壁は笑った。
「すごいな、お前の学校」
「でしょ」
「ハンカチも白いやつ?」
「校章入りの真っ白いの。ちゃんとアイロンかける」
「そこまでいくと様式美だな」
「様式美」
「うん。意味が全部説明できなくても、形としてきれいに保つやつ」
その言い方は少し意外で、路沙は真壁を見た。
「真壁って、たまに変にうまいこと言うよね」
「たまに?」
「いつもじゃない」
真壁は肩をすくめた。
「でも、お前そういうの似合うな」
「褒めてる?」
「半分くらい」
「またそれ」
「なんか、お前の学校の夏服って、変に崩してない感じが学校に合ってるし、お前もそういうの自然にやってそう」
路沙は少しだけ黙った。
自分にとっては当たり前すぎて、外から見てどう映るかを考えたことがあまりなかった。
「自然にやってるよ」
「だろうな」
「でも、自然すぎて、たまにちょっと嫌になる」
「何で」
「理由もよくわからないのに、身体が先にやるから」
真壁は少し考えてから言った。
「でも、それって帰属ってそういうもんじゃないの」
「帰属」
「好きとか嫌いとか、信じてるとか信じてないとかより先に、手が動くやつ」
路沙は返事をしなかった。
でも、その言い方は少し残った。
*
帰りのホームで電車を待ちながら、路沙は自分のポケットに手を入れた。
白いハンカチの角が指に触れる。鞄の中には、刺繍入りのティッシュケースがある。朝、何も考えずに入れたものたち。
こういうものを自然に持っている自分は、たしかにこの学校の子なのだと思う。
御ミサをさぼっていても、共同体の正しい話し方をたまに外しても、白いハンカチとアイロンのかかった制服は、もう理屈ではなく身体の一部になっている。
それは少し窮屈で、少しきれいで、少しだけ誇らしい。
全部が混ざっていて、自分でもうまく名前をつけられない。
電車が来る少し前、ホームのガラスに自分の姿がぼんやり映った。
白い夏服。整った襟。折り目のついた袖。
似合っているのか、馴染みすぎているのか、自分でもよくわからない。
ただ、長く着てきたぶんだけ、自分の一部にはなっている。
その制服のまま、予備校へ行き、模試を受け、学校の外の世界へ少しずつ出ていく。
電車が滑り込んできて、風が起きた。
路沙はポケットの中のハンカチを一度だけ握ってから、前を向いた。




