第5話
冒険者カードを胸に抱きしめたまま、私はしばらく動けなかった。
銀色のカードはひんやりしているのに、胸の奥はじんわりと熱い。
まるで、心臓の鼓動とカードの重みが同じリズムで響いているようだった。
――これが、私の証なんだ。
孤児院で過ごした日々が、ふっと脳裏に浮かぶ。
誰かに必要とされることも、誰かに認められることもなかった。
あの場所での私は、ただ“売られるために存在する少女”だった。
でも今、胸に抱きしめているこのカードは違う。
これは、誰かに売られるための札じゃない。
誰かに管理されるための番号でもない。
私自身が選んだ道を歩くための――“新しい私”の証だった。
カードの表面に刻まれた名前をそっと指でなぞる。
ノエル・リュミエール
胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
苦しいわけじゃない。
嬉しくて、誇らしくて、泣きたくなるような感情が混ざり合っている。
――私は、もう孤児院の少女じゃない。
――私は、逃げているだけの子どもじゃない。
――私は、冒険者なんだ。
その事実が、ゆっくりと、でも確かに心の奥へ染み込んでいく。
カードを抱きしめる腕に力が入った。離したくなかった。このカードは、私が初めて手にした“未来”だから。
「よし、次は依頼だな!」
ソウマが勢いよく言った。
その声は、まるで新しい世界へ飛び込むことを祝福してくれているようだった。
「い、依頼って……もう受けるの?」
「当たり前だろ!冒険者になったんだから、まずは稼がないと!」
ソウマの言葉は正しい。
私は今お金がない。
宿代も食事代も、これからは自分たちで稼がなければならない。
私はカードを握りしめ、深呼吸をした。
――冒険者としての最初の一歩。
胸の奥が少しだけ震えた。
ギルドの中央には、巨大な掲示板があった。
木製の板に、無数の依頼書が貼られている。
魔物討伐、護衛、素材採取、荷物運び……冒険者の仕事は本当に多種多様だった。
「ここが依頼掲示板だ。冒険者はここから仕事を選ぶんだ」
ソウマが説明してくれる。
私はその言葉を聞きながら、掲示板を見上げた。
依頼書にはそれぞれ難易度が書かれている。
Fランク、Eランク、Dランク……
私たちは登録したばかりだから、当然Fランクしか受けられない。
「討伐系は……やめとこうか」
ソウマが言った。
「えっと……どうして?」
「ノエルは回復魔法が使えるけど、俺はまだ剣術Ⅲを試したことがないし……武器や防具も無い。いきなり魔物討伐は危険だ」
その言葉に、私はほっとした。
正直、魔物と戦うのは怖い。
まだ自分の力がどれほどのものなのかも分からない。
「だから……採取系がいいな」
ソウマが指差した依頼書には、こう書かれていた。
『薬草採取:指定された薬草を10束。報酬:銀貨1枚』
「これなら安全だし、初心者向けだ。当面の生活費を稼ぐにはちょうどいいと思う」
「……うん。これなら、私にもできそう」
そう言いながらも、私は掲示板の別の依頼に目を向けた。
『荷物運びの手伝い:商人の倉庫から市場まで。報酬:大銅貨5枚』
『店の掃除:半日作業。報酬:大銅貨7枚』
「……お手伝い系の依頼もあるんだね」
「ん?ああ、あるな。でも報酬はちょっと低いし……」
ソウマはあまり興味がなさそうに肩をすくめた。
私は依頼書を見比べながら、胸の奥の不安を言葉にした。
「採取系って……森に入るんだよね?魔物はほとんど出ないって言ってたけど……本当に大丈夫かな」
「大丈夫だって!北の森は初心者向けだし、危険な魔物は出ないって受付の人も言ってたし」
ソウマは勢いよく言う。でも、私はまだ迷っていた。
「お手伝い系なら、街の中でできるし……危険はないよね。荷物運びとか掃除とか……そういうのでも、少しは稼げるし」
「まぁ、そうだけど……」
ソウマは腕を組んで唸った。
「でもさ、ノエルは回復魔法が使えるんだぞ?森に行って薬草採るくらいなら、危険はほぼゼロだし……冒険者っぽい仕事をした方が、経験になると思うんだ」
「……経験」
その言葉に、胸の奥が少し揺れた。
確かに、冒険者になったのだから、冒険者らしい仕事をしたい。
でも、慎重に選びたい気持ちもある。
私は依頼書を見つめながら、そっと言った。
「……ソウマは、どっちがいいと思う?」
「俺は採取系かな。森に行くって言っても、街からすぐだし、危険もほぼないし……何より、報酬がちょっと高い」
「……そっか」
私は依頼書を握りしめ、決意を込めて頷いた。
「……うん。じゃあ、薬草採取にしよう」
「よし、決まり!」
ソウマは嬉しそうに笑った。
こうして私たちは、初めての依頼――薬草採取を選んだ。薬草を採るだけなら、戦わなくていい。
森に入るのは少し怖いけれど、ソウマが一緒なら大丈夫だと思えた。
ソウマが依頼書を剥がし、受付へ持っていく。
受付の女性は優しく微笑んだ。
