第1話 いつもの日々
暖簾をくぐると、大将が顔を上げた。
「お、亮ちゃん。いらっしゃい」
俺は軽く手を上げ、そのままいつものカウンター席に座った。メニューを見る必要はない。
「いつもの」
「はいよ」
それだけで注文は通った。
隣に座って新聞を読んでいた爺さんが、紙面から顔を上げる。
「田中さん、今日も来たのかい」
「悪い?」
「昨日もいたじゃないか」
「昨日は昨日。今日は今日だよ」
「便利な考え方だねえ」
大将が笑いながら麺を鍋に入れる。
「亮ちゃん、今日は酒どうする?」
「飲む」
「即答かよ。まだ昼だぞ」
「昼に飲んじゃいけない法律ある?」
「仕事は?」
「今日は休み」
「昨日もそう言ってなかった?」
「じゃあ昨日も休みだったんだろ」
「お前、いつ働いてんだよ」
店の中で笑いが起きた。
俺も笑った。
別に無理をして笑ったつもりはない。こういうくだらないやり取りは嫌いじゃなかったし、この店にいる間は余計なことを考えなくて済む。
しばらくすると、いつもの大盛りのラーメンが目の前に置かれた。湯気と一緒に、見慣れた匂いが上がってくる。
「はい、いつもの」
「おお」
箸を取って、一口すすった。
「うまい」
「毎回それ言うよな、亮ちゃん」
「うまいんだからしょうがないだろ」
最近は、だいたいこんな感じだった。
朝は駅前の喫茶店。昼はこのラーメン屋だったり、商店街の定食屋だったりする。夜になれば居酒屋へ行くことが多い。
どこへ行っても、「亮ちゃん」とか「田中さん」とか呼ばれる。馴染みの店では注文だって、だいたい「いつもの」で済んだ。
俺が何を食べるのか、俺より店の人間の方がよく覚えている。
三食ほとんど外食で、料理なんて最近した覚えがない。酒もよく飲むし、気が向けば昼から飲む。
仕事は――よく分からない。
少なくとも最近、仕事へ行った記憶はなかった。
それでも金には困っていない。
今の生活を始めた頃、俺はなぜかかなりの現金を持っていた。財布だけじゃなく、服のポケットにもまとまった額が入っていた。
何でそんな金を持っていたのかは分からない。ただ、その金で部屋を用意して、服やスマホを買っても、まだしばらく食うには困らないくらい残っている。
だから最近だけを見れば、かなり気楽な生活だった。
食いたい時に食って、飲みたい時に飲む。眠くなれば家に帰る。
店に行けば知り合いがいるし、街を歩けば、ときどき誰かに声をかけられる。
悪くない。
少なくとも――最近は。
問題は、その少し前だった。
昨日。
一昨日。
三日前。
その辺なら分かる。どこの店に行ったとか、何を食ったとか、酔って帰ったとか。くだらないことまで普通に覚えている。
でも、一か月前は?
そう考えた途端、何も出てこなくなる。
半年。
一年。
学校。
昔の仕事。
親。
子供の頃。
何もない。
忘れているというより、そこから先だけ丸ごと切り取られているような感覚だった。
自分がどこで生まれたのかも知らない。
親が生きているのかも知らない。
兄弟がいるのかも分からない。
考え始めると、胸の奥が少しざわつく。
普段はなるべく考えないようにしていた。
考えたところで何も出てこない。それを何度も繰り返して、嫌になるほど分かっていた。
「亮ちゃん?」
大将の声で顔を上げた。
「ん?」
「麺、のびるぞ」
見ると、いつの間にか箸が止まっていた。
「……ああ」
俺はまた麺をすすった。
「うまい」
「だから毎回言うなって」
大将が笑う。
俺も笑った。
店にいれば、亮ちゃんと呼ばれる。
街では田中さんと呼ばれる。
最初から知っていたわけじゃない。
この生活を始めた頃、何人かの知らない人間からそう呼ばれて、それで自分の名前を知った。
田中。
亮。
だから俺は田中亮なんだろう。
今では、そう呼ばれれば自然に振り向く。
本当にそれが俺の名前なのかなんて、考えたところで仕方がない。
少なくとも今は、この街で田中亮として暮らしている。
馴染みの店もある。
話す相手もいる。
帰る部屋もある。
それで十分だ。
――そう思うことにしていた。




