第3話 男子トイレ
『揚州』を飛び出してからもしばらく走った。
どこへ向かっているのかは自分でも分からない。ただ、あの店から離れたかった。
「……何なんだよ、これ」
足を止め、自分の身体をもう一度見下ろす。
ぶかぶかのジャージ。袖から覗く細い手。明らかに昨日までとは違う、小さな身体。
さっき鏡で見た少女の顔が頭から離れない。
「いや、待てよ……」
顔だけじゃない。
本当に身体まで女になっているのか。
急にそれが気になった。
さすがに道端で確認するわけにはいかない。辺りを見回すと、少し先に駅が見えた。
「トイレ……」
俺は駅へ向かった。
◆
男子トイレへ駆け込み、洗面台の前で立ち止まる。
鏡を見る。
やっぱりいた。
知らない少女。
「……夢じゃねえよな」
頬をつねる。
「痛っ」
痛い。夢ではなさそうだ。
もう一度、鏡の中の自分を見る。長い髪。細い首。小さな肩。昨日までとは何もかも違う。
「……まさかな」
周りに誰もいないことを確認してから、ジャージの上から恐る恐る胸元へ手を当てた。
「……ある」
わずかだが、明らかに昨日までなかった膨らみがある。
次に下半身を確認する。
「……」
もう一度確認した。
「……ない」
昨日まであったものがない。
「本当に女じゃねえか……」
鏡を見る。
少女も、呆然と俺を見返している。
「何でだよ」
胸元に手を当てる。下を見る。また鏡を見る。
何度確認しても結果は同じだった。
「あの……」
突然、後ろから声がした。
「ん?」
振り返る。
中年の男が立っていた。俺を見て、ものすごく困った顔をしている。
「お嬢ちゃん」
「またそれかよ」
「いや、その……」
男が入口の方を指差した。
「ここ、男子トイレなんだけど」
「だから何だよ」
「何って……」
「俺は――」
言いかけて止まった。
俺。
男子トイレ。
そして、今の身体。
「……あ」
男を見る。
自分を見る。
もう一度、男子トイレの中を見る。
「……」
何も言わず、俺は出口へ向かった。
「あ、お嬢ちゃん?」
「何も言うな」
「いや、別に怒ってるわけじゃ――」
「何も言うな!」
そのまま男子トイレを飛び出した。
◆
駅前の人混みに紛れながら歩く。
「……最悪だ」
ラーメン屋に行っても誰にも分かってもらえない。酒も飲ませてもらえない。男子トイレにも入れない。
昨日までは普通にできていたことが、一晩で何もできなくなった。
昨日までの生活は、それなりに楽しかった。
自分が何者か分からなくても、ラーメン屋へ行けば大将がいた。飲み屋へ行けば知り合いがいた。店に入れば「亮ちゃん」と呼ばれた。
過去はなくても、最近の生活だけは自分のものだと思っていた。
それすらなくなった。
「田中亮じゃなかったと思ったら、今度は女かよ……」
そもそも俺は、最初から田中亮ですらなかったのかもしれない。
考えるほど頭が痛くなる。
「……もういい。飯だ」
腹はまだ減っている。
ラーメンは食い損ねた。それなら、朝によく行っていた喫茶店へ行けばいい。
どうせ向こうも俺のことを知らないと言うのだろうが、食い物くらいは注文できる。
俺は駅前の通りを歩き出した。
「明日香!」
後ろから声が聞こえた。
誰かを呼んでいるらしい。
そのまま歩く。
「明日香ー!」
また聞こえた。さっきより近い。
でも俺には関係ない。
「ちょっと、明日香!」
肩をつかまれた。
「ん?」
振り返る。
一人の女子高生が立っていた。
肩の辺りまで伸びた黒髪を後ろでゆるくまとめている。少しつり気味の目をしていて、制服はきちんと着ているのに、鞄には小さなマスコットがいくつかぶら下がっていた。
女子高生は俺の顔をじっと見てから、ほっとしたように息を吐いた。
「やっぱり明日香だ」
「……は?」
「その格好だったから、一瞬分かんなかった」
視線が俺のぶかぶかのジャージへ落ちる。
「何でそんなの着てるの?」
「いや、その前に」
「何?」
「誰だ、お前」
「……」
女子高生の表情が止まった。
「お前って何?」
「何って、お前だよ」
「ひどくない?」
少し傷ついたような顔をする。
「いくら何でも、その呼び方はないでしょ」
「じゃあ何て呼べばいいんだよ」
「何てって……」
俺は女子高生を見る。
当然、知らない。
その時、制服の胸元に付いている小さなネームプレートが目に入った。
『私立星蘭女子高等学校』
その下には名字だけが記されている。
『高沢』
「……高沢」
「何、その呼び方」
「書いてあるだろ」
「そうじゃなくて。いつもそんな呼び方してないでしょ」
「……」
いつもと言われても分からない。
「本当にどうしたの?」
「ちょっと頭がごちゃごちゃしてんだよ」
「……美那」
「え?」
「美那だよ。あたしの名前」
「じゃあ、美那」
「違う」
「は?」
美那が少しだけ口元を緩めた。
「みーちゃん」
「……みーちゃん?」
「そう。いつもそう呼んでるでしょ」
「本当に?」
「本当」
妙に強く言い切られた。
俺には確かめる方法がない。
「……みーちゃん」
「うん!」
途端に笑顔になる。
「何でそんな嬉しそうなんだよ」
「そんなことないよ」
笑顔のまま否定された。
