第15話 距離
十月の空気は、九月よりも少しだけ容赦がなかった。
文化祭の段ボールが片づいた教室に、模試の個人成績表が配られる。薄い封筒が机の上に積まれていく音が、いつもより少しだけ硬く響いた。
路沙は封を切らないまま、しばらく指先で端を押さえていた。
斜め前の席で、誰かが小さく笑う。
「英語だけ死んだ」
「まあまあかな」
軽い声が教室のあちこちで交わされる。数字に慣れた声だった。路沙はまだ、そこまで慣れていない。
封を切る。
東京大学。判定、C。
路沙はその一文字をしばらく見てから、紙を静かに折って、ノートの間に挟んだ。
*
放課後、有馬に「今日、少し寄っていかない」と誘われた。
連れていかれたのは、茶道部の部室だった。有馬は数学研究会のほかに、そこにも籍を置いている。
「今日は誰もいないから」
有馬はそう言って、慣れた手つきで棚から道具を出した。
畳の匂い、炭のかすかな匂い。窓から差す午後の光が、畳の目に沿って長く伸びている。
路沙は正座に慣れていない足を持て余しながら、有馬の手元を眺めていた。
茶筅を持つ手、湯を注ぐ角度、茶碗を回すときの指の運び。何も語らないその一連の動きに、なぜか少し落ち着かされる。
「模試、良くなかったの」
有馬が、茶を点てながら訊いた。
顔は上げない。手元だけを見ている。
「東大、C」
「そう」
それだけだった。
茶碗が、畳の上を滑るように路沙の前に置かれる。
「いただきます」
路沙は作法通りに手をつき、茶碗を少し回してから口をつけた。
苦い。でも、後味に少しだけ甘さが残る。
「Cって、嫌な数字」
路沙がぽつりと言うと、有馬は自分の分の茶を点てながら答えた。
「AでもEでもないから、扱いに困るのでしょうね」
「そう、それ」
「悪すぎないのが、逆に落ち着かない」
「わかってくれる?」
「わかるというより、想像はできる」
有馬は茶碗を膝の前に置いたまま、しばらく黙っていた。
沈黙が気まずくない。この部屋の空気のせいかもしれない。
「怖い?」
やがて有馬が訊いた。
「うん。初めて、ちゃんと怖い」
有馬はうなずいて、それ以上は何も言わなかった。
代わりに、懐から小さな懐紙を出し、路沙の袖口に落ちていた茶菓子の欠片をそっと払った。
その仕草のほうが、どんな言葉より雄弁だった。
「行きたい場所があるなら」
しばらくして、有馬は言った。
「近づいたかどうかは、あとで数字が教えてくれるでしょう。今日は、ただ怖かった、でいいと思うわ」
路沙は、その言い方に少しだけ泣きそうになった。
励まされたわけではない。ただ、怖いことを怖いままにしておいていい、と言われただけだった。
でもそれだけで、十分だった。
*
その日の夜、予備校の廊下で真壁に会った。
「模試どうだった」
「東大C」
「あーC。全然あるじゃん」
あまりにも軽くて、路沙は思わず真壁を見た。
「今日、二回目それ言われた」
「誰に」
「秘密」
「はいはい」
真壁は壁にもたれて、ペットボトルの蓋を開けた。
「科目ごとに見た?」
「まだ」
「見ろよ。判定だけ見ても意味ない」
「雑」
「でも正しい」
路沙は少し笑った。
有馬の静けさと、真壁のこの雑さ。まったく違う言い方なのに、どちらも路沙を不安の中に一人にはしなかった。
*
家に帰って、鞄から成績表を出すと、折り目のあいだに、有馬の懐紙が一枚、紛れ込んでいた。
小さな文字で、
「行きたい場所は、まだそこにあるわ」
とだけ書いてある。
路沙はその紙を、しばらく机の上に置いたまま眺めていた。
Cという数字は、変わらずそこにある。
それでも、今日一日の中に、苦い茶と、甘い後味と、雑な励ましと、静かな一言が確かにあった。
路沙は懐紙を丁寧に折りたたんで、問題集の間に挟んだ。
窓の外はもう暗い。机のライトの光だけが、静かに手元を照らしていた。




