第5話 初めての買い物
美那に腕を引かれるまま商店街を歩いていると、やがて一軒の店の前で足が止まった。
「まずはここね」
「……ここ?」
目の前にあるのは、女性用の下着を扱っている店だった。
ガラス越しに見える店内には、色とりどりの下着が並んでいる。入口付近には女性用のマネキンまで置かれていた。
「そう。下着も買いたいんでしょ?」
「……うん」
「じゃあ入ろ」
美那は何のためらいもなく店へ入っていく。
俺は一瞬、その場に立ち止まった。
いや、待て。
こういう店に入るのか。
今まで女性用の下着売り場なんて、まともに入ったことがない。そもそも、自分が客としてここに来る日があるなんて考えたこともなかった。
「明日香?」
入口から美那が振り返る。
「何してるの?」
「あ、いや……」
「早くおいでよ」
「うん」
俺は何でもない顔をして店へ入った。
大丈夫だ。
今の俺は田中明日香という女子高生だ。こういう店に入ったところで、誰も変には思わない。
むしろ、入口でいつまでも立ち止まっている方がおかしい。
「いらっしゃいませ」
女性店員が声をかけてきた。
「あ、こんにちは」
反射的に頭を下げる。
それから店内を見回した。
壁にも棚にも下着が並んでいる。色も形も種類が多く、正直どこを見ればいいのか分からない。
それに、どうにも視線が落ち着かなかった。
別に悪いことをしているわけじゃない。それは分かっている。だが、昨日まで男の身体で生活していた俺が、今は堂々と女性用の下着を選ぼうとしている。
何とも妙な気分だった。
美那は平然と商品を眺めている。俺も同じようにしていればいいのだろうが、どうしても周囲の目が気になってしまう。
もっとも、周りの客は誰も俺を気にしていなかった。
当たり前だ。
ここにいるのは、どう見ても普通の女子高生なのだから。
俺はなるべく平静を装いながら、美那の後ろについて歩いた。
「どんなのがいい?」
「……どんなの?」
「色とか、形とか」
「普通のでいいかな」
「普通って?」
「普段使うようなやつ」
「それは分かるけど」
美那が棚から一つ手に取る。
「こういうのは?」
「……いいんじゃない?」
「じゃあ、こっちは?」
「それもいいと思う」
「明日香、ちゃんと見てる?」
「見てるよ」
「どっちもいいって言ってるじゃん」
「どっちもよさそうだから」
実際、俺には違いがよく分からなかった。
色や飾りが違うことくらいは分かる。だが、どれが着やすくて、どれが普段使いに向いているのかなんて知るはずがない。
今までそんなことを考える必要がなかったのだから。
「じゃあ、サイズは?」
「……サイズ?」
「うん」
しまった。
そういえば、下着にはサイズがある。
服なら大きいか小さいかを見れば何となく判断できるが、こういうものはどうやって選ぶんだ?
「明日香?」
「あ、うん」
「サイズ、分かる?」
「……最近ちょっと変わったかもしれないから」
「え?」
「一回、測ってもらおうかなって」
何とかそれらしい理由を口にした。
すると、美那が急に嬉しそうな顔になった。
「じゃあ、あたしが測ってあげる!」
「……え?」
思わず美那の顔を見た。
測るって、こいつが?
いや、待て。
それはさすがに恥ずかしくないのか?
「サイズでしょ?」
「いや、店員さんにお願いしようと思ってるんだけど」
「何で?」
「何でって……」
「前にもあたしが見てあげたじゃん」
「……前にも?」
「うん。忘れたの?」
美那が当然のように頷く。
そうなのか。
女子高生の親友同士というのは、そんなことまでするものなのだろうか。
正直、少し抵抗があった。
だが、女同士なら男とは感覚が違うのかもしれない。
俺にはさっぱり分からない。
それに、美那は以前にも手伝ったと言っている。だったら、本物の明日香にとっては普通のことだったのだろうか。
確かめようにも、俺にはその記憶がない。
「ほら、こっち来て」
美那が俺の手を取る。
「ちょっと待って」
「何?」
「ここ、お店だし」
「だから?」
「店員さんに聞いてみようよ」
「えー」
美那が少し不満そうな顔をする。
何がそんなに残念なのか分からない。
「すみません」
ちょうど近くにいた店員へ声をかけた。
「はい、いかがなさいましたか?」
「あの、サイズがよく分からなくて。測っていただくことってできますか?」
「はい、もちろんです。お洋服の上から確認できますよ」
「お願いします」
店員はにこやかに頷き、採寸する場所へ案内してくれた。
よかった。
少なくとも、これで変なことを言わずに済む。
そう思ったのも束の間だった。
「明日香、あたしも一緒に行く」
「え?」
「いいでしょ?」
「いや、でも……」
美那は俺の腕にぴったりくっついてくる。
「前も手伝ったんだから」
「……そうだったね」
何だか断りにくい。
どうやら、こういうことにも慣れなければいけないらしい。
もっとも、今の俺には女性同士の普通の距離感なんて分からない。ここで嫌がって、明日香らしくないと思われるのも困る。
結局、採寸そのものは店員に任せ、美那には近くで待っていてもらうことになった。
店員は慣れた様子で手早く確認を済ませ、サイズの目安を教えてくれた。
「こちらのサイズから試していただくとよろしいかと思います」
「ありがとうございます」
ようやく一つ問題が解決した。
だが、サイズが分かったからといって、買い物が終わるわけではなかった。
◆
「これ、可愛くない?」
美那が楽しそうに商品を手に取る。
「うん」
「こっちもいいなあ」
「そうだね」
「明日香はどっちが好き?」
「……こっちかな」
「えー、そっち?」
「駄目なの?」
「駄目じゃないけど、あたしはこっちの方が好き」
「じゃあ、そっちでもいいよ」
「本当?」
「うん」
「やった!」
美那が嬉しそうに笑う。
……何でこいつが喜ぶんだ?
