第8話
夕暮れの街は、昼間の喧騒とは違う柔らかい光に包まれていた。
店先のランタンが灯り、通りを歩く人々の影が長く伸びる。
その中を、ソウマと私は並んで歩いていた。
「ノエル、腹減っただろ?うまい店知ってるんだ!」
ソウマは嬉しそうに笑い、私の少し前を歩く。
その背中は、森で私を守ってくれた時と同じように頼もしく見えた。
私はその背中を追いながら、胸の奥が少しだけざわついていた。
――今日、私は嘘をついた。
ソウマに「家が火事でなくなった」と言った。
本当は違う。
孤児院から逃げてきた。
人身売買のために育てられた孤児院から。
でも、あの時は言えなかった。
怖かった。
信じてもらえないかもしれないと思った。
だけど――
今日、ソウマは私を守ってくれた。
怪我をしても笑ってくれた。
私の回復魔法を褒めてくれた。
寝る場所がないと言ったら、宿を紹介してくれた。
その優しさに触れるたび、胸の奥の嘘が重くなっていく。
――もう、嘘をつくのが耐えられない。
そんな思いが、静かに胸の奥で膨らんでいた。
ソウマが案内してくれた店は、木造の温かい雰囲気の食堂だった。
店先には「灯り亭」と書かれた看板が揺れている。
「ここ、うまいんだよ!」
ソウマが扉を押し開けると、香ばしい匂いがふわりと広がった。
焼いた肉の匂い、煮込んだスープの匂い、香草の匂い――
どれも孤児院では嗅いだことのない、温かい匂いだった。
「いらっしゃい!」
店主らしき女性が笑顔で迎えてくれる。
「二人です!」
ソウマが元気よく答え、私たちは窓際の席に座った。
「ノエル、何食べたい?」
「えっと……」
メニューを見ても、どれも初めての料理で迷ってしまう。
「じゃあ俺が選ぶ!ノエルは好き嫌いなさそうだし!」
「う、うん……」
ソウマは店主に注文を伝え、席に戻ってきた。
「ノエル、今日は俺が奢るからな!」
「えっ……でも、私も銀貨持ってるし……」
「いいんだって!初依頼達成の祝いだし、ノエルの回復魔法のおかげで俺は無事だったし!」
その言葉に胸の奥がじんわりと温かくなる。
――ソウマは、本当に優しい。
その優しさが、胸の奥の嘘をさらに重くした。
しばらくすると、店主が料理を運んできた。
「お待たせしました!」
テーブルに並んだのは、
香草で焼いた鶏肉、野菜のスープ、柔らかいパン、そして甘い果物の盛り合わせ。
「わぁ……」
思わず声が漏れた。
鶏肉は、表面がこんがりと焼けていて、薄い焦げ目が美しい模様のように広がっている。
ナイフを入れる前から、香草の香りがふわりと鼻をくすぐった。
ローズマリーとタイム、それに少しだけレモンの皮をすりおろしたような爽やかな香り。
孤児院では嗅いだことのない、温かくて豊かな匂いだった。
野菜のスープは、透明度の高い黄金色で、
表面に浮かぶ油の粒がランタンの光を受けてきらきらと揺れている。
にんじん、玉ねぎ、じゃがいも、そして小さく刻まれた緑の葉。
煮込まれた野菜は形を保ちながらも柔らかく、スプーンを入れるとほろりと崩れた。
パンは、孤児院で食べていた固いものとはまるで違う。
表面は薄くパリッとしているのに、中はふわふわで、指で押すとゆっくり戻ってくる。
焼きたての香りがまだ残っていて、湯気がほんのり立ち上っていた。
果物の盛り合わせは、赤や黄色、緑が鮮やかで、まるで宝石のようだった。
リンゴは薄くスライスされていて、光を受けて透けるように輝いている。
オレンジは甘い香りを放ち、ぶどうは皮が張りつめていて、指で触れるとぷるんと弾力が返ってきた。
「こんなの……」
言葉が続かなかった。
孤児院では、こんな料理は一度も食べたことがない。
いつも薄いスープと、歯を立てると欠けそうなほど固いパンだけだった。
味なんてほとんどなくて、ただ「生きるために食べる」だけの食事。
でも今、目の前にある料理は――
“食べることが嬉しい”と初めて思えるものだった。
胸の奥がじんわりと温かくなり、
スープの湯気がその温かさをさらに広げていくように感じた。
「ノエル、食べてみろよ!」
「……うん」
私はスープを一口飲んだ。
――優しい味。
森で飲んだスープとは違う。
もっと深くて、温かくて、胸の奥がじんわりとする味だった。
「おいしい……」
「だろ!?ここのスープ、めっちゃ好きなんだ!」
ソウマは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、胸の奥がまたざわついた。
――嘘をついているのが、苦しい。
料理の温かさが、胸の奥の冷たい嘘を浮かび上がらせる。
食事を進めながら、ソウマは楽しそうに話していた。
「今日さ、ノエルが薬草の見分けしてくれたからめっちゃ助かったんだよ!俺、あれ全部間違えてたと思う!」
「そんなこと……」
「あるって!ノエルは慎重で、俺は勢いだけだからな!」
ソウマは笑いながら言う。
その笑顔が、胸の奥に刺さる。
――こんなに優しい人に、私は嘘をついている。
「ノエル、どうした?なんか元気ない?」
「……ううん。そんなことないよ」
嘘をついた瞬間、胸が痛んだ。
ソウマは私の顔をじっと見つめる。
「ノエル、俺……ノエルが困ってたら助けたいんだ。だから、悩み事とかあったら言ってほしい」
その言葉が胸に落ちた瞬間、息が詰まった。
――もう、嘘をつけない。
