第1話
ソウマと別れてから、私はただ走り続けた。
院長と領主から逃げるために山を越え、森を抜け、街道をひたすら歩き、時には荷馬車に乗せてもらい、時には港町で働きながら旅費を稼いだ。
――ソウマは必ず来る。
その言葉だけを胸に抱きながら、私は西の大陸を離れ、船に乗って海を渡った。
潮風は冷たく、波の音はどこか寂しげで、夜になると甲板の上で星を見上げながらソウマの声を思い出した。
「絶対に迎えに行くから」
その言葉が、私を前へ進ませた。
そして――
海の向こうに、霧のように浮かぶ島影が見えた。
極東の島国──ヤンミル。
独自の文化を持ち、大陸とは違う言語と風習を持つ国。
冒険者ギルドに属さず、自前のギルド組織を持つという噂を聞いていた。
私はその国へ、逃げ込むようにしてたどり着いた。
港町ヤンミル・カンナ。
石畳の道と木造の建物が並び、大陸とは違う香辛料の匂いが風に乗って漂ってくる。
人々の服装も独特で、腰に布を巻き、肩に軽い羽織をかけている者が多い。
そして何より――
言葉が通じない。
「……あの、宿はどこですか?」
私は港で荷物を運んでいた男性に声をかけた。
しかし男性は首を傾げ、聞き慣れない言語で何かを返してきた。
「ヤンミル語……」
共通語はほとんど通じない。
少しだけ理解してくれる人もいるけれど、会話として成立するほどではなかった。
私は不安を抱えながら、
港町を歩き続けた。
――この国で、本当に生きていけるのかな。
そんな不安が胸を締めつける。
港町の中心に、大きな木造の建物があった。
屋根は反り返り、入口には剣?と二本の旗が掲げられている。
もしかしてヤンミルの冒険者ギルドかもしれないと思い、向かった。
武士団ギルド。
ヤンミル独自の冒険者組織。大陸のギルドとは違い、武士団は“武士”と呼ばれる戦士たちが中心となって運営している。
私は恐る恐る中へ入った。
受付には、黒髪を高く結い上げた女性が座っていた。
その女性は、私を見ると柔らかく微笑んだ。
「旅の方ですね?武士団への登録をご希望ですか?」
――通じた。
私は驚いて目を見開いた。
「共通語……話せるんですか?」
女性は頷いた。
「はい。私は“共通語”の読み書きと会話ができます。ヤンミルでは珍しいですが、旅人の対応のために習いました」
胸の奥がじんわりと温かくなる。
――よかった。
――話せる人がいた。
女性は書類を取り出し、丁寧に説明してくれた。
「武士団は大陸のギルドとは違い、階級は“段位”で表されます。まずは見習いの“八級”からですね」
「八級……」
「依頼は討伐、採取、護衛など様々です。ただしヤンミルでは、冒険者は基本的に“単独行動”が推奨されています」
私は息を呑んだ。
「単独……?」
「はい。武士団は“己の力で道を切り開く”ことを重んじます。もちろん危険な依頼は複数人で行いますが、基本はソロです」
ソウマと別れてから、私はずっと一人だった。
だからこそ、この国の方針はむしろ都合が良かった。
「……登録します」
女性は微笑んだ。
「では、こちらへどうぞ。ノエルさんですね。今日からあなたは武士団の一員です」
私は新しいギルドカード──いや、“段位札”を受け取った。
そこには、 八級:ノエル と刻まれていた。
ヤンミルでの生活は、大陸とはまったく違った。
依頼は紙ではなく木札で渡され、報酬は銅貨ではなく“銭”と呼ばれる独自の貨幣。
依頼を受けるときは、武士団の道場で軽い訓練を受ける必要がある。
そして何より――
ソロでの活動が基本。
私は森で薬草を採取したり、街道で魔物を追い払ったり、時には村の護衛をしたりして過ごした。
誰も私を売ろうとしない。誰も私を捕まえようとしない。
ソウマの声が胸の奥で響く。
「絶対に迎えに行くから」
その言葉を信じながら、私はヤンミルで静かに力を蓄えていった。
――ソウマが来たとき、胸を張って会えるように。
――もう誰にも奪われないように。
