2.旦那様はつれなくて
初めて顔を合わせた夫ヴォルフは、どうにも挙動不審だった。妙にそわそわしていて、わたくしを見ようともしなかった。
ただ彼からは、兄姉たちのような悪意は感じなかった。長年兄姉たちにあれこれといびられてきたおかげで、悪意だけはすぐに感じ取れる。……我ながら、情けない特技ですこと。
だったらいつか分かりあえるでしょうし、気長に接していけばいい。そう結論づけて、ひとまず存分にくつろぐことにした。
わたくしにあてがわれたのは、代々辺境伯の妻が使っているという部屋だった。王宮で暮らしていた部屋よりずっと質素だし、こぢんまりとしているけれど、最低限のものはそろっているし、居心地は悪くなかった。
小ぶりの寝台に寝っ転がってごろごろしていたら、メイドがやってきた。夕食の支度が整ったので、わたくしを呼びにきたのだ。
さて、ヴォルフはどんな顔をしているかしらね。意気込んで、食堂に足を踏み入れる。先に席についていた彼は一瞬こちらを見たけれど、また明後日のほうを向いてしまった。
予想どおりではあったけれど、そう露骨にされるとちょっぴり寂しくもある。けれどそんな思いは笑顔の下に隠して、メイドが引いてくれた椅子に優雅に腰を下ろす。
食事の間も、彼はやはり、わたくしからずっと目をそらしていた。何度か話を振ってみたけれど、返ってくるのは短い言葉ばかり。
嫌われている感じこそしないけれど、ぎこちないにもほどがある。
こんなことでは先が思いやられるけれど、夫婦としての暮らしはまだ始まったばかりなのだし、焦ることはない。ええ、焦っては駄目。
そう自分に言い聞かせて、質素ではあるものの意外とおいしい食事を平らげた。
「……いつまで待てば、いいのかしら?」
その夜わたくしは、ひとりでしきりに首をかしげていた。身じろぎするたびに、薄くてしなやかな絹の夜着がさらさらと揺れる。
ここは、夫婦がともに休むための寝室だ。わたくしやヴォルフの部屋とは独立していて、それぞれが自室からここに通う形になっている。
わたくしは天蓋がついた大きくて豪華な寝台に腰かけて、ただひたすらにヴォルフを待っていたのだ。窓の外に見える月は、わたくしがざっと三時間ほど待ちぼうけを食らっていることを教えてくれていた。
貴族の男女は、夫婦として初めてひとつ屋根の下で過ごす夜、寝所をともにするのが決まりごとになっている。なのに、ヴォルフが来ない。
初対面のときの態度と、夕食のときの態度からすると、おそらくヴォルフは、わたくしにどう接していいか分からないのだろう。もしかすると、本当に人見知りなのかもしれない。
でも彼だって、一応は貴族の家の出なのだし、結婚に伴うしきたりについてはひととおり知っているはずなのだけれど……。
小声でうなって、寝台から降りる。部屋の片隅に置かれていた姿見の前に立ち、髪や服の乱れを整えた。
鏡の中には、胸のところまである金髪をふわりと垂らした、青紫のぱっちりした目の乙女が立っている。ひときわ小柄で、きゃしゃで儚げな雰囲気だ。
……この弱々しい見た目のせいで、余計に兄姉たちになめられていた気がするので、ちょっと複雑な気分ではある。
「わたくし、見た目ほど弱くはないのですけれどね。そのことを、一度兄姉たちに思い知らせてやりたかったですわ」