胸の奥がぎゅっと締めつけられ、視界が少し滲んだ。
「……ソウマ」
「ん?」
「私……嘘をついてるの」
ソウマの表情が変わった。
「嘘……?」
私は震える手でスープの器を握りしめた。
「家が火事でなくなったって……言ったけど……本当は……違うの」
ソウマは黙って私を見つめている。その目は責めるようなものではなく、ただ“聞く準備”をしている目だった。
「私……孤児院にいたの。でも……普通の孤児院じゃなくて……」
言った瞬間、胸の奥がぎゅっと縮まった。
喉がひどく渇いて、息を吸うだけで痛い。
言葉を続けようとするたび、心臓が強く脈打って、胸の内側を叩く。
――言いたくない。
――でも、言わなきゃいけない。
その二つの感情が、胸の奥で何度もぶつかり合っていた。
ソウマは黙って私を見ている。
責めるでもなく、急かすでもなく、ただ“聞く準備”をしてくれている目だった。
その優しさが、逆に胸を締めつける。
「……人身売買の孤児院だったの」
言葉にした瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
まるで、ずっと押し込めていた傷口を自分で開いたみたいに。
私はスープの器を握りしめた。
器の縁は冷たいのに、手のひらは汗でじっとりと湿っている。
「そこは……子どもを守る場所じゃなかった。“売るために育てる場所”だったの」
言葉を紡ぐたび、胸の奥がざわざわと揺れる。
過去の記憶が、嫌でも浮かんでくる。
薄暗い廊下。
冷たい石床。
誰も笑わない部屋。
「でも私も最近までは何も気が付かなかった……たまたま院長室の前で……次は私の番だって聞いて……」
胸の奥がじんわりと熱くなる。
それは怒りでも悲しみでもなく、
“思い出したくないものを思い出してしまった痛み”だった。
声が震える。
言葉が途切れそうになる。
「わたしっ!怖かった!怖くて苦しくて!逃げなきゃって!」
そこまで言った瞬間、喉が詰まった。
言葉が出ない。
胸の奥が痛くて、息が苦しい。
その言葉を言った瞬間、手が震えた。
スープの器がかすかに揺れる。
「でも……逃げるのが怖かった。でも……売られたら……もう戻れないから……夜中に……必死で走って……街まで来たの……」
言い終えた瞬間、胸の奥がすっと軽くなった。
でも同時に、怖さが押し寄せてくる。
――ソウマはどう思うだろう。
――嫌われるかもしれない。
――軽蔑されるかもしれない。
――距離を置かれるかもしれない。
私は震える手をぎゅっと握りしめた。
視線を上げるのが怖くて、テーブルの木目ばかり見つめていた。
胸の奥が、痛いほどに脈打っていた。
ソウマの目が大きく見開かれた。
「……ノエル……」
優しい声だった。
私はゆっくり顔を上げた。
ソウマは、泣きそうな顔をしていた。
「……そんな場所にいたのか」
「……うん」
「一人で……逃げてきたのか」
「……うん」
ソウマは拳をぎゅっと握った。
「……怖かっただろ」
その言葉を聞いた瞬間、涙がこぼれた。
「……怖かった……すごく……」
ソウマは席を立ち、私の隣に座った。
そして、そっと私の肩に手を置いた。
「ノエル。俺は……ノエルがどんな過去でも、嫌ったりしない。むしろ……よく逃げてきたって思う。よく、生きててくれたって思う」
胸の奥が熱くなり、涙が止まらなかった。
「ノエルは……強いよ。俺なんかよりずっと……強い」
「……ソウマ……」
「これからは……俺がいる。ノエルが一人で怖い思いすることなんて、もうない」
その言葉は、胸の奥に静かに沈み、やがて温かい光となって広がった。
私は泣きながら、何度も頷いた。
「……ありがとう……ソウマ……」
「うん。ノエルが話してくれて……嬉しかった」
ソウマは優しく笑った。
その笑顔は、今日見たどんな光よりも温かかった。
胸の奥がじんわりと熱くなり、涙がまたこぼれそうになる。
そのとき、ソウマがそっと言葉を続けた。
「ノエル」
「……うん」
「過去のことは……もう忘れよう」
その言葉は、強く言い切るようなものじゃなくて、
まるで傷口にそっと手を添えるみたいに優しい声だった。
「辛かったことも、怖かったことも……全部。ノエルが一人で抱えてきたものは、もうノエルだけのものじゃない」
胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
でも、それは痛みじゃなくて、温かさに近い。
「これからは……明日を一緒に生きていこう」
「……明日を……?」
「そう。ノエルの“これから”は、もう孤独じゃない。俺がいるし、冒険者としての道もあるし……ノエルが望むなら、ずっと隣で支える」
ソウマは照れたように笑いながらも、その目は真剣で、まっすぐで、揺らぎがなかった。
「過去は……ノエルが頑張って生き抜いてきた証だ。でも、未来は……一緒に作っていける」
その言葉が胸の奥に静かに落ちて、やがて温かい光となって広がっていく。
私は涙を拭いながら、ゆっくりと頷いた。
「……うん……一緒に……生きたい」
「よし!」
ソウマは嬉しそうに笑った。
その笑顔は、私の心の奥にある暗い影をそっと照らしてくれる光だった。
――過去は消えない。
――でも、未来は変えられる。
その未来を、ソウマと一緒に歩けるのなら――
私はきっと、もう一度ちゃんと生きていける。




