9.本当の夫婦として
裏庭の長椅子で休んでいたわたくしたちの前に現れたのは、この城の庭師だった。白いひげをさっぱりと刈り込んだ、背筋のぴんと伸びた老齢の男性だ。
「……これはまた、仲睦まじいご様子。いやあ、よいものを見せていただきました」
庭師はしわだらけの顔に大きな笑みを浮かべて、わたくしとヴォルフを交互に見ている。ちょっとずけずけとした物言いではあるけれど、その言葉に嫌味はない。ただ純粋に、彼はわたくしたちを見て喜んでいるようだ。
今日顔を合わせた他の使用人たちは、みんなただただぽかんとするだけだった。わたくしたちのこのふるまいに、驚くことしかできなかったのだろう。
でも庭師は、ちょっと違う反応を見せている。せっかくだし、少し話をしてみましょうか。
「わたくしたち、仲がよさそうに見えますの?」
期待をこめて尋ねると、庭師はからからと声を上げて笑った。
「ええ、とても。これで少しだけ、安心できそうです」
やはり彼は、歯に衣着せないたちの人物らしい。普通、主に向かって「少しだけ安心できそう」だなんて言うことはない。ある意味、すがすがしくもある。
「安心って……わたくしたちがばらばらになってしまうことを心配していたの?」
庭師はわたくしの言葉に大きくうなずくと、しみじみと語り始めた。
「そもそもの始まりは、先代の辺境伯様がいなくなられたことでした」
さて、何の話が始まるのだろう。ちょっとわくわくしながら、彼の話に耳を傾ける。
「先代の辺境伯様は、毎日おびえておられました。いつシャルカが攻めてくるか分からないと言って、この城に立てこもっておられたのです。……幼いころから、どうにも気の弱い方でしたから」
先代の辺境伯が罰を覚悟のうえで勝手に引退したらしいと聞いてはいたけれど、そんな事情があったのか。
「そして辺境伯様は、逃げるようにしていなくなってしまわれた。私たちにも知らせずに、突然城を出ていってしまったのですよ。私たち辺境の民は、見捨てられてしまったのです」
私たち辺境の民。その言葉につい首をかしげると、庭師はふっと笑って説明を添えた。
「ああ、私は生まれも育ちも辺境でして。ここの使用人たちの中にも、少なくはありますが辺境の人間がおりますよ」
納得しているわたくしに、彼はまた語りかける。
「新しい辺境伯様は元騎士団長で、奥方様は王女様だ。そう聞いたとき、私たちは大いに喜んだものです。きっとこれは、辺境の守りをより強固なものにするためのはからいなのだろうと、みなそう思いました」
嬉しそうに話していた彼の顔が、不意に曇った。
「と思ったら、ご夫婦の仲があまりよろしくないらしいと、メイドたちが噂しているのを小耳に挟んでしまい……」
彼は視線を足元に落とすと、小さく息を吐いた。
「このままでは、いずれ奥方様は王都に戻ってしまわれるのではないか。そうなったとき、辺境伯様はどうなってしまうのか。分からないことだらけで、どうにも不安だったのです」
ああ、ヘクターが教えてくれたとおりだった。申し訳なさにきゅっと唇を噛んだそのとき、隣のヴォルフが身じろぎした。
「大丈夫だ。どうか、安心してくれ」
ずっと身をこわばらせて黙りこくっていた彼が、いつの間にか堂々と背筋を伸ばしていた。
「何があろうと、私は君たちを見捨てるようなまねはしない」
彼はまっすぐに、庭師に呼びかけていた。その力強い声に、凛々しい表情に、見とれてしまう。ひと呼吸おいて、はっと我に返った。いけない、わたくしも言葉を添えないと。
「ええ。わたくし、ここから出ていったりしませんから。ずっと、旦那様のおそばにおります」
それでようやく、庭師はほっとしたようだった。けれど目の端に見えているヴォルフの横顔が、わずかに引き締まったように感じられた。
庭師が笑顔で去っていってから、ヴォルフにささやきかける。
「どうやら、作戦はうまくいっているようですわね。この分ならじきに、わたくしたちは仲のいい夫婦なのだと、みなに分かってもらえますわ」
「……私としては、複雑な気分だ」
しかし返ってきたのは、深刻そうな声だった。彼はそっとわたくしの腕から逃れると、身じろぎして距離を取ってしまう。
「先ほど貴女は、ずっと私のそばにいると言っていたが……その言葉は、撤回できないだろうか」
「どうしてですの?」
尋ねるまでもなく、答えは分かっていた。けれど、問わずにはいられなかった。
「貴女がいなくなっても、私がここに残れば、民たちの不安を和らげることはできる。ここのことは、心配しなくてもいい」
ヴォルフは目を伏せて、ぼそぼそと語っている。
「私は……貴女を危険にさらしたくない。この辺境は、フロージュ王国で一番危険な場所だ」
「わたくし、守られているだけの女ではありませんわ。分かっているでしょう? それに、あの王宮よりは、ここのほうがずっとずっとましですもの」
きっぱりと反論すると、ヴォルフがちらりとこちらを見た。その顔には、悲しげな笑みが浮かんでいる。
「ああ。それでも、貴女には安全な場所にいてほしい」
「わたくしのことを気にかけてくださるのは嬉しいですわ。でもわたくしはここにいたいんです」
さらに食い下がったものの、彼は首を横に振るばかり。
「王宮に戻りたくない、というのであれば、どこか別の……貴女が心安らかに暮らせる場所を探す。だからどうか、聞き入れてくれ」
