第2話 田中亮
玄関のドアを閉めると、さっきまで聞こえていた店の笑い声も、酔っ払いの声も聞こえなくなった。鍵をかけ、靴を脱いで部屋へ入る。
電気をつけると、テーブルの上には昨日飲んだ缶ビールが一本、そのまま残っていた。
「片づけろよ、俺」
缶を拾い上げ、ゴミ箱へ放り込む。
外にいる時は、それなりに楽しい。ラーメン屋へ行けば大将がいるし、飲み屋へ行けば誰かしら話し相手がいる。
亮ちゃん。田中さん。
そう呼ばれて、くだらない話をして、飯を食って酒を飲んでいれば一日は終わる。最近はずっと、そんな毎日だった。
でも、一人になるとそうはいかなかった。
ソファに腰を下ろし、テーブルの上のスマホを手に取る。買ってからまだそれほど経っていない、新しい機種だった。
写真はほとんど入っていない。連絡先にいるのも、最近知り合った店の人間ばかりだ。
昔からの友達も、家族も、仕事関係らしい人間も一人もいない。
当たり前だった。このスマホを買った時には、もう何も覚えていなかったのだから。
画面を消すと、黒くなったガラスに自分の顔が薄く映った。
「田中亮……」
自分について確かに知っていることは、それくらいしかない。いや、その名前だって自分で思い出したわけじゃなかった。
今の生活を始めたばかりの頃、街を歩いていると、知らない男から「田中さん」と声をかけられた。その時は人違いだと思った。
ところが別の日、今度はまったく違う人間から「亮」と呼ばれた。それだけではなく、その後も何度か似たようなことがあった。
田中。
亮。
だから、自分は田中亮という人間なのだろうと思った。
それからずっと、その名前で暮らしている。
「……それだけなんだよな」
どこで生まれたのか。親は誰なのか。兄弟がいるのか。
どこの学校へ行き、どんな仕事をして、誰と付き合ってきたのか。友達がいたのか、恋人がいたのかさえ分からない。
自分がこれまで何をして生きてきたのか、何一つ覚えていなかった。
最近のことなら分かる。昨日どこで飲んだかも、一昨日何を食べたかも覚えている。
それなのに、少し前へたどろうとすると急に何もなくなる。記憶が薄いのではなく、そこから先だけ丸ごと切り取られているようだった。
最近は、それにも少し慣れてきた。
ただ、慣れたからといって不安が消えたわけではない。むしろ一人でいる夜ほど、余計なことを考えてしまう。
もし明日、突然知らない誰かがここへ来て、
「お前は田中亮じゃない」
そう言ったら、俺はどうする。
逆に、
「ずっと探していた」
そう言われたら。
そいつは誰なんだ。
家族なのか。友達なのか。それとも、もっと別の何かなのか。
「……考えても分かんねえ」
スマホの画面をもう一度つける。通話履歴には、数日前に自分から電話をかけた番号が残っていた。
興信所。
警察や役所へ相談することも考えた。でも、自分が何者なのかも分からない状態で、公的なところに大っぴらに調べられるのは怖かった。
もし昔の自分が何か問題を起こしていたら。誰かに追われていたら。そもそも田中亮という名前そのものに、何か面倒な事情があったら。
考えれば考えるほど、気軽に警察へ行く気にはなれなかった。
だったら金を払って、こっそり調べてもらった方がいい。
そう考えて興信所へ連絡したのが数日前だった。
依頼料は三十万円。
初めて金額を聞いた時は、さすがに聞き返した。
「三十万?」
『調査内容を考えれば、それくらいになります』
「人一人調べるだけだろ?」
『その人について、どこまでお知りになりたいですか?』
「……できるだけ全部」
『でしたら、その金額になります』
「高えな……」
三十万円。普通なら簡単に出せる金額じゃない。
それでも、自分の人生について知るための金だと思えば払えなくはなかった。それに、幸い今の俺は金に困っていない。
今の生活を始めた頃、俺は多少の現金を持っていた。
それに加えて、なぜか左右の腕に一本ずつ、高そうな腕時計を着けていた。
二本。
なぜ二本も腕時計をしていたのかは分からない。
生活するには金が必要だったので、そのうち一本を売ってみた。すると予想していたより、ずっと高い値段がついた。
その金で部屋を用意し、服を買い、スマホも買った。それでもまだ、しばらく生活するには困らないだけの金が残っている。
もう一本の時計は今も持っていた。
どうしてこんな物を持っていたのか。それも、自分について分からないことの一つだった。
たまに、嫌な想像をする。
「……まさか、盗んだんじゃねえだろうな」
高そうな腕時計を二本。それも一本ずつ両腕に着けていた。
どう考えても妙だった。
売った一本は、俺が予想していたよりずっと高価な物だった。今残っている方も、見たところ同じくらいの品に思える。
普通に働いて買った物なのかもしれない。
誰かからもらったのかもしれない。
それなら何も問題はない。
