第17話 十一月の駒場
予備校の英語の授業は、その日、少し脱線した。
テキストの長文に、禅の思想を紹介するくだりがあった。講師は黒板に「emptiness」と書いてから、チョークを持つ手を止めた。
「余談ですが」
その前置きだけで、教室の空気が少しゆるむ。この講師の余談は、たいてい本編より面白い。
「この emptiness、仏教の“空”の訳語としてよく使われますが、実は英語圏でも訳し方が割れます。有名なのは、宮本武蔵の『五輪書』」
路沙はペンを止めた。
「あの、剣豪の?」
「そう。あの巻の最後、“空の巻”。英訳では The Book of the Void と訳されることが多い」
「emptiness じゃなくて、void なんですか」
路沙は思わず声に出していた。
講師は少し面白そうな顔をした。
「白谷さん、よく食いつきますね」
「いえ、あの……」
路沙は言葉を選びながら続けた。
「仏教の“空”は、たしか何もないんじゃなくて、固定された実体がない、みたいな意味だったと思うんですけど。武蔵の“空”は、それとは違うんですか」
「鋭いですね」
講師は黒板の「emptiness」の隣に「void」と書き足した。
「仏教的な空、シューニヤター、が emptiness と訳されるのは、“実体がない”という否定を通して、逆にあらゆる可能性が開かれている、という含みがあるからです。何もない、ではなく、固定していない」
「はい」
「一方、武蔵の“空”は、剣の道を極めた先の、ある種の無心の境地。何かが欠けているという意味ではなく、迷いや型に縛られない、澄み切った状態。だから void、つまり“空白”に近い訳語のほうがしっくりくる、という説があります」
「同じ漢字なのに」
「同じ漢字だからこそ、ですね。“空”という一文字は、日本語の中で、少なくとも三つくらいの層を持っている」
講師は黒板に、指で三本の線を引くような仕草をした。
「一つは、単なる sky。物理的な空。もう一つは、仏教的な emptiness。そしてもう一つ、武蔵のような、修練の果ての void。同じ字を使っているのに、文脈が変わると、まったく別の重さを持つ」
教室は静かだった。
いつもの余談より、少し長く聞き入っている空気があった。
「受験英語としては、こういう訳し分けは知らなくていい。でも、一つの単語がこれだけ違う顔を持つと知っておくと、英作文の訳語選びが少し慎重になります」
講師はそう言って、話を本編に戻した。
路沙は、黒板の「emptiness」と「void」を、しばらく見ていた。
半年前、英作文の授業で「空」を emptiness と訳してバツをもらったことを思い出す。
あのとき、高槻先生は sky が正しいと言った。
シスター・マグダレナは、それとは違う顔をしていた。
――言葉はね、意味を運ぶ箱ではないの。ときどき、世界のほうを削ってしまう刃物にもなるのよ。
あの日、路沙は自分の直感が変なものだと思っていた。
でも今、予備校の教壇で、同じ字が三つの顔を持つと、誰かがちゃんと言葉にしてくれている。
間違っていたわけじゃなかった。
浅く見えていたのは、自分の直感のほうじゃなくて、教科書の一文のほうだった。
*
「今日の話、興奮してたな」
昼休み、廊下で真壁が言った。
「した」
「武蔵の空とか、お前好きそう」
「好きっていうか」
路沙は少し考えてから言った。
「前に、同じことで先生と揉めたことがあるから」
「揉めた?」
「“空”を emptiness って訳して、バツもらった」
「なんで」
「sky でいいって言われた」
真壁は少し黙ってから、笑った。
「今日の話聞いたら、その先生キレそうだな」
「キレていいと思う」
「怖」
でも、その軽口が、今日は少し嬉しかった。
自分の中でずっと引っかかっていたものに、今日、外側から名前がついた気がした。
*
十月の終わり、真壁から届いたメッセージは短かった。
〈筑駒文化祭あるけど来る?〉
路沙は少し笑って、有馬にも同じ文面を送った。
返事はすぐに来た。
〈行く〉
当日の筑駒は、路沙の想像を超えていた。声が大きい。人が多い。展示も出し物も、粗さごとエネルギーになっている。
「男子校って感じする」
路沙が言うと、真壁は肩をすくめた。
有馬は周囲を見回しながら、静かに言った。
「整ってはいないけれど、考えることとふざけることが、あまり分かれていないのね」
帰り際、真壁が何でもない調子で言った。
「このあと時間あるなら、駒場のほう行く?」
「行く」
路沙は即答した。有馬も小さくうなずいた。
*
十一月の下旬、今度は有馬と二人で駒場祭に行った。
真壁は誘わなかった。どちらともなく、気づけばそうなっていた。
人混みの中を歩くうち、はぐれかけた瞬間、有馬が路沙の手首をそっとつかんだ。
「はぐれると面倒だから」
それだけ言って、すぐに手を離した。でも、その温度だけはしばらく手首に残っていた。
漫画研究会の展示室で、路沙は一冊の部誌を手に取った。
「これ、面白い」
「買うの?」
「うん」
紙袋を受け取るとき、有馬がふと路沙の襟元に手を伸ばした。
「ボタン、外れかけていたわ」
留め直す指先に、迷いがなかった。
「ありがとう」
「別に」
校舎を出ると、夕方の光が木々の間から差していた。
「東大って、もっと堅い感じかと思ってた」
「そう見えることもあるでしょうね」
「でも、こういうのがあるんだって思った」
有馬は少し笑った。
「大学のほうが、学校よりきれいに整いすぎていないのかもしれないわね」
*
帰り道、駒場東大前の駅の階段の手前で、有馬が訊いた。
「どうだった?」
「受かりたい、だけじゃなくなったかも」
「どういう意味?」
「入りたい、っていうより、混ざりたい感じ」
有馬は静かにうなずいた。
「それはたぶん、いいことね」
電車の来る音が、ホームの下から近づいてくる。
紙袋の中身は、ただの冊子でしかない。それでも路沙には、そこに何か確かなものが入っている気がした。
東大は、遠くから見ているだけの、空っぽの名前ではなくなっていた。
空は、空ではなかった。
sky でもなく、ただの emptiness でもなく、武蔵の void のように、迷いの先にある澄んだ広がりとして。
十一月の冷たい風の中で、路沙はそのことだけを、静かに確かめていた。




