第4話 高沢美那
美那と並んで歩き始めてからも、腹の減りは収まらなかった。
結局、『揚州』では何も食べていない。朝から色々ありすぎて忘れかけていたが、腹はそんな事情まで考えてくれないらしい。
「そういえば明日香、さっきどこ行こうとしてたの?」
「飯」
答えた途端、美那がこっちを見る。
「飯?」
「……ご飯」
「今、直したでしょ」
「気のせい」
「絶対直した」
美那が笑う。
さっきからこれだ。何も考えずに喋ると男っぽいと言われる。だから意識して直そうとすると、今度は妙な言い方になる。
「で、ご飯食べに行こうとしてたの?」
「うん。お腹空いたから、いつもの喫茶店にでも行こうと思ってた」
「いつもの喫茶店?」
「あたしが最近よく行ってるところ」
「へえ。どこ?」
店の場所を簡単に説明すると、美那は興味深そうに聞いていた。
「一人で行ってるの?」
「だいたいは」
「知らなかった」
「最近見つけたから」
「他にもそういうところある?」
「ラーメン屋とか」
「ラーメン屋?」
美那が意外そうな顔をする。
「何?」
「明日香がラーメン屋って、ちょっと意外」
「そう?」
「うん。どこ?」
「『揚州』って店」
「揚州……」
「駅から少し行ったところ。さっきまでそこにいた」
「さっきのあたりか」
美那は店の名前を覚えるように、もう一度「揚州」と呟いた。
「よく行くの?」
「結構」
「一人で?」
「まあ」
「へえ……」
また妙な顔をされた。
「何?」
「いや、明日香ってそういう店あんまり行かなそうだから」
「そういう店って?」
「町のラーメン屋とか、一人でふらっと入る感じじゃないっていうか」
「じゃあ、どんな感じなの?」
「どんなって……」
美那が少し考える。
「明日香、お嬢様じゃん」
「……お嬢様?」
「何、その反応」
「いや」
思わず黙る。
お嬢様。
鏡で見た顔や、私立の女子校に通っていることを考えれば、確かにそういう雰囲気はあった。
「そんなに?」
「そんなにっていうか、家も裕福だし。明日香自身もちゃんとしてるし」
「……へえ」
「自分のことなのに何で感心してるの?」
「そうだったね」
また一つ、田中明日香について分かった。
裕福な家の娘で、私立の女子校に通っている。そして、少なくとも美那からは「お嬢様」だと思われている。
だったら、さっきから俺がやっている喋り方も、それほど間違っていないのではないか。
「じゃあ、やっぱりこういう喋り方でよろしいのかしら?」
「……何それ」
「お嬢様なんでしょ?」
「お嬢様だけど、そんな喋り方しないよ」
「しないの?」
「しない」
即答された。
「普通だよ、普通」
「普通って?」
「今までの明日香は、普通に喋ってた」
「例えば?」
「例えばって言われても……『そうなんだ』『それ違うでしょ』『やめてよ』とか」
「……普通だね」
「だから普通って言ってるじゃん」
「でも、お嬢様なんだよね?」
「お嬢様だからって『〜ですわ』とか『〜かしら』とか言わないでしょ」
「そういうもんなの?」
「明日香がそうなの!」
美那が吹き出した。
「何で自分の喋り方をあたしに教わってるの?」
「ちょっと確認してるだけ」
「何の確認?」
「色々」
「またそれ」
美那はまだ笑っている。
どうやら、お嬢様だからといって特別な喋り方をするわけではないらしい。
考えてみれば当たり前かもしれない。だが、今の俺には何が普通で何が不自然なのか、さっぱり分からない。
ただ、さっきから気をつけているうちに、少しずつ慣れてきた気もする。
無理に女っぽくする必要はない。言葉を少し選べば、それだけで随分違うようだった。
「でもさ、さっきのラーメン屋、本当に好きなの?」
「好きだよ。美味しいし」
「へえ。そんなに?」
「うん」
「じゃあ今度行ってみたいな」
「一人で行けばいいんじゃない?」
「明日香と行く」
「何で?」
「親友だから」
当たり前のように言われた。
「……そうだったね」
「何、その言い方」
「何でもない」
美那は自分たちを親友だと言っている。なら、一緒に食事へ行くくらい普通なのだろう。
そう考えていると、美那が俺の腕に自分の腕を絡めてきた。
「……何?」
「何って?」
「近くない?」
「いつもこんなもんじゃん」
「……そうなの?」
「またそれ」
美那が少し不思議そうにこちらを見る。
「今日の明日香、本当に変」
「朝から色々あったの」
「その色々を教えてくれないけどね」
「そのうち」
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
美那は不満そうにしながらも、腕を離そうとはしなかった。
親友ならこれくらい普通なのか。今の俺には、それすら分からない。
しばらく歩いていると、美那がふと思い出したように口を開いた。
「でも、よかった」
「何が?」
「明日香、今朝すごく元気なかったじゃん」
「……そうだった?」
「うん。買い物も無理って言ってたし、今日はもう会えないと思ってた」
「そうなんだ」
「だから、こうして一緒にいられて嬉しい」
美那が笑う。
さっきまで人の喋り方を面白がっていたのに、急にそんなことを言われると、どう返せばいいのか分からなくなる。
「……ありがと」
「え?」
「心配してくれてたんでしょ?」
「うん」
美那は少し驚いたような顔をしたあと、嬉しそうに笑った。
「明日香、今日は素直だね」
「いつもは違うの?」
「うーん。どうだろ」
「何それ」
「でも、今日の明日香も結構好き」
「……そっか」
美那は満足そうに頷くと、また俺の腕に身体を寄せてきた。
正直、少し近すぎるとは思う。だが、心配してくれていた相手を無理に引き離すのも気が引けた。
それに、今の俺に田中明日香のことを教えてくれるのは、こいつくらいしかいない。
「で、買い物は?」
「高沢に任せ――」
美那が無言でこっちを見る。
「……みーちゃんに任せる」
「よろしい」
「何、その言い方」
「ふふっ」
美那が得意そうに笑う。
何だか、こいつの思い通りに動かされている気がする。
「駅前の商店街でいい?」
「うん」
「服とか見よっか」
「そうしよう」
美那は嬉しそうに頷いた。
腹は減っているが、今の身体に合う服も必要だった。どうせなら先に買い物を済ませてしまおう。
飯はそのあとでいい。
本物の明日香が何を買うつもりだったのかは分からないが、美那についていけば、少なくともこの身体に必要な物は揃えられるかもしれない。
「じゃ、行こ」
「うん」
美那は俺の腕にくっついたまま歩き出す。
俺もその隣を歩いた。
田中明日香。
裕福な家のお嬢様で、私立の女子校に通っている。だけど、喋り方は普通で、ラーメン屋へ一人で通うような人間ではないらしい。
そして、高沢美那という親友がいる。
美那と話すたび、知らない自分の輪郭が少しずつ増えていく。
そのどれもが、本当は俺のことではない。
そんな妙な感覚を抱えたまま、俺たちは駅前の商店街へ向かった。




