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第2章:はじめての残業はマネジャーと2人きり

残業なんて、自分には縁がないと思っていた。

いや、今だって、本当は残業をしなければならないわけではないのだが、家に帰りたくなくて、明日でもできる仕事をしている。


AI開発・推進タスクフォースチームと兼務を初めてから8か月が経ち、世間はクリスマスムードに入っている。


しかし、私の気持ちは大きく落ち込んでいる。

2週間前、大学時代から5年間付き合っていた彼氏と別れた。


私から別れるようなキッカケを作ってしまい、今でも後悔をしている。


彼は、大学の同級生で、演劇サークルで出会った。

ドラマや映画、小説の趣味が一緒で、会話をすれば盛り上がり、自然と仲良くなり、彼から告白をされて、付き合い始めた。


お互いに、見つけた昔のドラマや映画、小説を共有しあったり、最新の映画も一緒に見たり、新しく発刊された小説を読んでは感想を共有しあっていた。


しかし、お互いに社会人になった後、彼は、仕事が忙しくなり、共通の会話が減っていった。


彼は、外資系の投資銀行に入り、毎日終電を通り越して、会社で寝泊まりをするような日々が続いた。


しかし、彼は、物語という架空の世界よりも、金融という資本主義の最前線の現実の世界の方が面白かったようで、激務でありながらも、世界情勢の動向や担当しているテック業界の最新情報をウォッチしていることを楽しんでいたようにも見えた。


そういえば、AIの話もしていたような気がする。


『AIでもOSでもクラウドサービスでも主要な大手企業は米国系企業であり、日本発の企業が出てこないと、ずっとデジタル小作人として、日本は米国にお金を支払い続けなければならない。』

『お金だけならまだしも、これらのサービスを使用して、個人情報や日常生活の行動パターンまでも提供してしまっている。』

『AIを使いこなせることも大切だが、それと同じくらいにAIを開発できる人材が必要だ。』

『AIが人間を超えるシンギュラリティが発生をしても問題がおきないように、情報セキュリティ分野でも人材や企業の育成をしなければならない。』

『投資の世界でいうと、これらのAI企業自体も重要なんだけど、実はAIを作動させるための部品や材料では日系企業が大きな市場を持っていたりする。』

『有名な調味料を作っている会社のグループ会社では、パソコンや高性能サーバーのCPUパッケージ用層間絶縁材料も製造しており、実質的に世界シェアをほぼ独占しているんだ。』

『一見、AIとは関係なさそうに見えるそういった会社を見つけて、株式を買い占めるのが面白いんだ。』


何を言っているのか、全く意味不明だった。

ハッキリ言って、私にはチンプンカンプンだ。


私は、毎日定時で帰っては、最新のドラマや小説を見て彼と感想を共有したり、最近の流行りの映画をチェックして彼と一緒に見に行きたかった。


しかし、彼は、今現実の世界で動いている状況を私と共有したかった。


価値観が変わり、共通の会話が減り、ギスギスすることはないのだが、何となく一緒にいても楽しくないように思えてきていた。


決してケンカをしたわけでも、浮気をされたわけでもない。

外資系の投資銀行に入り、同い歳なのに、日系企業ではありえないような年収を稼いで、それでいて仕事にのめり込んでいるので、全く浮気をしているようにも見えない。


前よりも、一緒にいて楽しいとは思えなくなったが、それでも私を彼女として見てくれて、大切にしてくれていると感じることはできたし、デートの日は、どんなに忙しくても疲れていても、必ず来てくれた。


彼には何の落ち度もない。今から思い返せば、私は何てバカな事をしたのだろうと思う。


最後に彼と会った2週間前、恵比寿のお寿司屋さんでデートをしていた時、個室で私は彼に言った。


「私のこと、どう思ってる?」


彼は、ポカンという顔をして、言った。


『好きだよ。』


「私との結婚を考えてくれてる?」


今度は、彼は、は?という顔をして、言った。


『将来的には考えるけど、今は仕事で忙しいよ。』


「今の会社にいたら、今だけじゃなくて、ずっと忙しいでしょ?」


彼は、困った顔をして、言った。


『将来のことは分からないよ。偉くなれば、もう少し時間が取れるかもしれない。もしくは厳しい会社だから、クビになって転職しているかもしれない。いずれにしても将来は、今よりは時間の余裕が持てるんじゃないかな。』