でも、もし違ったら。
どこかから盗んできた物だったら。
「……俺、泥棒だったりしねえよな」
冗談っぽく口にしたが、笑えなかった。
持っていた現金だって同じだ。
自分で稼いだ金なのか。誰かから受け取った金なのか。それとも、もっと後ろ暗い理由で持っていたのか。
何も分からない。
記憶を失った人間が、高価な腕時計を二本着けて、まとまった現金まで持っている。
他人の話なら、俺だって少し怪しいと思う。
「……いや、ないだろ」
自分で否定する。
「さすがに俺、泥棒はしねぇよな」
そう思いたいだけなのかもしれない。
警察へ行かなかったのも、結局そこが怖かった。
調べてもらって、家族や昔の知り合いが見つかるだけならいい。
だが、そこで昔の自分が何をしていたのかまで出てきたら。
もし本当に何かやらかしていたら。
「……ろくでもねえ奴じゃなきゃいいけどな」
そう呟いて、残っている腕時計から目を逸らした。
だからこそ、興信所を選んだ。
金はかかるが、少なくともいきなり警察へ自分から飛び込むよりはましだと思った。
興信所に依頼してから数日が経っている。
調査が終われば報告書を渡すと言われていたが、まだ連絡はなかった。
「今日もなしか」
そう呟いた直後、手の中のスマホが震えた。
画面には知らない番号が表示されている。胸が一度、大きく鳴った。
「……はい」
『田中さんでしょうか』
聞き覚えのある声だった。興信所の男だ。
俺はソファに座り直した。
「はい」
『先日ご依頼いただいた件ですが、ある程度調査が進みましたので、ご連絡いたしました』
「分かりました?」
思ったより食い気味に聞いてしまった。電話の向こうで男が一拍置く。
『田中亮という人物について、現在の住所が確認できています』
「住所?」
『はい。それから、ご家族についてもいくつか確認が取れています』
「家族?」
その言葉だけ、妙に引っかかった。
俺にも家族がいる。
そんなのは当たり前のはずなのに、まるで自分とは関係のない誰かの話を聞いているような気がした。
「それで、どこに住んでるんですか?」
『住所については、このあとメールでお送りします。詳しい調査内容については、正式な報告書にまとめてお渡しする予定です』
「報告書?」
『はい。住所の確認経緯や、ご家族について分かった範囲のことなどを記載したものです。書類は後日、ご指定の住所へ郵送いたします』
「そうですか……」
つまり、詳しいことは書類が届いてからということらしい。
だが、住所が分かったのなら、それだけでも十分だった。
「じゃあ、住所だけ先に送ってください」
『承知しました。ただ、その前に一点だけ確認させてください』
「何です?」
『今回、こちらで確認できたのは、田中亮という人物の住所と、その方に関する情報です』
「……はい」
『ご依頼者様ご自身との関係については、こちらでは確認が取れておりません』
「……え?」
何を言われているのか、すぐには理解できなかった。
「ちょっと待って。田中亮って、俺ですよね?」
『その点については、こちらでは何とも申し上げられません』
「何ともって……顔とかは?」
『申し訳ありませんが、確認できた資料の詳細については、報告書をご覧いただいた上で説明させていただければと思います』
「……」
何だか妙な言い方だった。
俺が田中亮だという前提で調べてもらったはずなのに、まるで別の人間について話しているみたいじゃないか。
「……分かりました。とりあえず住所をお願いします」
『かしこまりました。ご登録いただいているメールアドレスへお送りしますので、ご確認ください』
「はい」
『なお、報告書の発送については、改めてご連絡いたします』
「分かりました。ありがとうございます」
通話を切る。
「……何なんだ?」
妙に引っかかる言い方だった。
田中亮という人物の住所。
俺との関係は確認できていない。
「俺が田中亮だから調べてもらったんだけどな……」
そう呟いたところで、スマホが短く震えた。
興信所からメールが届いていた。
開くと、簡単な調査結果の案内とともに住所が記載されている。
俺はその住所を地図アプリに入力した。
「……近っ」
思わず声が出た。
電車を何本も乗り継ぐような場所ではない。今いるところからなら、歩こうと思えば歩けるくらいの距離だった。
こんな近くに、俺が昔住んでいたかもしれない家がある。
しばらく地図を見つめる。
詳しいことは報告書が届けば分かるのかもしれない。
だが、それまで待つ必要があるだろうか。
すぐ近くなんだ。
行ってみればいい。
家を見れば何か思い出すかもしれないし、昔の知り合いに会えるかもしれない。
行くか。
やめるか。
いや、行くしかない。
三十万円も払って、ようやく住所まで分かったのだ。ここで行かなければ、何のために調べたのか分からない。
ただし、そのまま玄関を訪ねる気にはなれなかった。
