第1話 朝
目を覚ました。
見慣れた天井だった。俺のアパートだ。
しばらくぼんやりと天井を見つめていると、昨日のことが少しずつ頭に戻ってきた。
田中と書かれた表札。
俺とまったく同じ顔をした男。
そして、その男を「亮」と呼んでいた女。
「……」
身体を起こす。
結局、ほとんど眠れなかった。
今日はもう一度、あの家へ行くつもりだった。今度こそ遠くから見ているだけじゃなく、あの男に直接話しかける。
お前は田中亮なのか。
俺を知っているのか。
だったら、俺は誰なんだ。
聞きたいことはいくらでもあった。
ベッドから降り、寝間着を脱いでいつものジャージに着替える。
「……?」
袖を通したところで、少しだけ違和感があった。
なんとなく大きい。ズボンも、いつもより緩い気がする。
「洗濯で伸びたか?」
そんなわけないか。
少し気にはなったが、頭の中はそれどころではなかった。
リビングへ行き、テレビをつける。朝のニュースが流れ始めた。
俺は冷蔵庫から水を取り出した。
『続いて、昨夜発生した――』
何となく聞き流していた。
『死亡したのは、この家に住む田中亮さん――』
手が止まった。
「……え?」
テレビを見る。
画面に一人の男の写真が映っていた。
「……」
ペットボトルを持ったまま動けなくなる。
昨日見た男だった。
間違いない。
俺と同じ顔をしていた男。
『田中亮さんは昨夜――』
「……死んだ?」
テレビの前まで近づいた。
写真の横には、はっきり名前が出ている。
田中亮。
「いや……」
昨日は生きていた。
俺はこの目で見た。
家の前に立っていた。
女に「亮」と呼ばれて、普通に話していた。
「昨日いたじゃねえか……」
ニュースは淡々と続いていた。詳しい死因については現在調査中だという。
でも、その先はほとんど耳に入らなかった。
昨日の光景ばかりが頭に浮かぶ。
道路の向こうから、俺はあいつを見ていた。
声をかけようと思えば、かけられた。
追いかけようと思えば、追いかけられた。
でも俺は怖くなって、何もしなかった。
「……話しかけりゃよかった」
今さら口にしても遅い。
昨日なら聞けた。
俺を知っているのか。
なぜ俺と同じ顔をしているのか。
俺は本当に田中亮なのか。
全部、本人に聞けたかもしれない。
今日、もう一度あの家へ行けばいいと思っていた。
明日があると思っていた。
でも、もう聞けない。
田中亮は死んだ。
「……くそ」
ペットボトルをテーブルへ置く。
テレビには、さっきと同じ男の写真が映っている。
そこで、ふと思い出した。
興信所の男の妙な言い方。
昨日、電話で住所を聞いた時のことだ。
「田中亮って、俺ですよね?」
そう聞いた俺に、あいつはすぐ答えなかった。
『その点については、こちらでは何とも申し上げられません』
あの時は何でそんな言い方をするのか分からなかった。
「……そういうことか」
今になって、ようやく意味が分かった。
興信所が調べた先には、ちゃんと田中亮がいたんだ。
住所があって。
家族がいて。
普通に生活している田中亮が。
だから、あいつも俺のことを田中亮だとは言えなかった。
「そりゃ言いづらいわな……」
自分を田中亮だと言っている男から、「田中亮について調べてくれ」と依頼された。
調べてみたら、その田中亮は別にいる。
興信所からすれば、俺の方が何者なのか分からなかったんじゃないか。
「……俺、向こうからしたら相当気味悪かっただろうな」
少し笑おうとしたが、全然笑えなかった。
むしろ、また一つ逃げ道を塞がれたような気がした。
興信所ですら、俺を田中亮だとは思っていなかった。
俺だけだった。
自分を田中亮だと思っていたのは。
昨日の女の顔が浮かぶ。
あの男を「亮」と呼び、ごく自然に隣へ並んで歩いていた女。
「……奥さんか?」
たぶん、そうなんだろう。
興信所も家族がいると言っていた。
夫婦だったのかもしれない。
そこまで考えて、妙な気分になった。
昨日までの俺なら、あの女を見て「俺の妻なのか」と考えていたはずだ。
だって俺は、自分を田中亮だと思っていた。
でも今は違う。
あの女は、俺の妻じゃない。
あいつの妻だ。
「……たぶん」
口にした瞬間、自分でも嫌になった。
たぶんって何だ。
どうしてこんなことまで断言できない。
