第2話 お嬢ちゃん
いつもの道を歩く。
コンビニも、信号も、道端の古い自販機も、昨日までと何も変わっていない。変わったのは、たぶん俺の方だった。
田中亮。
昨日まで自分だと思っていた田中亮という男は、今朝のニュースで死んだ。昨日、この目で見たばかりだった。俺とまったく同じ顔をして、「亮」と呼ばれていた男。
あいつが本当に田中亮だったなら、俺は誰なんだ。
名前は分からない。歳も分からない。誕生日も、家族も、昔の仕事も何一つ分からない。
「……やめた」
考えたところで答えは出ない。それより腹が減った。
歩きながら、何となく調子が悪いことには気づいていた。
今日は妙に歩幅が合わない。いつもの感覚で足を出すと、思ったより前へ進まない。
「……何だ?」
声に出してみると、それも少し変な気がした。
いつもより高いような、軽いような。
それに、さっきから髪がやたらと顔にかかって邪魔だった。手で払っても、少しするとまた頬に触れる。
「寝癖か……?」
頭を掻く。
何となく変だ。
服も妙に大きい気がする。
けれど、今はそんなことより腹が減っていた。
「……まあいい。飯食ってから考えよう」
朝から田中亮が死んだニュースを見て、頭の中はそれだけでいっぱいだった。
身体の調子が多少おかしいくらい、今さらどうでもよかった。
とにかく腹が減っている。
俺はそのまま『揚州』へ向かった。
◆
前を見ると、見慣れた暖簾があった。
『揚州』
いつものラーメン屋。
今の俺に残っているものがあるとすれば、ここ最近の生活だけだ。この道を歩いたことも、この店で何度も飯を食ったことも、それだけは間違いなく俺自身の記憶だった。
「とりあえず飯だな」
店の扉を開ける。
「いらっしゃいませー」
いつもの声と、いつもの匂い。それだけで少し安心した。
空いているカウンター席へ座ると、すぐに水が置かれた。持ってきたのは、何度も顔を合わせている店員だった。
佐々木。
「いらっしゃいませ。ご注文は?」
「いつもの」
佐々木の動きが止まった。
「……はい?」
「いつもの」
「えっと……何になさいますか?」
「だから、いつものだよ」
佐々木が困ったように俺を見る。
「すみません。ちょっと分からないんですけど」
「何でだよ」
顔を上げて佐々木を見る。間違いない。こいつとは何度も顔を合わせている。
「佐々木」
「……はい?」
名前を呼ぶと、佐々木の目が少し大きくなった。
「俺だよ」
「え?」
「俺」
自分を指差す。
佐々木は数秒、俺の顔をじっと見た。
「……すみません。どちら様ですか?」
「は?」
「というか、何で俺の名前知ってるんですか?」
「何でって……お前、佐々木だろ」
「そうですけど」
「だから俺だよ。何回も会ってるだろ」
「……どこかでお会いしました?」
「ここだよ!」
思わずカウンターを指差した。
「俺、ここしょっちゅう来てるだろ」
「お客さんが、ですか?」
「そうだよ」
「いや……」
本当に分かっていないらしい。
ただでさえ朝から頭がぐちゃぐちゃなのに、だんだん腹まで立ってきた。
「顔見ても分かんねえの?」
「すみません……」
「ほら」
俺は身を乗り出して、佐々木の顔のすぐ近くまで自分の顔を寄せた。
「よく見ろよ」
「ち、近いですって」
佐々木が慌てて身体を引く。
「何だよ」
「恥ずかしいからやめてください」
「何が恥ずかしいんだよ」
佐々木は少し顔を赤くして、俺と目を合わせようとしない。
「何なんだよ、お前は」
「こっちの台詞ですよ。だから名前を教えてください」
「名前言わないと駄目なのかよ」
口にしてから止まった。
佐々木が聞く。
「それで、お名前は何ていうんですか?」
「……」
昨日までなら答えられた。
田中亮。
でも、その田中亮は死んだ。
「……田中」
そこまで出た。それ以上は言えなかった。
「田中さん?」
「……分かんねえ」
「え?」
「もういい」
「はい?」
「お前じゃ話にならない。大将呼んできて」
「店長ですか?」