家族がいるかもしれない。昔の知り合いがいるかもしれないし、そいつらが俺の顔を見てどういう反応をするのかも分からない。
もし昔の俺が何かをやらかしていた人間だったら、いきなり顔を出すのは危ない。
「……まず見るだけか」
クローゼットから普段あまりかぶらない帽子を出し、深めにかぶった。さらにマスクもつける。
鏡を確認する。
完全に別人というほどではないが、少し離れていれば顔までは分かりにくそうだった。
「怪しいな……」
自分でも笑ってしまう。
どう見ても、これから人の家を見張りに行く格好だ。
実際、その通りなのだから仕方ない。
上着を羽織り、スマホをポケットへ入れて部屋を出た。
◆
住所までは、本当に近かった。地図を確認しながら商店街を抜け、住宅街へ入っていく。
けれど、歩いている間に懐かしさを覚えることは一度もなかった。見えるものは、知らない道と知らない店、知らない家ばかりだ。
「本当にこの辺に住んでたのか、俺」
もしここが昔の生活圏なら、何か一つくらい思い出してもよさそうなものだった。
毎日通った道。
よく行った店。
近所の景色。
何かあってもいい。
それなのに、何もない。
道を一本曲がったところで、スマホが目的地へ着いたことを知らせた。
俺は足を止める。
少し先に、ごく普通の一戸建てがあった。特別大きくもなく、古くもない。小さな庭があり、横には車を一台置けるくらいのスペースがある。
家そのものにも、やはり見覚えはなかった。
少し離れた場所から表札を確認する。
田中。
「……ここ?」
もう一度スマホの住所を見る。
間違っていない。
しばらく家を眺めていた。
インターホンを押こうか。
一瞬そう思ったが、足が動かなかった。
何と言えばいいのだろう。
「田中亮です」
そう名乗ればいいのか。
自分の家なら、それで話は通じるはずだ。
でも、もし違ったら。
もし玄関から出てきた人間に、
「誰ですか?」
なんて言われたら。
「……自分の家の前で何ビビってんだよ」
小さく笑ってみる。
しかし、結局インターホンまでは行けなかった。
俺は家から少し離れ、道路の反対側へ移動した。まずは誰が出入りするのか見て、それから考えることにする。
五分ほど待った。
十分ほど経った。
特に何も起こらない。
やっぱり押しに行くか。
そう思った時、向こうから一人の男が歩いてきた。
何となくそいつへ目を向ける。
そして、動けなくなった。
男はその家の前まで来ると、ポケットから鍵を取り出した。そのまま門を開けようとして、横顔がこちらへ向く。
息が止まった。
見たことのある顔だった。
毎朝、洗面所で見る顔。
鏡の中にいる顔。
「……俺?」
男は俺だった。
似ているという程度ではない。
顔つきも、背格好も、髪型までほとんど同じだった。少なくともこの距離から見る限り、鏡の中の自分がそのまま外を歩いているようにしか見えない。
頭が理解するのを拒否していた。
「何だよ……あれ」
声が漏れる。
男はこちらには気づいていない。帽子を深くかぶり、マスクをして道路の向こうに立っている俺を気にする様子もなかった。
男が家へ入ろうとした、その時だった。
「亮!」
後ろから聞こえた女の声に、俺の肩が跳ねた。
三十代くらいの女が、小走りで男のところへ向かっている。男が振り返ると、女は何かを話し、男も笑いながら返した。
会話の内容までは聞こえない。
でも、名前だけははっきり聞こえた。
亮。
「亮、早くしてよ」
女がもう一度そう呼ぶ。
男が何か答え、二人は並んで歩き出した。
俺は何もできなかった。
追いかけることも、声をかけることもできない。
ただ、その後ろ姿を見ていた。
俺と同じ顔の男が、田中と書かれた家の鍵を持っている。
そして、そいつは亮と呼ばれていた。
やがて二人の姿が道の向こうへ消えた。
俺はもう一度、家の表札を見る。
田中。
次にスマホを見る。
興信所から教えられた住所も、ここで間違いない。
そして、さっきの男は亮と呼ばれていた。
「……田中亮?」
その名前を口にした瞬間、背中が冷たくなった。
あいつが田中亮なら。
俺は。
「……誰だよ」
当然、答える奴はいなかった。
これまでだって、自分のことはほとんど何も分からなかった。それでも、名前だけは自分のものだと思っていた。
田中亮。
たった一つだけ、自分とつながっているものだと思っていた。
その名前にまで、別の持ち主がいた。
しばらくその場から動けなかった。
やがて俺は、二人が消えていった道をもう一度見た。それから帽子を深くかぶり直し、来た道をゆっくり戻り始める。
自分のアパートへ帰るために。
今までなら、分からないことがあっても何とか誤魔化せた。
考えても仕方ない。
そのうち何か思い出すかもしれない。
そうやって、どうにか暮らしてきた。
でも、もうそれでは済まなかった。




