第3話 もう一人
家の前を離れてからも、俺は何度か後ろを振り返った。
もう二人の姿は見えない。俺と同じ顔をした男も、そいつを「亮」と呼んでいた女もいなくなっていた。
しばらく歩いてから、スマホを取り出した。興信所から教えられた住所をもう一度確認する。
間違っていない。
さっきの家だ。表札も確かに「田中」だった。
「……どういうことだよ」
考えながら歩いていると、後ろから自転車のベルを鳴らされた。
「あ、すいません」
慌てて道の端へ寄る。
世の中には、自分とそっくりな人間もいるらしい。
「双子……とか?」
それなら顔が同じなのも説明がつく。記憶を失っているんだから、兄弟の存在を忘れていてもおかしくない。
でも、あの男も亮と呼ばれていた。
「双子に同じ名前って……ないよな」
それとも、俺の方が亮じゃないのか?
そもそも、俺は自分の名前を思い出したわけじゃない。知らない人間にそう呼ばれて、田中亮だと思い込んだだけだ。
ラーメン屋の大将も、飲み屋の連中も、俺がそう名乗ったから呼んでいる。それじゃ証拠にならない。
最初に俺を「田中さん」や「亮」と呼んだ人間も、あの男と間違えたのかもしれない。
「……じゃあ、俺は?」
答えなんて出てこない。
「何なんだよ……」
思わず声が漏れた。
すれ違った女がちらりとこちらを見る。
俺は何でもない顔をして歩き続けた。
◆
帰る途中、いつものラーメン屋の前を通った。
暖簾はまだ出ている。中から大将の声が聞こえたが、今は誰かと話す気分じゃなかった。
そのまま通り過ぎようとする。
「おー、亮ちゃん!」
見つかった。
足を止めて振り返ると、大将が店の外まで顔を出していた。
「どうした? 今日は夜も食う?」
「……いや」
「珍しいな」
「腹減ってない」
「昼あんだけ食ったもんな」
「うん」
大将が俺の顔をじっと見る。
「何かあった?」
「何で?」
「顔」
反射的に笑った。
「別に」
「そう?」
「飲みすぎただけ」
「だったら昼からビール飲むなよ」
大将が笑った。
いつもなら俺も何か返すところだが、今日は何も出てこない。
「じゃあ、また」
「おう。明日な」
俺は店を離れた。
数歩進んだところで、また後ろから声が飛んでくる。
「亮ちゃん!」
「何?」
「ちゃんと飯食えよ」
「食ったって」
「あ、そうだった」
「ボケてんのかよ」
ようやく少し笑えた。
「お前に言われたくねえよ」
大将も笑いながら店へ戻っていく。
俺はまた歩き始めた。
亮ちゃん。
ついさっきまで、その呼び方には少し安心するものがあった。
ここには、自分を知っている人間がいる。
そんな気がしていた。
でも今日は違う。
あの男も、亮と呼ばれていた。
その事実が頭から離れなかった。
◆
アパートに着き、見慣れた建物を見上げる。
ポケットから鍵を取り出して階段を上がった。自分の部屋の前まで来たところで、また手が止まる。
この部屋は俺が借りた。
それは覚えている。
部屋を探して歩き回ったことも、家具やスマホを買ったことも覚えている。
そこから先の生活は、間違いなく俺自身の記憶だ。
じゃあ、その前は?
何もない。
田中亮という名前すら、自分で思い出したものじゃなかった。
鍵を開けて部屋へ入り、電気をつける。
いつもの部屋だった。
今までは帰ってくると、それだけで少し安心できた。ここだけは自分の場所だと思えたからだ。
今日は落ち着かない。
上着を脱いで、洗面所へ向かった。
鏡の前に立つ。
「……」
映っている顔をじっと見る。
自分の顔。
そのはずなのに、今はさっき見た男の顔を見ているように思えた。
頬に触れる。
目元を見る。
髪を上げてみる。
何か違うところがないか探した。
「……同じだよな」
一瞬だけ、今日見たものが幻覚だったのではないかと思った。
記憶がない時点で、俺の頭に何か問題がある可能性はある。
だが、興信所が調べた住所は確かにあそこだった。
表札も田中。
男は家の鍵を持っていて、女から「亮」と呼ばれていた。
全部が幻覚だったとは思えない。
鏡から目をそらし、リビングへ戻った。
ソファに座り、スマホに残してある興信所からの情報をもう一度確認する。
田中亮。
住所。
何度見ても、何も思い出さない。
でも、一つだけはっきりしたことがある。
あの家には、田中亮と呼ばれている男がいる。
少なくとも今のところ、それが一番自然な答えだった。
「じゃあ……」
俺は誰なんだ。
スマホを伏せた。
「……今日は無理だ」
頭が疲れていた。
酒でも飲もうかと思ったが、今日はやめた。今飲めば、余計に考えがまとまらなくなりそうだった。
ベッドに横になる。
目を閉じると、すぐにさっきの男の顔が浮かんできた。
俺と同じ顔。
隣にいた女と、普通に笑っていた。
あれが本物の田中亮なら、俺は偽物なのだろうか。
でも、偽物とは何だ。
顔まで同じ人間が、どうやって他人の偽物になる。
「……明日、もう一回行くか」
今度は遠くから見るだけじゃない。
本人に話しかける。
お前は田中亮なのか。
俺を知っているのか。
そして――俺は誰なのか。
直接聞けば、何か分かるかもしれない。
「……そうしよう」
ようやく少しだけ考えがまとまった。
目を閉じても、しばらく眠気は来なかった。
それでもいつの間にか、意識は静かに沈んでいった。




