12.戦場に最も近い地
シャルカの民。それはこの辺境の近く、国境の向こうの草原で暮らす民だ。彼らは馬を乗りこなし、羊を育てて暮らしている。
そして彼らはなぜか、国境を越えてこの辺境に攻め込んでくるのだ。
さすがに、辺りが深い雪に閉ざされる真冬は攻めてこないし、戦いと戦いの間は何か月か空くのが常だった。先代の辺境伯の日記から、そのことはすぐに割り出せた。
「もう、攻めてきたんですの……? 次の戦いは、もっと先になるはずでしたのに……」
これまでの間隔からすると、次の戦いまでもうしばらくの猶予があるはずだった。だからわたくしもヴォルフも、すっかり油断してしまっていた。
報告を持ってきた新米騎士から敵の規模や位置を聞き取ったヴォルフが、いつになく厳しい顔で言い放つ。
「分かった。ただちに迎撃する。訓練のとおりに動くよう、みなに通達してくれ」
ヴォルフの指示を受け、新米騎士は大急ぎで部屋を出ていく。ふたりきりになったところで、彼にそろそろと声をかけた。
「あの、ヴォルフ様……」
「大丈夫だ、チェレスタ。必ず、生きて戻る。だから、そんな顔をするな」
わたくしを励ますように、彼は穏やかに笑いかけてくる。けれどその笑みに、余計に不安がかきたてられてしまう。
「貴女は、ここで待っていてくれ。この城は堅牢だ、おそらくは辺境でもっとも安全な場所だろう」
「でも……」
「もしものときは、ここを捨ててためらうことなく逃げてくれ。貴女なら、きっと逃げ切れる」
ええ、わたくしなら逃げ切れる。でも、わたくしが言いたいのはそんなことじゃない。
「……どうか、ご無事で……」
彼に伝えたいことは山のようにあったのに、口をついて出たのはありふれたひとことだけだった。
城の中が、にわかに騒がしくなる。出陣の支度をする男たち、彼らの身支度を手伝う女たち。そうしてたくさんの人たちが、馬に乗って城を後にする。
わたくしはただ、それを見守ることしかできなかった。
「お祖母様……わたくしは……どうしたら……」
自室でひとり、必死に考える。
誰にも言えなかったけれど、わたくしには、まだできることがある。うまくいくかは分からないし、もしかしたらもっと大変なことになってしまうかもしれない。
それにヴォルフは、わたくしの身を案じてくれていた。彼に心配をさせないよう、ここでおとなしくしているのが一番なのだろう。
唇を血が出るくらい強く噛みしめ、こぶしを握り、窓の外を見すえる。
「でも……このままでは、きっと後悔する……」
クローゼットの前に立ち、胸を張る。ようやっと、心が決まった。
「みなさま、待ってください!!」
広い草原に、わたくしの声が響き渡る。そこに集まっていた人々の視線が、一斉にこちらに向くのを感じた。
わたくしは乗馬服に着替え、厩番たちの制止を振り切って、いつもの若馬にまたがって戦場を目指したのだ。
戦場に到着したとき、既にヴォルフたちはシャルカの戦士たちとにらみ合っていた。
ヴォルフと新米騎士たち、それに城で働く兵士たち。軍と呼ぶにはあまりにもささやかなこちらの手勢。
それに対し、あちらはずらりと騎馬を並べ、こちらを威圧するように陣形を組んでいた。どう見ても、こちらの倍以上いる。
騎乗したままの戦いを得意とするシャルカの戦士たちは、革や毛織物を主とした軽い防具に身を包み、短刀や弓を使いこなして縦横無尽に駆け回る。それは見事な動きなのだと、お祖母様はこっそり教えてくれた。
ヴォルフはともかく、新米騎士たちにとっては辛い相手になるだろう。そこへもってきて、この数の差だ。これでは、撤退するだけでも大ごとだ。
「チェレスタ!?」
静まり返った草原に、今度はヴォルフの悲鳴が響いた。遠くからでも、彼がひどく動揺しているのが見て取れる。
彼に駆け寄りたいのをこらえて、大きく息を吸う。そうして、シャルカの戦士たちに呼びかけた。
「わたくしはチェレスタ、フロージュの辺境伯ヴォルフの妻にございます!」
それを聞いたシャルカ側が、わずかにどよめいた。どうしてそんなものがこんなところにいるのかと、そう言いたげな様子だ。
さあ、ここからだ。次の言葉を発してしまえば、わたくしは以前のわたくしには戻れなくなる。
でも、言わなくては。そのために、ここまでやってきた。
「そしてわたくしは、ルルカの枝、ライエの孫です! どうか、話を聞いてください!」