ニュースはあいつを田中亮だと言っている。
興信所が調べた住所とも一致している。
家の表札も田中。
あの女からも亮と呼ばれていた。
あいつには家があった。
家族もいた。
田中亮として続いてきた生活があった。
だったら、あいつが本物だ。
そう考えるのが一番自然だった。
じゃあ。
「……俺が偽物なのか?」
口にした途端、変な寒気がした。
偽物。
自分で言っておいて意味が分からない。
俺はあいつの顔をしていた。
田中亮という名前で暮らしていた。
最初に街で知らない人間から「田中さん」と呼ばれた。
別の人間から「亮」と呼ばれた。
何人かから同じように呼ばれて、それで俺は自分の名前を田中亮だと思った。
でも、それすら。
「あいつと間違えられてただけ……?」
そう考えれば、一応つじつまは合う。
俺を見た人間が、本物の田中亮と間違えた。
だから「田中さん」と呼んだ。
だから「亮」と呼んだ。
俺はそれを、自分の名前だと勘違いした。
「……じゃあ最初から、何もなかったってことか」
田中亮という名前は俺のものじゃない。
昨日見た家も俺の家じゃない。
あの女も俺の妻じゃない。
俺が自分の人生につながっていると思っていたものは、全部あいつのものだったのかもしれない。
「何が本当なんだよ……」
自分の顔さえ信用できなくなってくる。
昨日まで鏡を見るたびに、それが自分の顔だと思っていた。
でも、まったく同じ顔の人間が別にいた。
そいつには家があって、家族があって、田中亮として生きてきた人生があった。
俺には何もない。
昔の家も分からない。
家族も分からない。
学校も、仕事も、友達も分からない。
自分の名前すら分からない。
あるのは、ここ最近の記憶だけだった。
「……俺の方が偽物なのか?」
テレビの中の田中亮に聞いてみる。
当然、返事はない。
テーブルへ目を落とすと、一本の腕時計が置いてあった。
今の生活を始めた頃、俺は多少の現金を持っていた。それと、なぜか左右の腕に一本ずつ、高そうな時計を着けていた。
身分証はなかった。
カードもなかった。
生活するために一本を売ったら、驚くほど高い値段がついた。その金で部屋を用意し、服を買い、スマホを買って、ここまで生活してきた。
もう一本は何となく売らずに残している。
この時計だけは、記憶を失う前の俺につながっているのかもしれない。
でも。
「……これも、本当に俺のか?」
分からない。
盗んだ物かもしれない。
誰かからもらった物かもしれない。
何か理由があって二本持っていたのかもしれない。
そもそも、なぜ左右に一本ずつ着けていたのかすら覚えていない。
考えれば考えるほど、何も信用できなくなっていった。
昨日までは、過去がなくても名前だけはあると思っていた。
田中亮。
その一つだけを頼りにしていた。
でも、その名前にはちゃんと別の持ち主がいた。
しかも。
もう死んでしまった。
「昨日、聞いときゃよかったな……」
もう一度呟いた。
今さらどうしようもない。
あいつに会いに行くつもりだった今日が来た時には、もう会う相手がいなくなっていた。
もし昨日、声をかけていたら。
俺を見たあいつは、どんな顔をしたんだろう。
驚いたのか。
俺を知っていたのか。
それとも、本当にただの知らない人間だったのか。
今となっては、それすら分からない。
しばらくテレビの前に座ったまま動けなかった。
何が本当で、何が間違っているのか。
何を信じればいいのか。
そもそも、俺という人間が本当にどこかに存在していたのか。
頭の中がどんどんこんがらがっていく。
その時だった。
腹が鳴った。
「……」
自分でも少し呆れた。
こんな時でも腹は減るらしい。
昨日の夜はろくに食べていない。
それに、無性にいつものラーメンが食いたかった。
店へ行けば大将がいる。
佐々木もいる。
少なくとも、最近の俺を知っている連中がいる。
田中亮という名前が俺のものじゃなかったとしても。
あの店で飯を食っていたのは俺だ。
大将とくだらない話をしていたのも俺だ。
そこだけは、誰かの人生を勘違いしたものじゃない。
「……飯にするか」
これ以上考えても答えは出ない。
とりあえず食う。
それから考える。
俺はスマホと財布を持って、部屋を出た。