買うのは俺なんだが。
結局、店員にも相談しながら、普段使いしやすいものを選んだ。
試着も勧められたので、サイズに問題がないか確認することにした。
案内された試着室へ入ると、ようやく一人になれた。
「……ふう」
思わず息が漏れる。
緊張した。
手に持った下着を見る。
まさか自分がこれを身につけることになるとは思わなかった。
いや、今の身体なら必要なのは分かる。
分かるんだが……。
「……何やってんだろ、俺」
誰もいない試着室で、小さく呟いた。
別に何か悪いことをしているわけじゃない。
今の身体で生活するなら、下着だって必要になる。そんなことは分かっている。
だが、分かっているからといって、簡単に慣れるものでもない。
つい昨日まで、俺は男の身体で生活していた。
それが今は、女子高生の姿で女性用の下着を買っている。
鏡を見ると、そこには当然のように田中明日香がいた。
この姿なら、何もおかしくはない。
そう思う一方で、頭の中ではまだ昨日までの自分が普通に暮らしている。
昨日の今頃、まさかこんなことで悩む日が来るなんて、想像もしなかった。
「……何でこうなったんだよ」
小さく呟いた。
「明日香ー?」
外から美那の声がした。
「……何?」
「大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「分かんないことあったら言ってね」
「うん」
「前みたいに手伝ってあげようか?」
「大丈夫!」
思わず大きな声が出た。
「そんなに大きな声出さなくてもいいじゃん」
「……ごめん」
危ない。
変に慌てていたら、美那に怪しまれる。
だが、いくら親友だと言われても、まだそこまで平気にはなれなかった。
女同士なら普通なのかもしれないが、少なくとも俺にとっては普通じゃない。
俺は一度気持ちを落ち着け、それから必要なものを確認した。
しばらくして試着室を出ると、美那が待ち構えていた。
「どうだった?」
「大丈夫そう」
「よかったね」
「うん」
「じゃあ、これも買おうよ」
美那が別の商品を差し出してきた。
「……まだ買うの?」
「だって一つじゃ足りないでしょ」
「それはそうだけど」
「洗い替えも必要だし」
言われてみれば、そのとおりだった。
男だった頃だって、下着を一枚だけ持って生活していたわけではない。
「じゃあ、何セットか買おうかな」
「そうしよ!」
美那はまた楽しそうに棚へ向かった。
こいつ、さっきからずっと上機嫌だな。
俺はその後を追った。
最終的に、上下お揃いの下着を三セットと、普段使いのものを何枚か追加で購入した。
会計を済ませ、店の外へ出る。
「……終わった」
「何、その言い方」
「いや、結構時間かかったなって」
「そう?」
「うん」
「でも、いいの買えたじゃん」
「そうだね」
美那が満足そうに頷く。
俺も買い物袋を見下ろした。
とりあえず、これで一つ問題は片づいた。
だが、まだ終わりではない。
「次は服だね」
「……やっぱり?」
「当たり前じゃん。そのジャージでずっと過ごすつもり?」
「いや」
「じゃあ行こ!」
美那がまた俺の腕を取った。
元気な奴だ。
俺は買い物袋を持ち直し、その後についていった。
◆
次に入ったのは、女性用の服を扱っている店だった。
下着屋ほどではないが、ここも俺にとっては馴染みのない場所だ。
色々な服が並んでいる。
シャツにブラウス、カーディガン。スカートやズボンにも種類があり、何をどう組み合わせるのが正解なのか分からない。
「明日香、どんなの欲しい?」
「とりあえず、普段着られるやつ」
「普段着?」
「うん。何着か欲しいんだ」
「そんなに?」
「今、着られる服があんまりなくて」
嘘ではない。
というより、このぶかぶかのジャージ以外、まともに着られる服が一着もない。
昨日まで使っていた服は全部男物だ。今の身体ではサイズが合わない。
「じゃあ、色々見よっか」
「うん」
美那はさっそく服を選び始めた。
「これとかどう?」
差し出されたのは、淡い色のブラウスだった。
「……いいと思う」
「着てみて」
「今?」
「うん」
試着室へ向かう。
さっきの下着屋とは違い、普通の服ならそれほど抵抗はなかった。
少なくとも、普段から服を着替えること自体には慣れている。
俺はブラウスを着て、試着室のカーテンを開けた。
「どう?」
美那が俺を見る。
そして、ぱっと顔を明るくした。
「可愛い!」
「……そう?」
「うん! やっぱり似合う!」
鏡を見る。
そこには、見慣れない服を着た田中明日香がいた。
確かに、服そのものは似合っているように思う。
だが、鏡の中の少女が自分だという感覚には、まだ慣れなかった。
