第27話 暗雲——あなたと一緒に
査察団の報告が帝国議会に届いてから三日後。
ダリウス侯爵は追い詰められていた——はずだった。
だが、追い詰められた獣ほど危険なものはない。
前世でも、粉飾決算を暴かれた経営者が最後に何をしたか。証拠を隠滅し、関係者を脅し、最悪の場合は会社ごと道連れにする。
ダリウス侯爵が選んだのは——帝国ごと道連れにする道だった。
異変は夜明け前に始まった。
ベルフィーネ領の領主館で眠っていた俺は、全身を貫くような魔力の波動で叩き起こされた。
鑑定スキルが勝手に発動している。身体が警告を発しているのだ。
「ルーク様!」
フィーネが部屋に飛び込んできた。短剣を手にしている。寝間着のまま。
「北東の方角から、強い魔力の脈動を感じます。以前のスタンピードの時と同じ——いえ、それ以上です」
「魔核か——」
アンカードの森で浄化した魔核とは別の魔核。古代遺跡は一つではなかったのだ。
急いで階下に降りると、ギルバートが既に鎧を着けて待っていた。
「坊主、感じたか」
「ええ。前回より規模が大きい」
「今度の方角は北東じゃねぇ。南西だ——帝都の方角だぞ」
心臓が跳ねた。
帝都を狙っている。ダリウス侯爵は、帝都に魔物の群れをぶつける気だ。
アンネリーゼ様が蒼白な顔で階段を降りてきた。法衣をまともに着れていない。寝起きだ。
「ルーク様、これは——大規模な魔核の暴走です。前回のアンカードの比ではありません。魔物の数は——数万規模になるかもしれません」
数万。
帝国軍の総兵力でも対処しきれない数だ。
「ダリウス侯爵が仕掛けたんですか?」
ヴィクトルが眼鏡を押し上げながら訊いた。帝国の政治に精通した少年の頭は、既に結論に達しているようだった。
「査察の失敗で追い詰められた侯爵が、最後の手段に出た——そう考えるのが自然ですわね」
リディアが階段の上に立っていた。
完璧な身支度。いつ着替えたのか。この人は危機的状況になると、公爵令嬢の鎧を纏うのが早い。
「帝都に連絡を——」
「既にフェルミ騎士団に早馬を出しました」
フィーネが敬礼する。この子の判断力は頼もしい。
「問題は、帝都の防衛力で数万の魔物を迎え撃てるかどうかです」
ギルバートが腕を組んだ。
「帝都の駐屯軍は一万弱。城壁は堅固だが、前回のアンカード以上の規模なら——持たねぇ可能性がある」
全員の目が俺に向いた。
天使召喚。俺のチート能力。それがこの状況を変えられる唯一の手段だと、全員が分かっている。
だが——身体適合率3%。
アンカードの防衛戦でも限界ギリギリだった。今回はあの時以上の規模だ。全力を出せば、身体が壊れるかもしれない。
「やるしかないでしょう」
俺は言った。
「ルーク、お前——」
「身体適合率のリミッターを、一段階解放します」
全員が息を呑んだ。
リミッターの存在は、リディアとアンネリーゼ様には話してある。適合率3%では全力が出せないこと。無理に力を引き出せば、身体が自壊する危険があること。
「一段階解放すれば、適合率は推定で10%程度まで上がります。天使の複数同時召喚も可能になるはずです。ただし——」
「反動で身体がどうなるか分からない、ということですわね」
リディアの声は平静だった。だが、手が微かに震えているのを俺は見逃さなかった。
「リディア、ぼくは——」
「言わないでください」
リディアが俺の前に立った。碧い瞳が真っ直ぐに俺を射抜く。
「『一人で行く』なんて言ったら、許しませんわよ」
「でも、リディアまで危険な——」
「わたくしの魔法を忘れましたか? アンカードで証明したでしょう。あなたの傍にいれば、わたくしの氷結魔法は制御できる」
リディアが一歩近づいた。
「あなたが倒れた時、誰が支えるのですか。聖女様の浄化魔法は、あなたの傍にいなければ効果がない。わたくしの魔法も、あなたがいなければ暴走する。——わたくし達は、離れてはだめなのです」
反論できなかった。
リディアの言っていることは正しい。感情論ではなく、戦術として正しい。
俺一人で突っ込んで倒れたら、それこそ終わりだ。
「……分かりました。一緒に行きましょう」
「最初からそのつもりですわ」
リディアが微笑んだ。覚悟の微笑みだった。
「ギルバートさん、領地の防衛をお願いします」
「任せろ。フィーネと自警団で守り抜く」
ギルバートがフィーネと頷き合った。
「ヴィクトル、帝都との連絡を維持してくれ。状況が変わったらすぐに知らせて」
「承知しました。——ルーク様、ご武運を」
ヴィクトルが深く頭を下げた。隈だらけの目に、涙が光っていた気がした。
「マリエッタさんにも伝えておいてください。商隊の運行は一時停止で」
「分かっていますわ。こういう時のために、予備の食料を備蓄してあります」
マリエッタの声が隣の部屋から聞こえた。いつから起きていたのか。この商人は、危機管理まで抜かりない。
「アンネリーゼ様」
「はい。もちろんお供します。わたしの浄化がなければ、ルーク様の身体が持ちませんから」
聖女様が決意の表情で頷いた。法衣がまだ裏返しだが。
「聖女様、法衣が——」
「あっ……すみません」
この人は本当に——戦闘力と日常生活力の落差が激しい。
馬車を用意する時間も惜しい。俺は身体強化魔法を全員にかけて、走ることにした。
三人で走る。帝都に向かって。
夜明けの空に、南西の方角から黒い雲が広がっていた。
あれは雲ではない。魔物の群れが巻き上げた土煙だ。
「ルーク」
走りながら、リディアが俺を呼んだ。
「はい」
「あの夜、星空の下で言いましたわよね。わたくしの隣にいると」
「ええ」
「——わたくしも、あなたの隣にいます。何があっても」
碧い瞳が朝日を受けて輝いていた。
半年前と同じ目だ。謁見の間で、恐怖に耐えながら前を向いていた、あの目。
あの日と違うのは——今、この子は一人じゃないということだ。
「ありがとう、リディア」
「礼はまだ早いですわよ。全部終わってからにしてくださいまし」
リディアが笑った。
走りながら、笑った。
怖い。正直に言って、怖い。
リミッターを解放したら何が起きるか分からない。身体が壊れるかもしれない。最悪、死ぬかもしれない。
だが——前世では、死ぬ時に誰もいなかった。
深夜のオフィスで、一人きりで倒れた。
今は違う。
隣に、この人がいる。
だから——走れる。
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