↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空(くう)は空(そら)ではない  作者: はまゆう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/17

第17話 十一月の駒場

 予備校の英語の授業は、その日、少し脱線した。

 テキストの長文に、禅の思想を紹介するくだりがあった。講師は黒板に「emptiness」と書いてから、チョークを持つ手を止めた。

「余談ですが」

 その前置きだけで、教室の空気が少しゆるむ。この講師の余談は、たいてい本編より面白い。

「この emptiness、仏教の“空”の訳語としてよく使われますが、実は英語圏でも訳し方が割れます。有名なのは、宮本武蔵の『五輪書』」

 路沙はペンを止めた。

「あの、剣豪の?」

「そう。あの巻の最後、“空の巻”。英訳では The Book of the Void と訳されることが多い」

「emptiness じゃなくて、void なんですか」

 路沙は思わず声に出していた。

 講師は少し面白そうな顔をした。

「白谷さん、よく食いつきますね」

「いえ、あの……」

 路沙は言葉を選びながら続けた。

「仏教の“空”は、たしか何もないんじゃなくて、固定された実体がない、みたいな意味だったと思うんですけど。武蔵の“空”は、それとは違うんですか」

「鋭いですね」

 講師は黒板の「emptiness」の隣に「void」と書き足した。

「仏教的な空、シューニヤター、が emptiness と訳されるのは、“実体がない”という否定を通して、逆にあらゆる可能性が開かれている、という含みがあるからです。何もない、ではなく、固定していない」

「はい」

「一方、武蔵の“空”は、剣の道を極めた先の、ある種の無心の境地。何かが欠けているという意味ではなく、迷いや型に縛られない、澄み切った状態。だから void、つまり“空白”に近い訳語のほうがしっくりくる、という説があります」

「同じ漢字なのに」

「同じ漢字だからこそ、ですね。“空”という一文字は、日本語の中で、少なくとも三つくらいの層を持っている」

 講師は黒板に、指で三本の線を引くような仕草をした。

「一つは、単なる sky。物理的な空。もう一つは、仏教的な emptiness。そしてもう一つ、武蔵のような、修練の果ての void。同じ字を使っているのに、文脈が変わると、まったく別の重さを持つ」

 教室は静かだった。

 いつもの余談より、少し長く聞き入っている空気があった。

「受験英語としては、こういう訳し分けは知らなくていい。でも、一つの単語がこれだけ違う顔を持つと知っておくと、英作文の訳語選びが少し慎重になります」

 講師はそう言って、話を本編に戻した。

 路沙は、黒板の「emptiness」と「void」を、しばらく見ていた。

 半年前、英作文の授業で「空」を emptiness と訳してバツをもらったことを思い出す。

 あのとき、高槻先生は sky が正しいと言った。

 シスター・マグダレナは、それとは違う顔をしていた。

 ――言葉はね、意味を運ぶ箱ではないの。ときどき、世界のほうを削ってしまう刃物にもなるのよ。

 あの日、路沙は自分の直感が変なものだと思っていた。

 でも今、予備校の教壇で、同じ字が三つの顔を持つと、誰かがちゃんと言葉にしてくれている。

 間違っていたわけじゃなかった。

 浅く見えていたのは、自分の直感のほうじゃなくて、教科書の一文のほうだった。


     *


「今日の話、興奮してたな」

 昼休み、廊下で真壁が言った。

「した」

「武蔵の空とか、お前好きそう」

「好きっていうか」

 路沙は少し考えてから言った。

「前に、同じことで先生と揉めたことがあるから」

「揉めた?」

「“空”を emptiness って訳して、バツもらった」

「なんで」

「sky でいいって言われた」

 真壁は少し黙ってから、笑った。

「今日の話聞いたら、その先生キレそうだな」

「キレていいと思う」

「怖」

 でも、その軽口が、今日は少し嬉しかった。

 自分の中でずっと引っかかっていたものに、今日、外側から名前がついた気がした。


     *


 十月の終わり、真壁から届いたメッセージは短かった。

〈筑駒文化祭あるけど来る?〉

 路沙は少し笑って、有馬にも同じ文面を送った。

 返事はすぐに来た。

〈行く〉


 当日の筑駒は、路沙の想像を超えていた。声が大きい。人が多い。展示も出し物も、粗さごとエネルギーになっている。

「男子校って感じする」

 路沙が言うと、真壁は肩をすくめた。

 有馬は周囲を見回しながら、静かに言った。

「整ってはいないけれど、考えることとふざけることが、あまり分かれていないのね」

 帰り際、真壁が何でもない調子で言った。

「このあと時間あるなら、駒場のほう行く?」

「行く」

 路沙は即答した。有馬も小さくうなずいた。


     *


 十一月の下旬、今度は有馬と二人で駒場祭に行った。

 真壁は誘わなかった。どちらともなく、気づけばそうなっていた。

 人混みの中を歩くうち、はぐれかけた瞬間、有馬が路沙の手首をそっとつかんだ。

「はぐれると面倒だから」

 それだけ言って、すぐに手を離した。でも、その温度だけはしばらく手首に残っていた。


 漫画研究会の展示室で、路沙は一冊の部誌を手に取った。

「これ、面白い」

「買うの?」

「うん」

 紙袋を受け取るとき、有馬がふと路沙の襟元に手を伸ばした。

「ボタン、外れかけていたわ」

 留め直す指先に、迷いがなかった。

「ありがとう」

「別に」


 校舎を出ると、夕方の光が木々の間から差していた。

「東大って、もっと堅い感じかと思ってた」

「そう見えることもあるでしょうね」

「でも、こういうのがあるんだって思った」

 有馬は少し笑った。

「大学のほうが、学校よりきれいに整いすぎていないのかもしれないわね」


     *


 帰り道、駒場東大前の駅の階段の手前で、有馬が訊いた。

「どうだった?」

「受かりたい、だけじゃなくなったかも」

「どういう意味?」

「入りたい、っていうより、混ざりたい感じ」

 有馬は静かにうなずいた。

「それはたぶん、いいことね」

 電車の来る音が、ホームの下から近づいてくる。

 紙袋の中身は、ただの冊子でしかない。それでも路沙には、そこに何か確かなものが入っている気がした。

 東大は、遠くから見ているだけの、空っぽの名前ではなくなっていた。

 空は、空ではなかった。

 sky でもなく、ただの emptiness でもなく、武蔵の void のように、迷いの先にある澄んだ広がりとして。

 十一月の冷たい風の中で、路沙はそのことだけを、静かに確かめていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。