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空(くう)は空(そら)ではない  作者: はまゆう


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11/11

第11話 模試の帰り

 日曜の三田キャンパスは、大学というより模試会場だった。

 赤煉瓦の重たい建物も、銀杏並木も、今日はあまり大学らしく見えない。門を入ってから校舎へ向かう道に、他校の制服と私服の受験生が途切れず流れている。参考書を抱えたまま歩く子、友達と小声で話す子、ひとりでまっすぐ前だけ見ている子。浪人生らしい私服の人もいて、全体の空気が少し乾いていた。

 路沙は受験票を出し直しながら、こういう場所へ来るたびに、自分の学校の中とは違う緊張を感じる。

 ここにあるのは受験番号と志望校だけだ。

 教室に入ると、机の上に貼られた番号を確認して座る。

 それだけで、自分が少し平たくなる気がした。

 路沙という名前より先に、学校ブランドより先に番号がある。

 英語は長文の途中で一度集中が切れた。

 数学は解けそうだった問題を一つ落とした気がする。

 国語は悪くなかったかもしれないけれど、そう思ったときほど大したことがない。

 周囲のページをめくる音がやけに早く聞こえて、誰かがシャープペンを置くたびに時間が削られる気がした。

 終わった瞬間、達成感より先に消耗が来た。

 できたとも、できなかったとも言いたくない。

 一問のミスだけが、変に鮮明に残っている。

 会場を出ると、受験生たちが一斉にスマホを見たり、友達と答え合わせをしたりしていた。

 路沙はその輪に入る気になれず、鞄の紐を持ち直して、校舎の外の階段をゆっくり下りた。

 門の近くで有馬を見つけた。

 有馬も少し疲れた顔をしていたけれど、いつも通りきれいに立っていた。

「どうだった」

 路沙が訊くと、有馬は少しだけ考えてから言った。

「微妙」

「同じ」

「英語が嫌だったわ」

「わたしも」

「数学も」

「それも」

 二人とも少し笑った。

 笑うほど元気ではないけれど、同じように嫌だったことだけは確認できる。

 そのまま田町駅のほうへ歩き出す。

 日曜の午後の空気は明るいのに、模試帰りの身体だけが少し重い。三田の坂を下りながら、路沙は問題冊子の角が鞄の中で当たるのを感じていた。

「何か飲みたい」

 路沙が言うと、有馬がうなずいた。

「私も」

 駅へ向かう途中のマクドナルドに入る。

 店内は思ったより混んでいて、家族連れや学生や、買い物帰りらしい人たちがそれぞれの日曜を過ごしていた。模試のことなど何も知らない空気の中に入ると、少しだけ現実感が戻る。