私は剣術の訓練を受け、回復魔法の精度を上げ、少しずつ強くなっていった。
ヤンミルの空は青く、風はどこか懐かしい匂いがした。
新しい地で、私はひとりの冒険者として歩き始めた。
そして、二年の月日が経過した。
ヤンミルに来てから、気づけば二年が経っていた。
初めてこの国に降り立ったとき、私は言葉も分からず、文化も知らず、ただ逃げてきたという事実だけを抱えていた。
でも――二年という時間は、私を少しずつ変えていった。
朝は道場で素振りをし、昼は依頼をこなし、夜はヤンミル語の勉強をした。
最初は単語を覚えるだけで精一杯だったけれど、今では日常会話なら問題なく話せる。
「ノエル、今日も稽古か?」
「うん。今日の依頼は午後からだから」
武士団の仲間たちと、こうして普通に会話ができるようになった。
それが嬉しくて、胸の奥が少しだけ温かくなる。
ヤンミル語は難しい。
抑揚が強く、語尾が変化し、同じ単語でも使い方によって意味が変わる。
最初は何度も間違えて、道場の師範代に笑われた。
「ノエル、その言い方だと“魚が踊る”って意味になるぞ」
「えっ!?“剣を振る”って言ったつもりだったのに……!」
そんなやり取りを何度も繰り返し、少しずつ言葉が体に馴染んでいった。
今では――
「師範、今日も稽古をお願いします」
「おう、ノエル。発音が良くなったな」
褒められることも増えた。
異国の言葉が、自分の声として自然に出てくるようになった。
それは、この国で生きている実感でもあった。
二年の間に、私は武士団の段位試験を受けた。
試験は厳しい。
木刀での型の披露、魔物の討伐、礼節の試験、そして精神力を測る瞑想。
大陸のギルドとは違い、武士団は“心の強さ”を重んじる。
「ノエル、心が揺れれば剣も揺れるぞ」
師範代の言葉は、いつも胸に響いた。
私は必死に稽古を続け、何度も失敗し、何度も立ち上がった。
そして――
初段の段位札を授かった。
段位札は木でできていて、中央に“初段”の文字が刻まれている。
それを受け取った瞬間、胸の奥が熱くなった。
「ノエル、よく頑張ったな」
「うん……ありがとう……!」
初段はまだ見習いだけれど、武士団の正式な一員として認められた証。
私はようやく、この国で“自分の居場所”を手に入れた。
ヤンミルの生活は、大陸とはまったく違う。
朝は道場で素振りをし、木刀を振る音が街のあちこちから聞こえる。
昼は依頼をこなし、森で薬草を採取したり、街道で魔物を追い払ったりする。
夕方になると、街の鐘楼が鳴り、人々が一斉に頭を下げる。
「礼」の文化。心を整えるための習慣。私はその習慣が好きだった。
夜は灯籠の柔らかい光が街を照らし、風が静かに吹き抜ける。
その風はどこか懐かしく、胸の奥を優しく撫でてくれる。
――ソウマは必ず来る。
その言葉を信じながら、私はこの国で強くなっていった。
二年前の私は、ただ逃げてきた少女だった。
誰かに守られなければ生きられないと思っていた。自分の力なんて何もないと思っていた。
でも今は――
ヤンミル語を話せる。武士団の初段として認められている。依頼を一人でこなせる。剣術も回復魔法も上達した。
そして何より――
自分の人生を、自分で選べるようになった。
ソウマが言ってくれた言葉。
「ノエルは自分で選べる人だ」
その言葉が、今の私を支えている。
私はもう、誰かに売られるための“商品”じゃない。
私は――ヤンミルのもののふ、ノエルだ。
段位札を腰に下げ、道場の前に立ったときだった。
海から吹く風が、どこか懐かしい匂いを運んできた。
胸の奥が静かに震える。
――ソウマ。
私は空を見上げた。
二年前のあの日、つり橋の向こうで叫んでくれた声。その声は、今でも私の中で生きている。
私は深く息を吸い、段位札にそっと触れた。
「ソウマ……私、強くなったよ」
風が優しく吹き抜けた。
新しい物語が、静かに動き始めていた。