「そう」
「店長に何と?」
「俺が呼んでるって」
「俺……?」
「いいから」
佐々木は何とも言えない顔をしたまま、厨房へ入っていった。
俺は水を一口飲む。
奥から二人の声が聞こえてきた。
「大将」
「ん?」
「なんか、えらい気の強いお嬢ちゃんが来てます」
危うく水を吹き出すところだった。
「誰がお嬢ちゃんだよ!」
厨房へ向かって叫ぶ。
一瞬、静かになる。
「……ほら」
佐々木の声がした。
「何がほらだ!」
「で、どうしたの?」
「大将呼んでこいって言われまして」
「俺を?」
「はい」
少しして、大将が厨房から出てきた。
これで話が通じる。
大将なら何度も俺の顔を見ている。注文する前から「亮ちゃん、いつもの?」と言ってきたことだってある。
「どうしたの?」
「こいつが注文分かんねえって言うから」
「注文?」
「いつもの」
大将が首を傾げた。
「いつもの?」
「そう」
「何をいつも頼んでるの?」
「……」
口を開いて、止まった。
そういえば、何だったっけ。
最初の頃はメニューを見て注文していたはずだ。でも最近は、座れば大将の方から「いつもの?」と聞かれて、「ああ」と答えるだけだった。
メニュー名なんて、しばらく口にしていない。
「……忘れた」
「え?」
「ラーメンの名前」
「いつも食べてるのに?」
「ずっと『いつもの』で出てきてたから」
「誰に?」
「お前にだよ」
大将が黙った。
しばらく俺の顔を見たあと、申し訳なさそうに首を振る。
「……ごめんね。やっぱり君のこと、知らないと思う」
「……」
佐々木だけじゃない。
大将まで。
「俺だよ、俺」
「うん?」
「俺」
「ごめん。分からないなあ」
何なんだよ。
昨日までは普通だったじゃないか。
「名前、聞いてもいい?」
「……」
今度は答えなかった。
さっき一度「田中」と口にしただけで、もう十分だった。本当にそれが自分の名字なのかさえ分からない。
大将と佐々木が顔を見合わせる。
「そういう顔すんなよ」
「いや……」
「腹減ってんだよ」
俺はメニューを開いた。
醤油、味噌、塩、豚骨。写真付きでいくつも並んでいる。
どれだ。
俺が毎回食っていたのは。
「……分かんねえ」
「何が?」
「いつものが」
「だから、知らないんだって」
「もういい」
メニューを閉じる。
「じゃあ酒」
「え?」
「瓶ビール」
大将の表情が変わった。近くの客も、ちらりとこちらを見る。
「それは駄目だよ」
「何でだよ」
「何でって……」
「金ならある」
「そういう問題じゃないよ」
「じゃあ何だよ」
大将が俺を見る。
妙に優しい顔をしているのが腹立つ。
「お嬢ちゃん、何歳?」
「……」
今度は歳か。
考えてみれば、それも知らない。
昨日までは田中亮の歳が、そのまま自分の歳だと思っていた。でも田中亮が別人だったなら、俺が何歳なのかなんて分かるはずがない。
「成人はしてる」
「何歳?」
「……分かんねえ」
「え?」
「歳は分かんねえけど、成人はしてる」
大将が黙った。
佐々木も黙った。
近くの席から小さな声が聞こえてくる。
「今、ビール頼んだ?」
「頼んだみたいよ」
「あの子が?」
「高校生くらいじゃない?」
店の中が少しざわつき始める。
「聞こえてるぞ」
振り返ると、何人かが慌てて目を逸らした。
俺は大将へ向き直る。
「一本だけだ!」
「一本でも無理だよ」
「成人だって」
「何歳か分からないんでしょう?」
「成人はしてるんだって」
「身分証ある?」
「ない」
「免許証とか」
「ない」
「保険証は?」
「ない」
「何も?」
「ない」
大将が困った顔をする。
「それじゃ出せないよ」
「俺が成人だって言ってんだからいいだろ」
「よくないよ」
大将が店内をちらりと見る。
「どう見ても未成年にしか見えない子に酒を出して、誰かに通報でもされたら店だって困るんだから」
「未成年じゃねえ」
「証明できないでしょう?」
「……」
「悪いけど駄目」
後ろから年配の女性が口を挟んだ。
