◇46 過去の未来 その二。
「――レティシア」
腕の中で眠る愛しい人の口から流れる血をそっと拭う。
レティシアの表情は決して苦しそうではなく、安らかなものだった。
「こんな事なら……」
レティシアの指示を無視して何がなんでも傍についているべきだった。
受け止めきれない現実に心はボロボロに砕けてしまった。
いつもなら聞き逃すことのない複数人の足音に気が付かないほどに。
「ルキウス! お前、戻ってこないと思ったらこんなところに、レティシア様は見つかったか――おい、どうした」
「え、嘘だろ……」
「お嬢っ!」
駆け付けたのは、レティシアの護衛を務めていた抜け駆け三兄弟だった。
飛び込んだ部屋の中央で蹲る後輩に抱えられた変わり果てた姿の主に三兄弟が狼狽する。
その間にも、タウンハウスは見る見るうちに崩れ落ちて行く。
「急ごう! ここから出ないとまずい!」
「ルキウス、しっかりしろよ――くそッ! おい、立て!」
オーリが腑抜けになったルキウスの腕を掴むも、鍛えられた成人男性の身体から力が抜ければ馬鹿みたいに重い。
「もう――」
「あ?」
「どうでもいい……何もかも」
「バカ言うんじゃねぇ! ルーク!」
もう返事を返してくれない主を腕に抱えたままの弟分が使い物にならないことをいち早く察したノーランが怒声をあげる。
「クソが! だったらお前だけ焼け焦げろ! お嬢は俺が連れてくかんな!」
「ッ! 触るな!」
「だったら立てよ! この馬鹿が! お嬢をこのまま灰にするつもりか!? ふざけんじゃねーぞ!」
吐き捨てられた言葉にルキウスがやっと意識を浮上させる。
(――灰にだって??)
そんな事、あってはならない。
ルキウスはその言葉に頭を今までにない以上に働かせた。
何が何でも、レティシアを護らねばならない。
これ以上、傷一つ許さない。
「ダメだ! 廊下はもう床が抜け落ちてるし、壁も天井もボロボロだぞ!」
逃げ道を探しに行ったトーリが口元を袖で覆いながら部屋へ引き返してきた。
「だァああああ!!!! 今日ほど、自分の祝福を呪った事ねーぞ!」
「身体強化じゃなく、水とかそっち系ならなぁ――。って、今んな事言ってる場合かよ!」
「ノーラン」
「ん?」
「レティをお願い」
「お、おう?」
頭を抱える義兄二人を見るノーランにレティシアを任せる。
今の今まで意地でも離さなかったレティシアを簡単に預けられた事実にノーランが目を丸くしたのを横目に立ち上がる。
「どうするんだ、ルキウス」
「考えがある」
廊下が無理なら、残るは逆側だ。
つまり。
「おいおい、うそだろ」
ノーランが青ざめるのも無理はない。
なぜなら、僕が手にしたのはエストレラ様が愛用していた椅子だったからだ。
「わ、分かった! 割るんだな!? 窓を!」
「そういうこと」
モケット生地を使用した座り心地の良いそれは、猫脚だった。
時間の経過とともに高温も高温な窓を割るには、このつま先のカーブが丁度いい。
「だ、だったら素手で行こう! それはまずいって!」
「死ぬか死なないかの瀬戸際でそんなこと言ってる場合か?」
「いや確かにそうだけどもな!?」
「どうせ、ここにあったら燃えるんだ」
「おう、極論!」
「これだって、最後に使われれば本望だろうよ」
「椅子は窓を割るものじゃなくて、人が座るものだっ――」
勢いよく叩き付け見事に砕け散った窓に変化が起こった。
「まずいっ! お前ら、伏せろ!」
オーリが叫んだ瞬間、爆発音と熱風が部屋を包んだ。
耳を閉塞感と甲高い音が支配する。
「お前ら全員無事だな?」
「ルキウスしっかりしろ!」
噎せながらも此方へ来たトーリがルキウスを揺する。
「ぁ……ゔ………………うん」
耳に音が戻り、次第に意識がクリアになった。
ルキウスは慌てて後ろを振り向いた。
「ノーラン! レティ、シア、はっ」
「大丈夫、無事だよ」
「良かった……」
腕の中に戻ったレティシアは新しい傷一つとしてなかった。
「よし、行くぞ!」
オーリの合図とともに身体強化を施した兄弟が次々と窓から脱出する。
再度、レティシアの膝の裏と背に腕を回し直して後に続く。
高さは十メートル強。
ザンっと危なげなく着地をした先はプリマヴェール自慢の手入れの行き届いた庭。柔らかい草花は衝撃を完璧に吸収した。
そして、体勢を立て直したルキウスが向かう先はひとつだった。
「ルキウス、私の可愛い子は?」
アシェルに肩を抱かれたレティシアの母――夫人がルキウスの気配を感じ取って手を伸ばす。
「ルキウス?」
目の見えぬ夫人は人や動物の気配を敏感にキャッチする。
つまり、死者となってしまったレティシアは――。
「――こちらに」
夫人の手をすくい取り、そっとレティシアの頬へ誘導する。
冷たくなった肌に夫人の手が触れた。
「まさか……」
状況を瞬時に的確に理解した夫人は声を震わせる。
「あぁ、そんな……」
ベールに隠された顔は青くなっているだろう事は想像に容易い。
「そん、な……ウソよ。ねぇ、アシェル? 嘘でしょう? 嘘だと言ってちょうだい……」
「母上……」
母親の懇願にアシェルは普段殆ど動きがない相好を悲痛に歪める。
「いやよ……アル、レティ……何故、あなた達が――」
夫人の砕かれた心を表すように、雨が降り始め次第に強さを増す。その雨は屋敷を覆い暴れ狂う炎を鎮めた。
「アシェル様、まずいですよ」
アシェルへ耳打ちしたのは偵察へから戻った騎士だ。
「母上、帰りましょう」
「かえる……えぇ、そうね……」
ドレスが汚れる事も厭わず地面に崩れ落ちた夫人をアシェルが抱き上げて馬車へ乗り込んだ。
「ルキウス。レティシアをこちらに」
アシェルがレティシアを馬車に乗せようとこちらへ手を伸ばす。
「…………」
ルキウスはそれに応じることが出来なかった。
冷たくなった妹を離さない従者を見かねたアシェルは表情を変えることなく言葉を続けた。
「――お前も乗れ。グズグズしてると追っ手が来る」
豪雨が敵の追跡を撹乱しているところに御者の祝福も手伝い、まだ何の被害もないプリマヴェールの領地へ無事に辿り着いたのは、すっかり夜が明けた次の日の早朝だった。
「レティシア、帰って来たよ」