「薬草採取ですね。初心者の方にはぴったりの依頼ですよ」
「はい!俺たち、今日登録したばかりだからあまり無理はしない様にしようって相談したんです!」
ソウマが胸を張って言う。
私は少し恥ずかしくて、カードを握りしめたまま小さく頷いた。
「薬草は街の北にある小さな森で採れます。魔物はほとんど出ませんが、念のため気をつけてくださいね」
「はい!」
依頼書に印が押され、正式に受注が完了した。
――これが、冒険者としての初仕事。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
受付を離れながら、ソウマが説明してくれた。
「ギルドはさ、冒険者の仕事を仲介する場所なんだ。依頼人から仕事を受けて、冒険者に渡す。報酬はギルドが管理して、依頼達成後に受け取る仕組みだ」
「へぇ……」
「依頼の難易度はランクで決まってて、俺たちはFランクだから簡単な仕事しかできない。でも、依頼をこなしていけばランクが上がって、もっと大きな仕事ができるようになるんだ」
「ランクが上がると……どうなるの?」
「稼げるし、強い魔物とも戦えるし、街の人からの信頼も上がる。冒険者としての“格”が上がるってことだな!」
ソウマは楽しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、私も自然と胸が高鳴った。
――私も、強くなれるのかな。
――私も、誰かの役に立てるのかな。
そんな思いが胸の奥で静かに揺れた。
依頼書を受け取り、受付を離れようとしたときだった。
ソウマが勢いよく振り返る。
「よし、薬草採りに行こう!北の森はすぐだ!」
その背中を追いかけようとして――私はふと足を止めた。
「……あの、ソウマ」
「ん?どうした?」
私は依頼書を見つめながら、胸の奥の不安を言葉にした。
「薬草って……どんな形なんだろう。葉っぱの形とか、色とか……間違えたら、依頼達成できないよね?」
ソウマは一瞬ぽかんとした顔になった。
「……あっ」
その反応で、ソウマがまったく考えていなかったことが分かった。
「そ、そうだよな!薬草ってどれがどれだか分かんないよな!俺、てっきり“森に行けばなんとかなる”って思ってた……」
私は小さく笑った。
「うん……だから、受付の人に聞いておいた方がいいと思って」
「ノエル、すげぇ……!そういうの、ちゃんと考えられるんだな!」
ソウマは感心したように目を丸くした。その視線が少し恥ずかしくて、私は依頼書を胸に抱えた。
「だって……初めての依頼だし、失敗したくないから」
「よし、聞きに行こう!」
ソウマはすぐに受付へ戻り、私はその後ろに続いた。
受付の女性は、私たちが戻ってきたのを見ると微笑んだ。
「どうしましたか?」
私は依頼書を差し出しながら尋ねた。
「この薬草……どんな形をしているんですか?葉っぱの色とか、採るときの注意とか……教えていただけますか?」
女性は少し驚いたように目を瞬いたあと、嬉しそうに頷いた。
「もちろんです。初心者の方でそこまで確認してくださるのは珍しいですよ。大抵は森へ行ってから気付く人が多いから」
ソウマが横で照れくさそうに頭をかいた。
「ノエルが気づいたんです。俺、全然考えてなくて……」
受付の女性は優しく笑い、薬草の特徴を丁寧に説明してくれた。
「この薬草は“ミルラ草”といって、葉が三枚に分かれていて、縁が少し白くなっています。根元が赤みを帯びているものが新鮮で、薬になるんですよ。
似た草も多いので、葉の縁の白さをよく見てくださいね」
私は真剣に聞きながら、依頼書の裏に特徴を書き込んだ。
「ありがとうございます。助かりました」
「いえいえ。気をつけて行ってくださいね」
受付を離れると、ソウマが感心したように私を見た。
「ノエルって、ほんとすごいよな……!俺、勢いだけで突っ走るところあるから、助かるよ」
「そんな……ただ、心配だっただけだよ」
「でも、その“心配”が大事なんだって!俺たち、いいコンビになれると思う!」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
――私が気づいたことで、役に立てたんだ。
孤児院では一度も感じたことのない感情だった。
ギルドを出ると、ソウマが改めて口を開いた。
「よし、今度こそ薬草採りに行こう!北の森はすぐだ!」
「うん……!」
私は依頼書を握りしめ、ソウマの後を追った。
慎重な私と、勢いのあるソウマ。
その違いが、初めて“良い方向”に働いた気がした。
こうして私たちは、初めての依頼へと向かった。
私はカードを胸に抱きしめ、ソウマの後を追った。
冒険者としての初仕事。
初めての依頼。
初めての“自分の力で稼ぐ”という行為。
胸の奥が少し震えていたけれど――
それは不安ではなく、期待の震えだった。
こうして私たちは、初めての依頼へと向かった。