「そりゃ出せないわよ」
「何が」
「お酒よ。歳も分からないんでしょう?」
「……」
今度は隣の客が聞いてくる。
「名前は?」
「……」
「歳も分からなくて、名前も言えないの?」
「……うるせえな」
店内の空気が少し変わった。
「何かあったんじゃない?」
「家出かしら」
「家出じゃねえよ」
一斉に静かになる。
「あら、聞こえてた?」
「聞こえるよ!」
「ごめんなさいね」
「別に何もねえから」
大将が少し身をかがめた。
「今日は学校は?」
「行ってねえ」
「休んだの?」
「違う」
「じゃあ?」
「俺は学生じゃねえよ」
近くから小さく、
「え?」
という声が漏れた。
作業着姿の男が俺を見る。
「いやいや、それは無理あるだろ」
「何が」
「どう見ても学生だって」
「学生じゃねえ」
「高校生くらいじゃないか?」
「知らねえよ」
「自分の歳も分からないんだろ?」
「……そうだけど」
年配の女性がますます心配そうな顔になる。
「学校で何かあったの?」
「ない」
「友達とか?」
「違う」
少し間があった。
「……男の子?」
「何で男が出てくるんだよ」
「あら……」
「何だよ」
「失恋?」
「してねえよ!」
作業着の男が急に眉を寄せた。
「誰だよ」
「何が」
「こんな可愛い子振った奴」
「誰も振ってねえ!」
「見る目ねえなあ」
「存在しねえ奴に怒るな!」
「それで学校にも行けなくなって、お酒に……」
「酒は普通に飲みたいだけだ!」
「ああ……」
「その顔やめろ!」
否定すればするほど、なぜか話が出来上がっていく。
何なんだ、こいつら。
大将が聞く。
「学生じゃないなら、普段は何してるの?」
「何も」
「何も?」
「無職」
店内が静かになった。
「……」
「何だよ」
大将がものすごく悲しそうな目をした。
「お嬢ちゃん」
「何だよ」
「無職じゃないよ」
「無職だよ」
「学生でしょう?」
「違う」
「学校に行けてないだけじゃないの?」
「だから最初から学生じゃねえって!」
後ろから、
「ああ……」
と声が聞こえた。
「何だよ、その『ああ』は!」
「学校のことまで忘れたいのかしら……」
「違う!」
何でラーメンを食いに来ただけで、ここまで壮絶な人生を背負わされているんだ。
大将がもう一つ聞いた。
「家族は?」
「……知らねえ」
また店内が静かになった。
しまった。
「いや、違うぞ」
「親御さんは?」
「分かんねえ」
「……」
「だから、そういう顔すんな!」
年配の女性が口元を押さえる。
「ご家族も覚えてないの?」
「覚えてねえだけだよ!」
「全部忘れたいほど辛かったのね……」
「そういう大げさな――」
言いかけて止まった。
いや。
十分大げさな話だった。
俺自身、昨日からずっと頭を抱えている。
「頼れる人はいるの?」
「……」
いない。
少なくとも、思い浮かばない。
「特にいねえ」
「ああ……」
「だから何でそんな顔するんだよ!」
「一人で頑張ってたのね……」
「普通に暮らしてただけだ!」
作業着の男が腕を組んで頷いた。
「とりあえず、その男のことは忘れろ」
「まだその話続いてんのかよ!」
「世の中にはもっといい男がいる」
「いらねえ!」
「学校もちゃんと行けよ」
「行かねえ!」
「……やっぱり行きたくないんじゃねえか」
「だから学生じゃねえ!」
もう意味が分からない。
俺はただラーメンを食いたかっただけなのに。
いつの間にか、失恋して学校へ行けなくなり、家族のことまで忘れ、昼間から酒に逃げようとしている無職の女子高生みたいな扱いになっている。
「もういい!」
思わず声を上げた。
「さっきから何なんだよ! お嬢ちゃん、お嬢ちゃんって!」
全員が黙った。
「俺のどこがお嬢ちゃんなんだよ!」
大将が俺の顔をじっと見る。
「いや……」
「俺は男だ!」
店内が完全に静まり返った。
「……」
「何だよ」
年配の女性が、妙に納得したように頷いた。
「……そっか」
「何がそっかだよ」
「男の子に振られたのね」