 二人でシェイクを買って、奥の小さな席に座った。

 冷たい甘さが、疲れた頭にちょうどよかった。

「生き返る」

 路沙が言うと、有馬が少し笑う。

「大げさね」

「でも、模試のあとって、甘いものが激烈に欲しい」

「それは少しわかる」

 しばらくは、問題の話をした。

 英語の長文が嫌だったこと。

 数学のあの問題は時間をかけるべきではなかったこと。

 国語は手応えがあるような、ないような感じだったこと。

 どれも受験生らしい、乾いた会話だった。

 でも、シェイクが半分くらい減ったころ、路沙はストローをくわえたまま言った。

「学校にいると、自分が誰かってまだ少しわかるけど、模試会場にいるとただの番号になる感じがする」

 有馬はすぐには答えなかった。

 紙ナプキンの端を指で押さえながら、少しだけ考えるようにしてから言う。

「それは少しわかる」

「何か、空っぽになる感じ」

「空っぽになるというより」

 有馬は静かに言った。

「余分なものが一度見えなくなるんじゃない」

 路沙は有馬を見る。

「余分なもの」

「学校とか、名前とか、どういうふうにここまで来たかとか。そういうものが、模試会場ではいったん見えなくなる」

「それ、かなり嫌だね」

「ブランド校だから。ブランド校以外の高校生ならほっとしてると思う」

 有馬はあっさり認めた。

「大学に入ったら、受かった人同士でクラスメートなのよ。ある意味、模試と同じだわ」

 その言い方は、有馬らしかった。

 路沙はシェイクのカップを両手で持ったまま、少しだけ黙った。

 白いハンカチも、神父様という呼び方も、御ミサの順番も、模試会場では何の役にも立たない。

たぶん、大学を出て就職時も社会人になってからも。

 それが少し怖い。

 でも、有馬の言う通り、見えなくなるだけで、なくなるわけではないのかもしれなかった。

「有馬さんって、こういうときだけちょっと便利だよね」

「こういうときだけ?」

「いつもじゃない」

「便利ね」

「便利だから」

 二人とも少し笑った。

 店内のざわめきの中で、その笑いだけが小さく浮いた。

     *

 マクドナルドを出ると、外の空気は少しぬるかった。

 田町駅のほうへ歩きながら、駅前の書店に寄る。模試の帰りに本屋へ入るのは、少しだけ現実逃避みたいで、でも嫌いではなかった。

 新刊台の前で足を止めたとき、路沙は見覚えのあるタイトルを見つけた。

 『バベル オックスフォード翻訳家革命秘史』

 上巻。

 厚みのある本だった。

 真壁が前に、原書で読んでいると言っていた本だ。

 中国系アメリカ人が書いた、翻訳家の話。タイトルだけは覚えていた。

 路沙は何となく手に取って、裏表紙を見た。値段は三千円ちょっとする。

「それ、買うの」

 隣で有馬が言う。

「ちょっと迷ってる」

「重そうな本ね」

「真壁が原書で読んでるって言ってた」

 有馬が少しだけ目を上げる。

「原書で」

「うん」

「そう」

 その短い返し方が少しおかしくて、路沙は笑った。

「翻訳家の話らしい」

「模試の帰りに買う本としては、少し重いわね」

「そうかも」

 路沙は本の背を指でなぞった。

 模試の問題冊子の重さとは違う重さだった。

 今日一日、自分は受験番号として座って、問題を解いて、疲れて、田町まで歩いてきた。

 その帰りに、問題集ではなくこういう本を持って帰りたいと思うのは、たぶん少しだけ、自分の輪郭を取り戻したいからだ。

「何か別のものを持って帰りたかったのかも」

 そう言うと、有馬は少しだけ路沙を見た。

「それはわかる気がする」

 財布の中を確かめる。

 お小遣いがまだ残っていた。少し痛いけれど、買えない額ではない。

 路沙は少しだけ迷ってから、上巻をレジへ持っていった。

 本を受け取ると、紙袋の中にずしりとした重みがある。

 模試の帰りに買うにはたしかに重い。

 でも、その重さが少しだけよかった。

     *

 田町駅のホームで電車を待ちながら、路沙は鞄の中身を少し整えた。

 受験票。問題冊子。筆箱。

 その横に、買ったばかりの『バベル』の上巻が入っている。

 受験番号の世界と、自分が読みたいと思った本が、同じ鞄の中に入っている。

 それが少し不思議だった。

「今日は帰ったら何するの」

 有馬が訊く。

「たぶん、しばらく何もしない」

「健全ね」

「有馬さんは」

「私も似たようなもの」

「自己採点は」

「今日はしない」

「よかった」

「何が」

「仲間がいて」

 有馬が少し笑った。

 電車が入ってくる風が、ホームの空気を押した。

「また次もあるわ」

「あるね」

「嫌ね」

「嫌だね」

 でも、その“また次”を、今日は少しだけ持てる気がした。

 模試会場ではただの受験生の一人になっても、帰りに有馬とシェイクを飲んで、本を一冊買うことはできる。

 それだけで、完全に番号だけになるわけではないのかもしれないと思う。

     *

 夜、机の上に問題冊子を置いて、その横に『バベル』を置く。

 今日の模試のことは、まだうまく整理できない。英語の長文も、数学の一問も、思い出そうとすれば少し嫌な感じで戻ってくる。

 スマートフォンが震えて、真壁からメッセージが来た。

『三田どうだった』

 路沙は少し考えてから返す。

『死んだ』

 すぐに返ってくる。

『いつも死んでるな』

 路沙は少し笑って、もう一つ打った。

『帰りにバベル買った』

 少し間があってから、真壁の返信が来る。

『上巻?』

『上巻』

『あれ長いよ』

『知ってる』

 それだけのやりとりなのに、少しだけ気が楽になる。

 日吉で模試を受けた真壁と、三田で模試を受けた自分。場所は違っても、同じ日曜の疲れの上にいる感じがした。

 路沙は机の上の本に手を置いた。

 今日一日は、ただ消耗しただけの日ではなかったのかもしれない。

 少なくとも、そう思えるものが一冊、ここにある。

 窓の外はもう暗い。

 明日になればまた学校があって、受験の時間も続いていく。

 学校の中の自分と、外の世界で番号になる自分の両方を持ったまま、たぶん進むしかない。

 路沙は『バベル』の表紙をもう一度見てから、静かに鞄を閉じた。


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