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空(くう)は空(そら)ではない  作者: はまゆう


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14/17

第15話 距離

 十月の空気は、九月よりも少しだけ容赦がなかった。

 文化祭の段ボールが片づいた教室に、模試の個人成績表が配られる。薄い封筒が机の上に積まれていく音が、いつもより少しだけ硬く響いた。

 路沙は封を切らないまま、しばらく指先で端を押さえていた。

 斜め前の席で、誰かが小さく笑う。

「英語だけ死んだ」

「まあまあかな」

 軽い声が教室のあちこちで交わされる。数字に慣れた声だった。路沙はまだ、そこまで慣れていない。

 封を切る。

 東京大学。判定、C。

 路沙はその一文字をしばらく見てから、紙を静かに折って、ノートの間に挟んだ。


     *


 放課後、有馬に「今日、少し寄っていかない」と誘われた。

 連れていかれたのは、茶道部の部室だった。有馬は数学研究会のほかに、そこにも籍を置いている。

「今日は誰もいないから」

 有馬はそう言って、慣れた手つきで棚から道具を出した。

 畳の匂い、炭のかすかな匂い。窓から差す午後の光が、畳の目に沿って長く伸びている。

 路沙は正座に慣れていない足を持て余しながら、有馬の手元を眺めていた。

 茶筅を持つ手、湯を注ぐ角度、茶碗を回すときの指の運び。何も語らないその一連の動きに、なぜか少し落ち着かされる。

「模試、良くなかったの」

 有馬が、茶を点てながら訊いた。

 顔は上げない。手元だけを見ている。

「東大、C」

「そう」

 それだけだった。

 茶碗が、畳の上を滑るように路沙の前に置かれる。

「いただきます」

 路沙は作法通りに手をつき、茶碗を少し回してから口をつけた。

 苦い。でも、後味に少しだけ甘さが残る。

「Cって、嫌な数字」

 路沙がぽつりと言うと、有馬は自分の分の茶を点てながら答えた。

「AでもEでもないから、扱いに困るのでしょうね」

「そう、それ」

「悪すぎないのが、逆に落ち着かない」

「わかってくれる?」

「わかるというより、想像はできる」

 有馬は茶碗を膝の前に置いたまま、しばらく黙っていた。

 沈黙が気まずくない。この部屋の空気のせいかもしれない。

「怖い?」

 やがて有馬が訊いた。

「うん。初めて、ちゃんと怖い」

 有馬はうなずいて、それ以上は何も言わなかった。

 代わりに、懐から小さな懐紙を出し、路沙の袖口に落ちていた茶菓子の欠片をそっと払った。

 その仕草のほうが、どんな言葉より雄弁だった。

「行きたい場所があるなら」

 しばらくして、有馬は言った。

「近づいたかどうかは、あとで数字が教えてくれるでしょう。今日は、ただ怖かった、でいいと思うわ」

 路沙は、その言い方に少しだけ泣きそうになった。

 励まされたわけではない。ただ、怖いことを怖いままにしておいていい、と言われただけだった。

 でもそれだけで、十分だった。


     *


 その日の夜、予備校の廊下で真壁に会った。

「模試どうだった」

「東大C」

「あーC。全然あるじゃん」

 あまりにも軽くて、路沙は思わず真壁を見た。

「今日、二回目それ言われた」

「誰に」

「秘密」

「はいはい」

 真壁は壁にもたれて、ペットボトルの蓋を開けた。

「科目ごとに見た?」

「まだ」

「見ろよ。判定だけ見ても意味ない」

「雑」

「でも正しい」

 路沙は少し笑った。

 有馬の静けさと、真壁のこの雑さ。まったく違う言い方なのに、どちらも路沙を不安の中に一人にはしなかった。


     *


 家に帰って、鞄から成績表を出すと、折り目のあいだに、有馬の懐紙が一枚、紛れ込んでいた。

 小さな文字で、

「行きたい場所は、まだそこにあるわ」

 とだけ書いてある。

 路沙はその紙を、しばらく机の上に置いたまま眺めていた。

 Cという数字は、変わらずそこにある。

 それでも、今日一日の中に、苦い茶と、甘い後味と、雑な励ましと、静かな一言が確かにあった。

 路沙は懐紙を丁寧に折りたたんで、問題集の間に挟んだ。

 窓の外はもう暗い。机のライトの光だけが、静かに手元を照らしていた。


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