ぼそりとつぶやいて、ひとつため息をつく。せっかく王宮から逃げ出せたのだし、いまいましい兄姉のことを考えるのは止めておこう。それよりも今は、ヴォルフのことだ。
「こうしていてもらちがあきませんし、彼の様子を見にいくしかないかしら」
もう夜遅いし、メイドたちを起こすのも忍びない。そのままひとりで廊下に出て、まっすぐにヴォルフの部屋を目指す。
小さな燭台を手に、静まり返った暗い廊下を歩く。春先とはいえ、夜ともなると少々冷え込んでいる。夜着の上から羽織ったケープを、しっかりと肩に巻き付けた。
どうにも寂しさを感じさせる空気の中を歩き続けているうちに、ふと、嫌な考えが頭をよぎってしまった。この結婚が決まってから、頭の片隅に巣くっていた、つとめて意識しないようにしていた考えだ。
もしかしたら、彼はわたくしのことを疎ましく思っているのかもしれない。なんらかの理由で、それを言えずにいるだけで。
兄姉たちがわたくしを彼に嫁がせようなんて考えなかったら、ヴォルフは今でも騎士団長として王都で暮らしていたに違いない。つまり彼が辺境に放り込まれたのは、ある意味わたくしのせいとも言える。
「……確かめてみたほうが、いいのかしら……」
いつになく気弱な声がもれてしまって、我に返る。いけませんわ、わたくしらしくもない。
今のところはっきりしているのは、ヴォルフがわたくしを避けている、そのことだけ。その理由は、いくらだって考えられる。わざわざ暗い理由にこだわることはない。
「ひとまず、彼と話してみましょう。そうしなければ、何も始まりませんわ」
自分を奮い立たせて、いつの間にかうつむいてしまっていた顔を上げる。さっきよりも力強い足取りで、改めてヴォルフの部屋を目指す。
彼の部屋の扉を、慎重に叩く。もう真夜中だし、既に眠っているかもしれない。うかつに起こさないよう、気をつけないと。
しかしすぐに、中から返事があった。そのことに少し驚きつつ、扉を開ける。
入ってすぐの部屋には、椅子と机、それにソファなどが置かれている。ヴォルフはソファに腰かけて、燭台の明かりで書類のようなものを読んでいた。柔らかな夜着をまとっているせいで、その下のたくましい体つきがはっきりと見て取れる。
どきりとしたのをごまかしながら、ゆったりとヴォルフに呼びかけた。
「旦那様、こちらにおられたのですね」
「チェレスタ様……少々、執務が残っていましたので」
彼は彼で、夜着姿のわたくしを見て、一瞬ぎょっとしたように身をこわばらせていた。けれどすぐに、視線をそらして小さく咳払いをしている。平静を装おうとしているようだけれど、明らかに失敗していた。どうにも微笑ましい。
自然と笑みが浮かぶのを感じつつ、さらに彼に呼びかける。
「まあ、こんな時間まで……熱心なのはいいことですけれど、そろそろお休みになられては? さあ、寝室にまいりましょう」
「いえ、私は奥の部屋で休みますので、チェレスタ様も自室でゆっくりなさってください」
彼は窓の外に目をやったものの、立ち上がる気配はない。どうやら、夫婦の寝室に向かうつもりはないらしい。
やはり、避けられている。そう確信したのと同時に、別の可能性に行き当たってしまった。
まさかとは思うけれど、彼は貴族の夫婦のしきたりを知らないのではないか。ずっと騎士として生きていたのなら、ありえなくもない……のかしら?
