第13話 金曜の駒場
九月に入っても、教室の空気はまだ夏の名残を持っていた。
進路希望調査の紙が配られる。志望校、学部、志望理由。
路沙は志望校の欄に「東京大学」と書いた。もう前ほどのためらいはない。
でも志望理由の欄で手が止まる。
知的に刺激のある環境に身を置きたい。多様な背景を持つ人と学びたい。
思いつくには思いつく。でも書こうとすると、全部よそから借りてきた言葉に見えた。
*
「志望理由って、何を書けばいいかわからない」
昼休み、廊下の窓際でそう言うと、有馬はパンの袋をたたみながら言った。
「本当のことを書けばいいのでは」
「それが、きれいに言えないから困ってる」
「では、実際に行ってみたら。金曜特別講座、駒場でやっているでしょう。高校生も行けるもの」
「知ってるの」
「前に見たことがあるから」
有馬はいつもこうだ。一歩どころか三歩くらい先を歩いていて、しかもそれを自慢する気配が一切ない。だからこそ、たまに置いていかれた気分になる。
「真壁も誘えばいいのでは」
「誘って来る?あいつ」
「面白そうなら来るでしょう」
その予想は、たぶん当たる。路沙もそう思った。
*
金曜、駒場東大前で降りると、真壁は改札の外で先に待っていた。
「ほんとに来た」
「誘ったのお前だろ」
「有馬さんが言い出した」
「へえ」
真壁はちらっと有馬を見た。有馬は何も言わず「行きましょう」とだけ言う。
門をくぐると空気が変わる。古い煉瓦の校舎が、夕方の光の中で少しくすんで見えた。
「いいね、ここ」
「三田より好きかも」
「わかる」
路沙は素直にそう言ったけれど、真壁だけは景色を珍しがっていなかった。筑駒はここから近い。真壁にとって、この空気はたぶん通学路の延長でしかない。
「お前、勝手知ったる感じだな」
「まあ、庭みたいなもんだから」
「それ自慢?」
「事実」
むかつくくらいさらっと言うのが、真壁らしかった。
*
金曜特別講座の題目は、「地名から読む日本史――東京の地名に残る制度・宗教・生活」だった。
先生は最初にこう言った。
「地名は、その土地がかつて何をしていたかを、意外なほど長く保存します」
調布は租庸調の「調」との関係。用賀はヨガ、修行との関係。経堂は寺院との関係。
路沙はノートを取りながら、こういう授業は頭に残る、と思った。
講義の途中、先生が問いを投げた。
「では、みなさんの通う学校の最寄り駅の名前に、由来を考えてみた人は?」
前のほうの大学生らしい男性が指されて、自分の出身地の地名について文献つきですらすら答えた。教室が小さくどよめく。
路沙は、その空気に押されるように手を挙げてしまった。
「あの、私の学校、四ツ谷なんですけど」
「ほう」
「たぶん、昔そのあたりに教会とか、宗教的な施設があったからじゃないかと」
言った瞬間、隣で真壁が小さく噴き出す音がした。
先生は面白そうな顔をした。
「――それはあなたの学校がミッション系だから、そう思ったのでは?」
図星だった。
「四ツ谷は、四つの谷が合わさる地形からきた説が有力です。信仰ではなく、地面の形の話ですね」
教室がどっと笑った。真壁は笑いをこらえきれていない。
「地名じゃなくて、自分の学校の話しちゃったな」
真壁が小声で言う。
「うるさい」
「宗教施設があったんじゃないかと、じゃないんだよ。お前が毎日ミサ行ってるだけだろ」
「行ってない、週一」
「変わんねえよ」
教室の笑いはすぐに次の話題に流れていったけれど、路沙の頬だけがしばらく熱かった。
さっきの大学生は文献を引いていた。自分は、自分の生活をそのまま地面に投影しただけだった。
見えているものの下に別の層がある、なんて言っておきながら、自分は結局、自分の見たいものしか見ていなかった。
*
講義が終わって外に出ると、キャンパスはもう夜の入口だった。
「さっきのは笑った」
「まだ言う?」
「一生言う」
「最悪」
「でも根性はあったよ。手挙げるの、あの空気で」
「外したけど」
「外し方が面白かった」
「それ慰めになってない」
「慰めてない、感想」
その乱暴さが、なぜか今日はちゃんと効いた。
有馬は少し後ろから、二人のやり取りを聞いていた。
「見えているものの下に、別の層があるはずだったのに、あなたは自分の姿を見ただけだったのね」
「有馬さんまで言う?」
「事実を言っただけ」
有馬の口調は真壁と似ているようで、少し違う。真壁のは笑い飛ばす乱暴さで、有馬のは、静かに急所を突く感じがある。
「うん、わかる」
路沙が言うと、真壁も「わかる」と重ねた。
その重なりに、有馬は一瞬だけ黙った。何も言わなかったけれど、その間だけ、いつもよりほんの少し長かった。
「こういう授業、受けたい」
路沙が言うと、有馬が言った。
「今日、恥をかいてもそう思えるなら、それは十分な理由でしょう」
「フォローうまいな、有馬さん」
「フォローではなく、感想」
その言い方に、路沙は思わず笑った。
*
数日後、進路希望調査の紙をもう一度開く。
志望理由の欄に、少し迷いながら言葉を置く。
知的に刺激のある環境に身を置きたい。多様な背景を持つ人と学びたい。
書いてあることは、少し整いすぎている。よそゆきの文章だと思う。
でも今回は、あの熱かった頬の記憶が言葉の後ろにちゃんとある。
自分の見たいものだけを見て、外して、笑われて、それでもまだ行きたいと思っている。
その事実のほうが、どんな綺麗な理由よりも本物だった。
路沙は紙を静かに閉じた。