彼がわたくしのことを気遣ってくれているのは、痛いくらいに伝わってくる。けれどその気遣いが、もどかしくてたまらなかった。だってわたくしは、そんなことを望んではいないのだもの。
「……旦那様。いえ、ヴォルフ様。わたくしは、ここに……あなたのそばにいたい。あなたから、離れたくないんです」
懸命に呼びかけると、彼は困惑したように眉をひそめ、こちらを見た。
「前から気になっていたのだが……どうして貴女は、そこまで私に構いつけるのだろうか。貴女にとって私は、押しつけられた夫にすぎないのに」
自分を卑下しているような彼の言葉に、かっと頭に血が上る。
「わたくしは、あなたのことが気になっていました。あなたに近づきたい、あなたを知りたいという思いが、どんどんこみ上げてきて」
そして勢い任せに、そんなことを口走ってしまう。
「……男性に対してこんな感情を抱くのは、初めて、なんですの……」
少し遅れて、気がつく。これではまるで、恋する乙女のようだ。いや、今までずっと、あれこれと理由をつけて気づかないふりをしていただけで、たぶんわたくしは、最初から彼のことが……。
「……あなたが、わたくしの顔を見るのも嫌だとおっしゃるのなら、あきらめてここを去ります。でも、そうでないのなら……」
そろそろと付け加えて、また口をつぐんだ。そうでないのなら、ここにいさせてほしい。本当は、そう言いたかった。けれどこれ以上すがっていいものか、判断できなかったのだ。
ヴォルフは黙ったまま、まっすぐに前を見つめている。こんなことなら、うっかり本心を告げるべきではなかったのかもしれない。後悔の思いが、もやもやと胸の中に立ち込めてくる。
「……私がまだ、騎士団長だったころ」
と、ヴォルフがつぶやいた。
「王宮で、不思議な女性を見かけた」
きちんと座り直して、じっと彼の横顔を見つめる。
「彼女は早朝、テラスにひとりたたずんで、朝日を眺めていた。儚げなのに、強い生命力を感じさせる姿だった」
彼の口調は淡々としていたけれど、細められた目には温かな光が灯っていた。
「彼女の姿を見たのは、その一度きりだった。それなのに、彼女のことが忘れられなかった」
一度見ただけのその女性が、彼の心に住み着いている。そのことが、うらやましく思えてしまう。誰なのだろう。
「やがて私と王女との結婚が決まり、貴女がここにやってきた。貴女の姿を見たとき、どれほど驚いたことか」
こっそりと唇を噛んでいたら、ヴォルフがふっと笑った。唐突に変わった話に、混乱してしまう。……この流れって……まさか。
「あの日、私が見たのはチェレスタ、貴女だった」
その言葉に、心臓がどきりと大きく跳ねる。
「この縁組が私に対する嫌がらせで、貴女は巻き込まれただけの被害者。そう分かっていても……この偶然に感謝せずにはいられなかったんだ」
苦笑しながら、ヴォルフが前髪をかきあげた。
「だが同時に、貴女のことを守りたいと、強く思った。大切だからこそ、危険なこの地に置いてはおけないと思ったんだ」
「だからわたくしを、遠ざけようと……?」
おそるおそる尋ねると、彼はゆっくりとこちらを見て、小さくうなずいた。
「……ああ」
「あのっ! その気遣いは、少しばかり的外れですわ!」
口を開いたら、見事に裏返った声が出てしまった。驚きに目を丸くするヴォルフに、急いで言葉を投げかける。
「わたくしは、会ったばかりのあなたのことがずっと気になっていた。あなたは、遠くから見たわたくしのことがずっと心に焼き付いていた」
改めて整理してみると、少し気恥ずかしくはある。けれど頑張って、さらに続けた。
「ですから、その……わたくしたち、きっと、いい夫婦になれると思うんですの。だって、お互いのことを好ましく思っていたのですから」
こちらを見つめているヴォルフの顔が、みるみる赤く染まっていく。
「きっとこれからも、様々な困難がわたくしたちの前に立ちはだかるでしょう。でもふたり一緒なら、きっと乗り越えていけるはず。いいえ、乗り越えていきましょう」
力強く言い切って、そのままじっと彼の目を見つめる。彼もまた、まばたきひとつせずにわたくしを見返していた。
けれどやがて、彼がふうと息を吐く。
「……貴女にそこまで言わせてしまうとは、やはり私は腰抜けだな」
「えっ?」
「こうなったら、腹をくくろう。……実は、貴女を突き放すのが辛いと、そう思えてしまっていたから」
どことなく晴れやかに、彼は笑った。どきりとしていると、彼はさらに柔らかな、優しい笑みを向けてくる。
「貴女はやはり、ただ儚いだけの女性ではなかった。次々と新たな一面を見せてくる貴女にとまどいはしたが、同時に……惹かれるものを感じた」
今度は、わたくしが赤くなる番だった。ヴォルフは胸に手を当て、うやうやしく頭を下げてくる。まるで、騎士が主君に忠誠を誓うような仕草だった。
「チェレスタ。私が、よい夫になれるか自信はないのだが……それでもいいのであれば、どうかこれからもよろしく頼む」
「もちろんですわ!」
こみ上げてくる喜びに突き動かされるようにして、思いっきり彼に抱きついた。がっしりとたくましい体をじかに感じてしまって、かあっと耳が熱くなる。でも、離したくはなかった。
「ようやく、夫婦になれた気がしますの……」
小声でつぶやくと、彼がかすかにうなずいた気配がした。