「どうしてそうなる!」
「それで、自分が男だったら振られなかったのにって……」
「思ってねえよ!」
「大丈夫よ。あなたはあなたなんだから」
「そういう話じゃねえ!」
作業着の男が拳を握る。
「くそ、本当に誰だよ」
「存在しねえ男に二回も怒るな!」
大将だけは笑っていなかった。
しばらく俺の顔を見てから、静かに聞く。
「お嬢ちゃん」
「だから、その呼び方やめろ!」
「自分が今どう見えてるか、本当に分かってない?」
「どういう意味だよ」
「自分の顔、今日見た?」
「顔?」
顔なら知っている。
昨日、同じ顔の男まで見た。
「俺の顔が何だよ」
大将は少し考えてから、厨房へ戻っていった。
「おい」
返事はない。
「ラーメンどうすんだよ」
しばらくすると、大将が小さな鏡を手に戻ってきた。
「これ、見てみて」
「何で」
「いいから」
鏡が目の前に置かれる。
「だから俺は――」
覗き込んだ。
言葉が止まった。
「……」
俺の知っている服を着た、知らない少女がいた。
長い髪。白い肌。小さな顔。
まだ幼さの残る顔立ち。
「……は?」
右手を上げる。
少女も右手を上げる。
頬に触れる。
少女も頬に触れた。
俺が目を見開く。
少女も同じように目を見開いた。
「……誰だ、こいつ」
俺の口が動く。
鏡の中の少女も、まったく同じように口を動かした。
勢いよく鏡から顔を離す。
自分の手を見る。
細い。
小さい。
そこで初めて、自分の身体をまともに見た。
朝から着ているジャージが、やけにぶかぶかだった。袖は手の甲まで隠れ、ズボンも腰まわりが余っている。
朝は気にも留めなかった。
昨日まで普通に着ていた服なのだから、「服が大きくなった」なんて考えるはずがない。
違う。
服が大きくなったんじゃない。
俺が小さくなっている。
「……何だこれ」
もう一度、鏡を見る。
変わらない。
知らない少女がいる。
大将が心配そうに聞く。
「大丈夫?」
「大丈夫に見えるか?」
「見えないね」
「……」
しばらく鏡を見つめた。
頭が追いつかない。
昨日まで俺と同じ顔をしていた田中亮が死んだ。そして今朝、俺は知らない女の身体になっている。
どういうことだ。
何が起きてる。
何一つ分からない。
それでも。
「……で」
「うん?」
「酒は?」
「出せるわけないでしょう!」
「中身は成人なんだよ!」
「今のやり取りを全部見たあとで、はいそうですかって酒出す店があると思う!?」
「一杯だけ」
「駄目!」
「瓶一本」
「増えてるじゃない!」
店内から笑いが起きた。
「笑うな!」
佐々木が大将へ近づく。
声を落としたつもりなのだろう。でも、俺には聞こえた。
「店長」
「何?」
「これ……警察呼んだ方がよくないですか?」
俺の動きが止まった。
「……警察?」
大将が慌ててこちらを見る。
「いや、別に捕まえるとかじゃないよ」
「待て」
「名前も分からない、歳も分からない、ご家族も分からない。それに、自分の姿まで分かってなかったんでしょう?」
「警察はいい」
「でも、このまま一人で帰すのもちょっと……」
「いいって」
「お嬢ちゃん」
「お嬢ちゃんじゃねえ!」
「とにかく一度、事情を話して――」
「必要ない!」
俺はスマホと財布を掴んだ。
「帰る」
「ちょっと待って」
立ち上がったところで、大将が言った。
「ラーメンは?」
「食ってる場合じゃねえよ!」
「さっきまであんなに食べたがってたのに」
「状況が変わったんだよ!」
店を飛び出す。
「お嬢ちゃん!」
後ろから大将の声が飛んできた。
「お嬢ちゃんじゃねえ!」
振り返りながら叫び、そのまま走る。
「うわっ!」
数歩で身体が大きく傾いた。
足の長さも、歩幅も、重心も昨日までとは違う。慌てて踏ん張り、そのまま逃げるように走り続けた。
昨日まで自分だと思っていた田中亮は死んだ。
自分の名前も分からない。
歳も分からない。
家族も分からない。
そして今度は――自分の顔まで、俺の知っているものではなくなっていた。




