最終話。
「眠れないの?」
そう言った少年の手にはホットミルクが入ったマグカップがふたつ握られていた。
「なんだか、目が冴えちゃって」
「考え事?」
「んー、少しね」
少女はバルコニーに設置されたソファに深く体を沈め月を眺めながら、回帰してから今日までの事を振り返っていた。
「色々あったなぁ――って」
回帰前には一歩踏み出す勇気が持てなかった悪縁との決別に舵を切るという新たな選択、少年との早まった出会いに加えて、その彼が自分と同じ回帰者だったこと。そして、未来に必要不可欠な居場所をかけた試験のこと。
「僕が落ちると思ってた?」
考え事のうちひとつを正確に読み取った少年がまた前に座り込み上目遣いに少女を見た。
少年はよく彼女の前に跪く。しっかりと目線を合わせられる位置を陣取ることで、表情の機微を見逃さないようにするための、回帰前からの染み付いた愛しい少女の心を守るための無意識下での行動である。
「まさか! そういう訳じゃないけど……けど……」
そうは言うものの、少女は事が終わるまで心のどこかで『もしも』をずっと想像していた。
「だって――」
色々と順番が狂ってしまったことで発生したあれやこれやにすっかり翻弄され、少年のことも回帰前とは真逆なことが起こるかと考えてしまうのは必然だった。
「イレギュラーが起こりすぎなのよ」
不満げに頬を膨らませる少女の愛らしい姿に少年は困った。表情筋が仕事をしないのだ。
「ルカ?」
隣に腰を下ろした少年はニヨニヨと緩む顔を隠すために、少女の腿にこてんと転げる。
変態チックに聞こえるかもしれないが、柔らかい彼女の腿を枕に寝転ぶこの時間が何よりも好きだった。
「!」
「いいよ、撫でても」
少女は強制膝枕に驚きつつもすんなり受け入れる。
「もうルカったら」
足を伝い感じる少年の温もりは、彼女へ無条件に安心感を与えた。
「あら? あらら?」
次第に、少女の目から涙が溢れ出した。少し前に撫でた時はそんなことはなかったのに、と少女は自分の感情の起伏に戸惑ってしまう。
「どうしてかしら……?」
その様子を静かに見ていた少年が言葉なく少女の頬を包み込む。そのまま親指で涙を拭った後、徐ろに体を持ち上げて自身の顔を少女へ近づけた。
「る、るか!?」
何が起こったのか、少女は始め理解が出来なかった。
柔らかい感触を覚えた額を手で隠して長いソファの端へ飛び退いた少女に、当の本人は悪びれもせず「口じゃない」なんて答える。
「額だよ?」
それは分かっているが、と少女は顔から火が出るほど動揺した。
これでは驚きのあまり涙も引っ込むというもの。
「あはは、可愛い」
未だ少女の頬を包み込んだままの手が優しく頬を往復する。
「これからはずっと傍にいるから」
「うん」
「僕が護るから」
「うん」
「もう――」
言葉を切った少年の目尻が赤く染っている。その頬にははらはらと涙が伝っていた。
「離さないから」
「うん――」
少女からもまた涙が溢れ出す。
「離さないで」
月明かりに照らされて出来たふたつの人影がもう一度ゆっくりと重なった。
◆◆◇◆◆
『ほらぁああああっ! ねぇ、見た!? アピチェ! 見たわよね!?』
『あーはいはい。見たよ見た見た』
アピチェは興奮気味に自分の肩を左右に揺さぶる友人へてきとうな返事返す。
『あんなり覗き見するなよ』
隣に座る友人と違い、自分にはモラルがあると自負しているアピチェだ。
いくら自分たちと関係のあることだからと言って、覗き見は良くない。と窓をそっと閉める。
『あ~ん、せっかくいいところなのにぃ!』
ぷりぷり怒る友人の宵色の長い髪をそっと撫でる。
自分の手に沿ってゆらゆらと波打つ柔らかい髪はとても美しかった。
『ねぇ、アピチェ』
『ん?』
『ありがとう』
溌剌とした普段とは違う、殊勝な態度が彼女の真摯さを伝えてくる。だから、アピチェも真剣に答えた。
『礼を言うのは早いぞ。まだ終わりじゃない』
最後まで付き合う。と力強く頷くと、彼女がふわりと微笑んだ。
辺り一面を緑にして喜ぶ彼女を今度こそ助けようと、アピチェは静かに誓った。
~第一部・完~




