第3章:はじめての残業は帰れない
セキュリティエンジニアの彼が帰った後も、そのまま仕事を続けて、午後10時を過ぎた頃、不意に声をかけられて、肩が揺れるほど驚いた。
『まだ残るの?』
顔を向けると、マネジャーがこちらを見ていた。
「はい。もう少しだけです。」
『無理しなくていいよ。残業するの初めてでしょ?』
『営業支援課でも残業はしたことないんでしょ?』
「大丈夫です。今日中にやり終えたいと思っている作業がありますので。」
『そっか。ありがとう。助かるよ。』
マネジャーは、優しく、労いの言葉をかけてくれた。
営業支援課では、褒められたことなど一度もなかったので、とても嬉しかった。
この一言が今年の誕生日プレゼントでも良いとさえ思えた。
それに、既に課員が全員帰宅をした所は節電のため、電気が消されて、暗い場所も多く、正直、少し怖かったので、マネジャーが一緒に残業をしてくれるのは嬉しかった。
というか、マネジャーと2人っきり。
年齢はだいぶ上だけど、情報システム部の要で、仕事はメチャクチャできる。その上、イケメンで独身貴族。オシャレだし、見た目は30代前半にも見える。
これが吊り橋効果なのだろうか。私は、彼と別れたばかりということもあり、無意識に年上の大人の男性に甘えたい気持ちもあるのだろう。自分が置かれている状況に、淡い期待を持ってしまっていた。
そういえば、先日、他のチームメンバーとマネジャーが雑談をしていた時に聞こえてしまったのだが、読書が趣味で、小説が好きだそうだ。
毎日、パソコンと睨めっこをしているので、休日くらいは、パソコンではなく紙の小説を読んで、目と心を休ませていると言っていた。
小説のジャンルは何が好きなんだろう?今度聞いてみよう。
そんなことを思いながら、私は作業を続けた。
午後10時30分を過ぎた頃、近づいてきたことに気が付かず、マネジャーの声に、再度、肩が揺れるほど驚く。
『あ。脅かしてゴメンね。良かったらコーヒー飲む?』
「あ、はい。ありがとうございます。」
差し出された紙カップは、じんわり温かかった。
マネジャーはコーヒーが大好きな方で、これもコーヒーフィルターで豆から淹れているので、とても美味しかった。
『こんな時間まで、ありがとうね。でも、本当に大丈夫?疲れてない?』
「いえ。毎日定時で帰っているので、体力は有り余っています。」
自分らしくない余計なことを言ってしまった。少しカジュアルすぎたかなと一瞬不安に思ったが、冗談が通じるらしく、マネジャーが笑ってくれた。
『面白い返しだね。笑って、あやうくコーヒーを吹きそうになったよ。』
「あ、すみません。でも、この時間まで残るのは、初めてなんですけど、もう私たち2人きりだけなんですね。」
『そうだね。この時間だと、心細いよね。』
「マネジャーは、いつもこの時間まで残ってるんですか?」
『ううん。この時間まで残る事は少ないかな。』
「え?そうなんですか?」
『今日は君が頑張っているからね。』
「え?」
『一人だと不安だろ。特に初めてだと。』
それだけ言って、マネジャーは何でもないように自分のデスクへ戻った。
胸の奥が、ほんの少しだけ熱くなる。
私のため、とはっきり言われたわけではないけれど、そういうふうに受け取ってしまうには十分な言葉だった。
私は今の言葉とコーヒーと労いの言葉で、終電に間に合う12時までは頑張ろうと思えた。
午後11時を過ぎた頃、またマネジャーが私の所に来た。
『僕は、地下の資料室に行って、幾つか古い資料を取ってくる。もし、その間に仕事が終わったら、そのまま帰宅して大丈夫だからね。』
「あ。はい。分かりました。」
『あ、僕のことを待ってたりしなくて良いからね。時間がかかるかもしれないけど、地下の資料室まで、わざわざ来なくて良いからね。』
『カビ臭いし、地下まで降りるのに時間もかかるから、仕事が終わったら、先に帰ってね。』
そう言って、マネジャーは鍵を持って、オフィスを出ていった。
2年と8か月間も勤めているが、この会社に地下の資料室があったなんて、知らなかった。
マネジャーがいなくなると、オフィスがひどく広く感じた。
マネジャーのキーボードを打つ音が消えただけで、自分の呼吸すらやけに大きく聞こえた。
私は作業を続けた。
十二時。
十二時十五分。
十二時三十分
もう終電は間に合わない。
それでもマネジャーは戻ってこなかった。
最初は、本当に資料を探しに行っているだけだと思った。
しかし、十二時を回る頃には、胸の奥に薄い膜のような不安が張り始めていた。
そもそも、社内AIという時代の最先端のサービスを開発しているのに、古い資料が必要なのだろうか。
この時、どうしてマネジャーを探しに行こうと思ったのか、自分でも分からない。
帰ってこないマネジャーが心配だったのかもしれない。
資料探しに時間がかかっているマネジャーの手伝いをして、また優しい言葉をかけて欲しかったのかもしれない。
もしくは、資料室という閉ざされた空間で、マネジャーとの淡い期待をしていたのかもしれない。
私は、自分でも分からない感情と共に、エレベーターで地下へ降りようと思い、席を離れた。
第4章に続く。
(第4章は5月5日(火)21時00分に投稿いたします。)