シャルカ側の動揺は、さっきの比ではなかった。驚きすぎたのか、殺気が引っ込んでしまっている。みんなとまどい顔を見合わせ、小声で何やらささやき合い始めた。
今、ヴォルフたちは、どんな顔をしているのだろう。そちらを確認する度胸は、今のわたくしにはなかった。
ヴォルフたちに背を向け、片手を挙げる。昔、お祖母様に教わったとおりに、しなやかに腕を振った。
前へ、横へ、上へ、忙しく手を動かすわたくしを見たシャルカの戦士たちが、さらなる驚きにあんぐりと口を開けた。
彼らはしばらくの間、わたくしを穴が空くほどまじまじと見つめていた。信じられないものを見るような目だ。背後からは、物音ひとつしなかった。
さっきまでぴりぴりとした殺気に満ちていた草原には、いつしか困惑のざわめきだけが広がっていた。
馬上でまっすぐに背を伸ばして、じっとシャルカの民を見つめ続ける。やれることはやった。あとは、あちらの出方をうかがうしかない。
やがて、中の一人が進み出てきた。五十歳は超えているだろう、辺境を取り巻く山を思わせる重厚な雰囲気の男性だ。
着ているものが少し豪華だし、周りの戦士たちも彼を信頼のまなざしで見つめているから、シャルカ側の総大将……といったところかもしれない。
「我らにのみ伝わる合図を知るということは、お前は本当にライエの孫なのか。しかしどう見ても、お前は南の人間そのものだ」
彼は無遠慮な視線を、わたくしに向けている。緊張しながら、穏やかに言葉を返した。
「わたくしは、シャルカとフロージュの混血ですから。けれどシャルカとしての心は、間違いなく祖母から受け継いでおりますわ」
背後から、息を呑む気配がした。目の前の男性が、ぐっと眉間にしわを寄せている。怒っているというより、困っているような表情に見えた。
「……チェレスタ、とかいったか。お前はなぜ、ここに来た?」
「戦いを、起こさせないために」
すかさず答え、さらに言葉を紡ぐ。
「わたくしの後ろにいるのは、わたくしの夫と、大切な配下たち」
きっとヴォルフたちは、困惑しきっているのだろう。
「そしてわたくしの前にいるのは、わたくしの祖母が愛した、大切な方々」
シャルカの民たちが、さらにざわついた。
「その人たちが互いに傷つけあうのは、嫌なのです」
すると男性は、さらに顔をゆがめてしまった。うっかり酸っぱい果実を口にしてしまったような、なんともいえない表情だ。
「……それだけのために、お前はか弱い女の身でこんなところにきたのか?」
「それだけ、ではありませんわ。とても大切なことです」
胸を張って、笑顔で答える。
男性は微動だにしないまま、しばらく考え込んでいた。しかしやがて、ゆっくりと口を開く。
「お前がしばし、我らのもとに留まるというのであれば、お前の仲間はこのまま帰してやろう。もちろん、あとでお前も無事に戻してやる。さあ、どうする?」
「その申し出、受けますわ!」
おそらく彼は、無理難題をふっかけてわたくしを引き下がらせようともくろんでいたのだろう。でもわたくしにとって、その申し出はありがたいものだった。
シャルカの人間は、何より嘘を嫌悪する。誰に対しても誠実であろうとする気高き民だ。そう、お祖母様から教わった。
つまり彼の約束に乗ってしまえば、ヴォルフたちとわたくしの無事は約束されるのだ。
しかも、シャルカ側の懐に入ることで、多少なりともあちらの事情を知ることができるかもしれない。ヴォルフが望んだ平和に、一歩近づけるかもしれない。
「駄目だ、チェレスタ!」
しかしそのとき、背後から悲痛な声が投げかけられた。思わず振り返ると、ヴォルフが泣きそうな顔でわたくしを見ていた。
「頼む、行かないでくれ!」
わたくしは、秘密を明かしてしまった。お祖母様が、実はシャルカの民であったこと、わたくしが混血であるということ。
けれどヴォルフは、それでも変わらずに、わたくしのことを気にかけてくれていた。ああ、本当に優しい人。
「大丈夫ですわ、ヴォルフ様。必ず戻りますから。ですからどうか、待っていてください」
うっかり泣きそうになってしまったのをごまかすように、優雅に微笑んでみせる。
「どうか、わたくしを信じてくださいませ」
彼の唇が、かすかに震えた。ああ、という声が、風に乗って聞こえてきた。




