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空(くう)は空(そら)ではない  作者: はまゆう


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12/17

第13話 金曜の駒場

 九月に入っても、教室の空気はまだ夏の名残を持っていた。

 進路希望調査の紙が配られる。志望校、学部、志望理由。

 路沙は志望校の欄に「東京大学」と書いた。もう前ほどのためらいはない。

 でも志望理由の欄で手が止まる。

 知的に刺激のある環境に身を置きたい。多様な背景を持つ人と学びたい。

 思いつくには思いつく。でも書こうとすると、全部よそから借りてきた言葉に見えた。


     *


「志望理由って、何を書けばいいかわからない」

 昼休み、廊下の窓際でそう言うと、有馬はパンの袋をたたみながら言った。

「本当のことを書けばいいのでは」

「それが、きれいに言えないから困ってる」

「では、実際に行ってみたら。金曜特別講座、駒場でやっているでしょう。高校生も行けるもの」

「知ってるの」

「前に見たことがあるから」

 有馬はいつもこうだ。一歩どころか三歩くらい先を歩いていて、しかもそれを自慢する気配が一切ない。だからこそ、たまに置いていかれた気分になる。

「真壁も誘えばいいのでは」

「誘って来る?あいつ」

「面白そうなら来るでしょう」

 その予想は、たぶん当たる。路沙もそう思った。


     *


 金曜、駒場東大前で降りると、真壁は改札の外で先に待っていた。

「ほんとに来た」

「誘ったのお前だろ」

「有馬さんが言い出した」

「へえ」

 真壁はちらっと有馬を見た。有馬は何も言わず「行きましょう」とだけ言う。

 門をくぐると空気が変わる。古い煉瓦の校舎が、夕方の光の中で少しくすんで見えた。

「いいね、ここ」

「三田より好きかも」

「わかる」

 路沙は素直にそう言ったけれど、真壁だけは景色を珍しがっていなかった。筑駒はここから近い。真壁にとって、この空気はたぶん通学路の延長でしかない。

「お前、勝手知ったる感じだな」

「まあ、庭みたいなもんだから」

「それ自慢?」

「事実」

 むかつくくらいさらっと言うのが、真壁らしかった。


     *


 金曜特別講座の題目は、「地名から読む日本史――東京の地名に残る制度・宗教・生活」だった。

 先生は最初にこう言った。

「地名は、その土地がかつて何をしていたかを、意外なほど長く保存します」

 調布は租庸調の「調」との関係。用賀はヨガ、修行との関係。経堂は寺院との関係。

 路沙はノートを取りながら、こういう授業は頭に残る、と思った。


 講義の途中、先生が問いを投げた。

「では、みなさんの通う学校の最寄り駅の名前に、由来を考えてみた人は?」

 前のほうの大学生らしい男性が指されて、自分の出身地の地名について文献つきですらすら答えた。教室が小さくどよめく。

 路沙は、その空気に押されるように手を挙げてしまった。

「あの、私の学校、四ツ谷なんですけど」

「ほう」

「たぶん、昔そのあたりに教会とか、宗教的な施設があったからじゃないかと」

 言った瞬間、隣で真壁が小さく噴き出す音がした。

 先生は面白そうな顔をした。

「――それはあなたの学校がミッション系だから、そう思ったのでは?」

 図星だった。

「四ツ谷は、四つの谷が合わさる地形からきた説が有力です。信仰ではなく、地面の形の話ですね」

 教室がどっと笑った。真壁は笑いをこらえきれていない。

「地名じゃなくて、自分の学校の話しちゃったな」

 真壁が小声で言う。

「うるさい」

「宗教施設があったんじゃないかと、じゃないんだよ。お前が毎日ミサ行ってるだけだろ」

「行ってない、週一」

「変わんねえよ」

 教室の笑いはすぐに次の話題に流れていったけれど、路沙の頬だけがしばらく熱かった。

 さっきの大学生は文献を引いていた。自分は、自分の生活をそのまま地面に投影しただけだった。

 見えているものの下に別の層がある、なんて言っておきながら、自分は結局、自分の見たいものしか見ていなかった。


     *


 講義が終わって外に出ると、キャンパスはもう夜の入口だった。

「さっきのは笑った」

「まだ言う?」

「一生言う」

「最悪」

「でも根性はあったよ。手挙げるの、あの空気で」

「外したけど」

「外し方が面白かった」

「それ慰めになってない」

「慰めてない、感想」

 その乱暴さが、なぜか今日はちゃんと効いた。

 有馬は少し後ろから、二人のやり取りを聞いていた。

「見えているものの下に、別の層があるはずだったのに、あなたは自分の姿を見ただけだったのね」

「有馬さんまで言う?」

「事実を言っただけ」

 有馬の口調は真壁と似ているようで、少し違う。真壁のは笑い飛ばす乱暴さで、有馬のは、静かに急所を突く感じがある。

「うん、わかる」

 路沙が言うと、真壁も「わかる」と重ねた。

 その重なりに、有馬は一瞬だけ黙った。何も言わなかったけれど、その間だけ、いつもよりほんの少し長かった。

「こういう授業、受けたい」

 路沙が言うと、有馬が言った。

「今日、恥をかいてもそう思えるなら、それは十分な理由でしょう」

「フォローうまいな、有馬さん」

「フォローではなく、感想」

 その言い方に、路沙は思わず笑った。


     *


 数日後、進路希望調査の紙をもう一度開く。

 志望理由の欄に、少し迷いながら言葉を置く。

 知的に刺激のある環境に身を置きたい。多様な背景を持つ人と学びたい。

 書いてあることは、少し整いすぎている。よそゆきの文章だと思う。

 でも今回は、あの熱かった頬の記憶が言葉の後ろにちゃんとある。

 自分の見たいものだけを見て、外して、笑われて、それでもまだ行きたいと思っている。

 その事実のほうが、どんな綺麗な理由よりも本物だった。

 路沙は紙を静かに閉じた。


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