「将来っていつ?」


また、彼は、困った顔をして、言った。


『分からないよ。』


「私には、あなたとの未来が見えないの。」


彼は、顔をしかめて、言った。


『どうして?忙しいのは事実だけど、こうやって君に会う時間を作ってるじゃん。』


「もし、私と結婚するって言ってくれないなら、違う道を歩みたい。」


今でも、どうしてこんなバカな事を言ったのだろうと後悔する。

構って欲しかった。もっと私と一緒にいる時間を楽しいものにしてほしかった。ただそれだけの話だ。


彼は、どんなに忙しくても疲れていても、私に優しくしてくれていたのに、私は自分のことしか考えていなかった。


彼は、そっと、言った。


『そっか。幸せにしてあげられなくてゴメンね。』


彼は、個室を出て、勘定を済ませて、お店を先に出ていった。


私は、家に帰って、枕に顔を伏せて、大声で泣いた。


何てバカなことをしてしまったのか。

自分もAI開発・推進タスクフォースチームを兼務しているのだから、少しくらいは彼とAIの話しをすることもできたはずだ。

きっと彼のことだから、私がお願いをすれば、優しく丁寧に、AIの基本的なところから全て教えてくれたはずだ。

でも、私は、どうしても、現実の世界のAIの話じゃなくて、物語の世界のドラマや小説の話をしたかった。

自分のエゴを押し通してしまい、激しい後悔に苛まされた。


それ以来、この2週間、気持ちはずっと落ち込んでいた。

それでも、仕事は手を抜くわけにはいかない。残業をしないためにこそ、しっかりと定時内で結果を出さないといけない。


今日は、私の25歳の誕生日。

本当は、大手町にある私のお気に入りのバルで、彼と一緒に食事をする予定だった。

食事の後は、クリスマスのキレイなイルミネーションを見ながら、一緒に手を繋いで、冬の冷たい夜風に吹かれながら、散歩でもしていたことだろう。


2週間前に彼と分かれてしまったことは、未だ誰にも言えてない。

そのため、仲良しの女友達に連絡をするにも気が引けて、ズルズルと今日を迎えてしまった。


私は、それを忘れるように、仕事に打ち込んだ。

最近、また営業事務のガイドラインが変わり、営業経理の処理の変更についてAIに学習をさせていた。


残業してまで、今日中にやらなければならない仕事ではないのだが、自分の部屋で一人で寂しく誕生日を過ごしたくない。

それならば、少しでも、後悔を忘れられるように、終電まで仕事をしようと勝手に決め込んだ。


午後9時30分を過ぎた頃、AI開発・推進タスクフォースチームの私の前に座っている外注先のSIerのセキュリティエンジニアの男性メンバーが帰りの支度をしながら、話しかけてきた。


『未だ、帰らないんですか?』

彼は、私より5歳上の30歳だが、発注先の社員であるため、年下の私にも、丁寧に敬語で話してくれる。


「あ、はい。営業事務のガイドラインに面倒な変更事項が発生してしまって、それの対応をしなければならないので。」


『そうなんですね。でも、あまり遅くならないようにしてくださいね。ほら、労務管理課から来た方の話もありますから。』


「ああ、そうですね。本当に怖いですよね。」


セキュリティエンジニアの彼と話しをしているのは、AI開発・推進タスクフォースチームと兼務をしていた人事部 労務管理課の女性社員が、8月中旬から行方不明になっている事件だ。


AI開発・推進タスクフォースチームは、情報システム部員と、顧客のシステム開発を請け負う外注先のSIerから派遣されてきた精鋭のシステムエンジニアたちに加えて、営業支援課の私のように、各々の業務をAIに学習するために任命された他の課との兼務者たちで構成をされている。


その兼務者の一人である人事部 労務管理課と兼務をしていた女性社員が、忽然と消息を絶った。


彼女は、一般職で入社した今年で10年目の女性社員だった。

一般職であることもあり入社以来、総務や労務管理の畑をずっと歩んでおり、社会保険労務士の資格も保有していて、社内でも一目置かれていた。


その彼女が、8月中旬に、1週間の夏休みを取る前日から連絡が取れなくなった。

最後に彼女の姿を見た社員が言っていたのは、夏休みに実家の青森に帰省するので、できる限り仕事を終えて、心置きなく実家で夏休みを過ごしたいと言って、夏休みの前日は深夜遅くまで残業をしていたそうだ。


そして、次の日から、夏休みに入ったと思っていたら、実家に帰省しておらず、連絡も取れず、不安になった母親から会社に電話があり、事件が発覚した。


会社は警察にも捜索願いを出したのだが、彼女は、帰省のために乗車するはずだった新幹線に乗っていなかった。

また、会社近くや彼女の通勤経路において、誘拐や強盗、殺人のような事件は起きておらず、事件性は低いと判断をしたのか、最近では、警察も動きが少なくなってしまった。


『実際に人がいなくなっているんだから、事件性が低いとは思えないけど、何も証拠がなければ、警察も動けないですよね。』


「はい、本当に怖いですよね。」


AI開発・推進タスクフォースチームでは、彼女の代わりに労務管理課から新しい若手男性課員が1名兼務になったが、以前の彼女の仕事が素晴らしかったのだろう。労務管理に関わる業務は全て社内AIに組み込まれており、私の隣に座っている労務管理課から新しく来た若手男性課員はやることがなく、仕事しているフリをして、いつも資格試験の勉強をして、サボっている。


『いずれにしても、夜遅くに女性一人でいるのは危ないですから、キリのいいところで、上がってくださいね。』


「はい。ありがとうございます。お疲れ様でした。」


『お疲れ様でした。』

『マネジャーお先に失礼します。』


『お疲れ様です。』


マネジャーにも挨拶をした後、セキュリティエンジニアの彼は帰り、オフィスには私とマネジャーの2人きりになった。


第3章に続く。

(第3章は5月4日(月)21時00分に投稿いたします。)

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