「こっちのスカートも合わせてみて!」
「スカート?」
「うん」
「……ズボンじゃ駄目?」
「駄目じゃないけど、こっちも可愛いと思う」
美那がスカートを差し出してくる。
俺はしばらくそれを見た。
今まで、自分がスカートを履くなんて考えたこともなかった。
だが、今は女子高生の身体だ。
制服だってスカートのはずだし、これから必要になることもあるかもしれない。
「……じゃあ、一回着てみる」
「うん!」
美那が嬉しそうに笑う。
試着室へ戻り、言われたとおりに着替えた。
カーテンを開ける。
「どう?」
「いい!」
即答された。
「本当?」
「うん。すごく似合ってる」
鏡を見る。
確かにおかしくはない。
むしろ、見た目だけなら普通の女子高生だった。
問題は中身の方だ。
「……変じゃない?」
「全然」
「そっか」
「明日香、何でそんな心配してるの?」
「いや、普段あんまり履かないから」
「そんなことないでしょ」
「……そうだった?」
「明日香、スカートだって普通に履くじゃん」
そう言われてしまうと、返す言葉がない。
本物の明日香なら、そうなのだろう。
「じゃあ、これも買おうかな」
「うん!」
美那が満足そうに頷いた。
そのあとも、服選びは続いた。
ブラウスを何枚か、カットソー、カーディガン。それからスカートと、動きやすそうなワイドパンツ。
美那が選んだものだけでなく、俺自身も着やすそうな服を探した。
「これ、よくない?」
俺が手に取ったのは、ゆったりしたズボンだった。
「ワイドパンツ?」
「そういう名前なの?」
「うん」
「動きやすそうだし、これも欲しい」
「いいと思うよ」
「じゃあ、これ」
「明日香、そういうの好きだったっけ?」
「……最近好きになったの」
「ふうん」
美那は少し不思議そうにしたが、それ以上は聞いてこなかった。
どうやら、全部を美那に任せる必要はないらしい。
少しずつ、自分でも選べるようになってきた。
それから部屋で着る服も買い足した。
これだけあれば、しばらくは何とかなるだろう。
そう思っていたところで、美那が俺の足元を見た。
「ねえ、靴は?」
「靴?」
「それ、大きくない?」
言われて足元を見る。
昨日まで履いていたスニーカーだった。
確かに今の足には大きい。朝から歩きにくいとは思っていたが、服のことばかり考えていて忘れていた。
「……そういえば」
「やっぱり大きいんだ」
「ちょっとね」
「じゃあ靴も買おうよ」
「……まだ買うの?」
「だって、それじゃ歩きにくいでしょ」
正論だった。
結局、靴屋にも寄ることになった。
◆
「……結構買ったな」
買い物が終わった頃には、両手にいくつもの袋を持っていた。
下着に服に靴。
必要なものを一通り揃えたら、思っていた以上の荷物になってしまった。
「でも、これでしばらく困らないでしょ?」
「そうだね」
美那は満足そうだった。
俺も財布の中身を確認する。
それなりに金を持ってきたつもりだったが、予想以上に減っていた。
「……結構使ったなあ」
「え?」
「何でもない」
「でも、いっぱい買えてよかったじゃん」
「うん。助かったよ」
これは本心だった。
美那がいなければ、何をどこで買えばいいのか分からなかっただろう。
特に下着屋なんて、一人で入っていたらどうなっていたか分からない。
「ありがと、みーちゃん」
「……え?」
美那がこちらを見る。
「何?」
「今、何て?」
「ありがとって」
「そのあと」
「みーちゃん」
美那が嬉しそうに笑った。
「もう一回」
「……何で?」
「いいから」
「みーちゃん」
「うん!」
満足そうに頷く。
こいつ、そんなにその呼び方が好きなのか。
「じゃあ、そろそろ帰ろっか」
「そうだね」
美那が頷く。
その時だった。
ぐう、と腹が鳴った。
「……」
美那が俺を見る。
「明日香?」
「……何?」
「今の、お腹?」
「そうだけど」
「あ、そういえば明日香、まだご飯食べてなかったんだよね!」
「……そうなんだよ」
「ごめん! 買い物に夢中になっちゃった!」
「別にいいよ」
腹はずっと減っていた。
だが、買い物が始まってしまったので、食事をする機会がなかっただけだ。
「もうお腹ぺこぺこじゃん!」
「そうなんだよ」
「何か食べてく?」
「うん。そうしたい」
「じゃあ、どこ行こっか」
少し考える。
さっきから美那には世話になりっぱなしだ。
せっかくだから、何かお礼をしたい。
「喫茶店行かない?」
「さっき言ってたところ?」
「うん」
「いいね!」
「じゃあ、そこにしよう」
俺たちは買い物袋を持って、いつもの喫茶店へ向かった。




