第1章:人生を捧げる仕事との出会い
はじめての残業は、思っていたより静かだった。
午後9時を過ぎると、昼間はあれほど騒がしかったオフィスから、少しずつ人の気配が消えていった。
電話は鳴らず、コピー機も止まり、誰かの話し声も聞こえなくなる。所々、人がいない場所は、電気が消されて、残ったのは、キーボードを打つ音と、冬の夜の寒さを和らげる空調の低い唸りだけだった。
私はパソコンのモニターを見つめたまま、肩をすくめた。
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入社3年目の4月1日。人事異動で、突然、情報システム部 AI開発・推進タスクフォースチームを兼任することになった。
鉄鋼専門商社に新卒で入社して、最初の部署として、国内営業部 営業支援課に配属されて、いわゆる営業事務が主な仕事であった。
営業支援課では、特別に仕事ができるわけでもなければ、大きな失敗をするわけでもなかった。
上司に叱られたこともないが、褒められた記憶もない。可もなく不可もなく、という言葉がそのまま似合うような人間であった。
だから、営業支援課では、残業をしたことが一度もなかった。
他方で、前線にいる営業部員たちは当然、殆ど毎日が残業だ。
コロナが収束して以来、接待の機会が格段に増えた。
営業事務をしていると、営業部員たちから回ってくる大量の請求書と領収書たちを捌かなければならないが、その内容を見る度に過酷さが分かる。
弊社では、接待の経費は会社が出すことになっているが、接待のための残業代や休日出勤代は出ない。
平日夜の飲み会だけでなく、最近は休日のゴルフ接待も復活しているので、大変だと思う。
私は、総合職採用なので、営業に行かされる可能性はゼロではなかったが、最初から営業は希望をしなかったし、運良く希望通りにワーク・ライフ・バランスが取れそうな営業支援課に配属された。
しかし、最近は、男女平等とする社会の雰囲気や、弊社の場合、営業部員のボーナスは営業の結果で左右されることもあり、女性でも営業を希望する人たちが多い。
そんな営業志願女性たちのお陰もあり、私は営業事務として、ずっと2年間、残業を一度も経験せずに過ごせた。
大量の請求書と領収書を処理したり、営業部員たちからの要望で出張の移動やホテルの予約などの大量の事務作業が発生をするが、全て弊社で定められている社則に則ったガイドライン通りに行なうだけだ。
100ページ以上あるガイドラインを読み込み、作業内容を覚えること自体が大変とも言えるが、慣れればただの作業だ。正に今後AIが進化をしたら、真っ先に取って代わられる業務と言っても差し支えないだろう。
そんな仕事内容なので、特別に仕事ができるわけでもなければ、大きな失敗をするわけでもなく、上司に叱られたこともなければ、褒められたこともないという2年間を過ごしてきた。
そんな背景もあり、突然、情報システム部 AI開発・推進タスクフォースチームを兼任することになったのは、私にとって想定の範囲外の出来事だった。
一体、人事部も、国内営業部も、情報システム部も、私の何を見て、この人事配置を決めたのだろうか?
AI開発・推進タスクフォースチームは、弊社の中では、立ち上げたばかりの最も新しい部署だ。
最近は、どこもかしこも、AI導入を推し進めているが、ハルシネーションと言われる、いわゆるAIの虚偽が多発しており、その虚偽によって、経営や業務の判断を誤るという事象も多発している。
その為、弊社では、現在、米国の有名AI企業のサービスを使用しているが、弊社独自のAIを開発しようという事で、このタスクフォースチームが設置された。
どう考えても、私がくる部署ではない。
営業事務をしているので、パソコン入力は得意だが、正直、ITとAIの違いもよく分かっていない。
人事部と国内営業部の話では、情報システム部、特に、このAI開発・推進タスクフォースチームを率いるマネジャーが、私を買ってくれているそうだ。
このマネジャーは、鉄鋼専門商社の弊社では珍しく、総合職採用なのに、入社以来20年間ずっと情報システム部にいる変わったキャリアを歩んでいる。
場違いだと思っていた私に、このマネジャーは、最初から優しく、またどうして私を引き抜いたのかを丁寧に説明をしてくれた。
「君は、営業支援課で2年間、一度もミスをしたことがないと聞いている。」
「AIがどれだけ進化をしても未だに、重大なものから単純なものまで、ミスは多発している。」
「だからこそ、君には、社則やガイドラインが変更される度に、社内AIに営業事務の内容を学習をさせてほしいんだ。」
営業事務で大切なことは、間違いを犯さないことなのだが、最もやっかいなのは、社則が変更されたり、それに則りガイドラインが変更されたのに、その最新の情報に気が付かず、古い方法で処理してしまうことだ。
つまり、昨日まで正しかったやり方が、今日は同じやり方をすると誤りになってしまう。
そのため、日々の業務をこなしつつも、しっかりと最新情報に目を通し、その時点での正しい方法で事務処理をすることが大切になる。
しかし、AIは、その最新情報が発表されたら、それを学習させなければならない。しかも、人間であれば一度言えば分かることを複数回教えて学習・定着をさせなければいけない。
そのため、私のようなガイドライン通りの仕事を遂行できる営業事務員が必要だったということだ。
私は、正直、ガイドライン通りに則って、自分の頭を殆ど使わないこの仕事にあまり魅力を感じていなかった。
単に残業が少なくて、楽そうだから、という理由で選んだのだが、このスキルが世界の最先端であるAI技術に役立つと聞いて、心が躍ったのが正直な感想だった。
また、事務員はミスしないのが当たり前で、売上を取ってくる営業部員の方が上という態度を出す国内営業部の上司と異なり、このマネジャーは一度もミスをしたことがないことが、とても重要かつ価値があり、人間がAIに学習をさせなければならない大切なスキルだと褒めちぎってくれたことが嬉しかった。
「兼任なので、あくまで営業支援課の仕事が主だけど、こっちの仕事も手伝ってほしい。」
情報システムのプロであるマネジャーから頭を下げられて、私は恐縮してしまったのと同時に、こんな凄い人に自分の能力が求められていることが嬉しくて、私は2つ返事で了承をした。
しかも、このマネジャーは、優しいだけでなくイケメンで独身貴族だ。見た目は、体育会系の営業部員と異なり、オシャレなテニスサークルのメンバーみたいだ。歳を聞かなければ30台前半と言っても分からないだろう。
「ありがとう。人事部と国内営業部とは、話しは既にしていて、勤務時間は、営業支援課の仕事が7割、こっちの仕事が3割という比率にしているから、是非、君の力を貸して欲しい。」
私は、ワーク・ライフ・バランス重視の平凡な生活に少し飽きていたこともあり、自分の能力を評価してくれる優しいイケメンの上司の下で、時代の最先端の技術に携われるAI開発・推進タスクフォースチームの一員になることが楽しみになっていた。
「これから、末永く、宜しくね。」
きっと長いプロジェクトになるのだろう。私もしっかり貢献できるように頑張ろう。
そして、AI開発・推進タスクフォースチームに入り、文字通り、私の人生全てを社内独自のAI開発に費やすことになるとは、この時は露にも思っていなかった。
第2章に続く。
(第2章は5月3日(日)21時00分に投稿いたします。)