「あの……ですが、旦那様。それでは、わたくしたちの義務が果たせません」
「義務、ですか?」
あ、これは本当に知らないんですのね。あるいは、忘れているか。だったら、説明しておいたほうがよさそうだけれど……。
「……辺境伯夫妻として、血を残すことですわ」
血を残す。あえて、遠回りな言い方をしてみた。さっき「わたくしたちの義務」と言ったばかりではあるけれど、わたくしはその義務について、少々思うところがあったから。
わたくしも、一応は王族だ。高貴な血とやらを引いてしまった女の役目はただひとつ、子を産んで、その血を残すことだけ。
けれど正直、わたくしはそんな役目を背負わされていることが腹立たしくてたまらなかった。わたくしにはもっといろんなことができるのにと、悔しくてたまらなかった。
それでも、義務は義務。ヴォルフは夫としては悪くなさそうだし、さっさと終わらせてしまおうと開き直ることにしたのだ。
「と、突然何をおっしゃるのです!」
ぎゅっと唇を噛むわたくしとは裏腹に、彼はかっと目を見開いた。その声は見事なまでに裏返り、上ずっている。えっ、なんですの、この反応は。
「突然も何も、今のわたくしたちは夫婦なのですから、当然のことですわ。さあ、ともに寝所にまいりましょう」
そこまで狼狽されると、わたくしとしてもやりづらい。ほんのりと耳が熱くなるのを感じつつ、できるだけ平静を装って答えた。
「い、いえ、その、無理です! どうか、下がってください!」
しかしヴォルフは、さらにうろたえてしまっている。
彼はばっと立ち上がると、機敏な動きでわたくしのそばにやってきて、そのままわたくしを入り口のほうに押し出し始めた。
どうやら彼は、義務を受け入れるつもりは毛頭ないらしい。そう感じたとたん、かっと頭に血が上るのを感じた。けれどその感情は、拒まれたことによる屈辱ではなく、悲しさに近いものだった。
「わたくしのことが疎ましいのであれば、はっきりそうおっしゃってくださいませ、旦那様!」
気がつけば、そんな言葉が口をついて出ていた。わたくしの剣幕に、ヴォルフが動きを止める。
「もしそうだというのならば、わたくしも腹をくくります。宙ぶらりんのまま放っておかれるのが、一番辛いですわ」
ああもう、これではまるで泣き言ですわ。今日顔を合わせたばかりの彼に、ここまではっきりと胸の内を明かすつもりなんてなかったのに。
でも、言ってしまったものは仕方がない。きゅっと唇を引き結んで、すぐ近くにあるヴォルフの目を正面から見据えた。
「腹をくくる……どういう意味でしょう」
「この結婚は、白い結婚。わたくしたちは互いに干渉しない、形だけの夫婦。そう、割り切ります」
とまどい顔の彼に、柔らかく笑いかける。さっきから、目頭が熱い。
「どのみち、最初から覚悟はしておりましたもの。大丈夫ですわ、旦那様。必要なときだけ夫婦としてふるまい、あとは好きに過ごしますから」
それでも悠然と微笑み、言い切った。
ヴォルフはぱちぱちと目をまたたいていたけれど、少ししてその眉が悲しげに下がる。
「しかし、それでは貴女が、あまりにも……」
「いいんですの。自分のことを疎んじている夫に無理やり迫るほど、わたくしは愚かではありませんわ」
自分を拒絶している方にすがるのって、みじめですものね。王宮でずっといじめ抜かれてきたわたくしですけれど、誇りだけはなくさなかった。これからも、手放すつもりはない。
「……チェレスタ様」
「はい」
「私は、貴女を疎んじてなどおりません。貴女をないがしろにするつもりも、ないのです。ただ……」
ぽつりぽつりと、ためらいがちに彼は言葉を紡ぐ。けれどすぐに、その顔が苦しげにゆがんだ。
「……いえ、それ以上のことは、話す必要はないでしょう。どうぞ、お引き取りください」
彼はもう、わたくしを押し出そうとはしなかった。彼はそのまま奥の部屋に向かうと、ぱたりと扉を閉めてしまったのだ。
ひとり残されて、立ち尽くす。
「嫌われては、いなかった」
たったそれだけのことで、驚くほどほっとしてしまう。結局、彼を夫婦の寝室へは連れ出せなかったというのに。
まだ、希望は残っている。まだ、あきらめるには早い。
「でしたら、もう少しだけあがいてみても……いいのかしらね?」
つぶやきながら、部屋を出た。暗い廊下は、先ほどまでとは違って、寒々しさを感じさせはしなかった。