分かりやすい奴だ。
今の俺について何か知っているのはこいつしかいない。本人がそう言うなら、今はそういうものだと思っておくしかなかった。
「でも、今日ほんと変だよ」
「何が?」
「無視するし、変な格好してるし、あたしのことまで分かってなかったみたいだし」
「ちょっと混乱してんだよ」
「じゃあ、自分の名前は?」
「名前?」
聞かれて、反射的に口が動いた。
「……田中」
言った直後に気づいた。
田中亮は俺じゃなかった。
今の身体まで田中だなんて、分かるはずがない。
「田中なのは知ってるよ」
「……」
思いがけず当たっていた。
「下の名前は?」
「下……」
そういえば、こいつはさっきから同じ名前を何度も呼んでいる。
「……明日香か?」
美那が呆れたように息を吐いた。
「そう。田中明日香。あたしの親友」
「……親友?」
「何その反応。そうでしょ?」
「……そうなのか」
「そうだよ」
また言い切られた。
俺には分からない。
だが、美那がそう言うのなら、そうなのだろう。
「自分の名前まで忘れたの?」
「忘れたわけじゃねえよ。確認しただけだ」
「自分の名前を?」
「……そう」
自分でも苦しいと思う。
田中明日香。
さっきから呼ばれていた名前が、ようやく今の身体につながった。
田中なんて珍しくもない名字だ。昨日まで田中亮だったからといって、それだけで何か関係があるとは思えない。
美那が俺のジャージを見る。
「それにしても、何でそんな格好してるの?」
「俺の服だから」
「また俺」
「……」
「明日香、そんな言い方しないよ」
「じゃあ何て言えばいいんだよ」
「それも何か違う」
「面倒くせえな……」
美那が吹き出した。
「何だよ」
「今日の明日香、おかしい」
「だから色々あんだよ」
「それに朝はちゃんと制服だったじゃん」
「朝?」
美那はそう言いながら歩き始めた。
俺も隣に並ぶ。
「今日、早退してたけど、用事はもう終わったの?」
「……用事?」
「朝、今日は用事があるから早く帰るって言ってたじゃん」
「……ああ」
何のことかまるで分からない。
「朝、すごい元気なかったから心配してたんだけど」
「元気なかった?」
「うん。ずっとぼーっとしてたし」
「そうなのか」
「自分のことでしょ」
「……そうだったな」
その朝の明日香は俺じゃない。
だから何があったのかも分からない。
「じゃあ、今日買い物行ける?」
「買い物?」
「ほら、忘れてる」
「忘れてねえよ」
「何買う予定だった?」
「……細かいことは忘れた」
「それ忘れたって言うんだよ」
美那が笑う。
何を買うつもりだったのかは知らない。
でも、こいつと一緒にいれば田中明日香について何か分かるかもしれない。
「行ける」
「ほんと?」
「ああ」
「じゃあ行こう」
美那が少し足を速める。
俺もその後を追いかけ――ふと引っかかった。
「……待て」
「何?」
「今日、学校にいたんだよな」
「誰が?」
「俺が」
「また俺って言ってる」
「……私、いましたわよね」
「何それ!」
美那が吹き出した。
「いいから。学校にいたんだな?」
「いたよ。二時間くらい前まで」
「……」
その時間、俺は学校になんていない。
朝から自分が何をしていたのかは覚えている。
「本当にいたのか?」
「同じ教室にいたんだから、いたに決まってるでしょ」
「……同じ教室」
昨日と同じだ。
田中亮の姿で暮らしていた俺とは別に、本物の田中亮がいた。
そして今。
俺は田中明日香の姿をしている。
なのに、ほんの二時間前まで別の田中明日香が学校にいた。
「……またかよ」
「何が?」
「こっちの話」
田中亮だけじゃない。
今の俺とは別に、田中明日香もいる。
「明日香?」
「ん?」
「ほんとに大丈夫?」
「ああ」
「それに、その『俺』も変だからね」
「じゃあ何て言ってたんだ?」
「え?」
「田中明日香は、自分のこと何て言ってたんだよ」
「あたし」
「……あたし?」
「うん。少なくとも、あたしと話す時は」
「なるほど」
それなら合わせればいい。
「あ、あたしは別に何でもない……わよ」
「……」
「何?」
「気持ち悪い」
「何でだよ!」
「そういう『わよ』とか付けなくていいから!」
「じゃあどうすればいいんだよ!」
「今のでいいよ。ちょっと乱暴だけど、そっちの方がまだ明日香っぽい」
「……そうなのか」
「そうそう」
今の俺には、明日香がどう話していたのか分からない。
だったら、美那に教えてもらうしかなかった。
「ほら、行くよ」
「どこに?」
「買い物!」
「ああ」
「みーちゃんについてきてください」
「……自分で言うのかよ」
「だってまた高沢って呼びそうだし」
「みーちゃん」
「何?」
「これでいいか?」
「うん!」
また嬉しそうに笑った。
親友。
みーちゃん。
それが田中明日香にとって当たり前だったのか、俺には分からない。
でも、美那はそうだと言う。
だったら今は、それを信じておけばいい。
俺はその後を追った。
田中亮の次は、田中明日香。
しかも、その田中明日香も俺ではない。
本物は、ほんの二時間前まで学校にいた。
だったら。
今ここにいる俺は、一体何なんだ。




