第6話 目覚め
「直人。おい、直人!」
遠くから、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
直人は浅く息を吸い、ゆっくりと目を開けた。
ぼやけた視界の中に、相希の顔が浮かんでいる。
「聞こえるか?」
頬に触れる砂のざらつきと、静かに寄せては返す波の音。
直人は何度か瞬きをしてから、かすれた声を出した。
「……相希?」
「ああ」
相希が安堵したように息を吐いた。
直人は砂の上へ両手をつき、ゆっくりと身体を起こした。
濡れた服が肌に張り付き、身体はひどく重い。
「ゆっくりでいい。どこか痛むか?」
相希に言われ、直人は自分の背中や肩へ手を当てた。
船内で壁へ叩きつけられた感覚は、はっきりと覚えている。
海へ落ちる直前にも、身体のあちこちを強く打ったはずだった。
それでも、痛みはなかった。
手足も問題なく動く。
「……何ともない」
「本当に?」
「ああ。お前は?」
「俺もだ」
相希はそう答えると、自分の脇腹へ手を添えた。
「手すりに叩きつけられたはずなんだけどな」
二人はしばらく、互いの身体を見つめた。
あれだけの衝撃を受け、海へ投げ出された。
それなのに、二人とも傷一つ負っていなかった。
直人は砂の上に座ったまま、ゆっくりと周囲を見回した。
目の前には、穏やかな海が広がっている。
左右には白い砂浜が長く伸び、その先は緩やかに曲がって見えなくなっていた。
背後には、木々が密集している。
建物も、道路も、人の姿も見当たらない。
「ここ、どこだ?」
直人が尋ねると、相希は海岸線の先へ目を向けた。
「分からない」
「船は?」
「見当たらない。残骸もないし、他の乗客も見てない」
直人は水平線へ目を凝らした。
海面には何も浮かんでいない。
あれほど大きな船が沈んだのなら、何かしら残っていてもおかしくないはずだった。
「俺たち、どうやってここまで来たんだろうな」
「それも分からない」
相希はそう答えると、自分の背中からアウトドア用のリュックを下ろした。
海水を吸って重くなっていたが、形は崩れていない。
直人もそこで初めて、自分の肩から救急バッグが掛かったままであることに気づいた。
「それ、救護室にあったやつだよな」
「ああ」
直人は濡れたバッグへ手を添えた。
「怪我人を助けようとして持ったところまでは覚えてる」
「中身は?」
「まだ見てない」
「砂の上で開くのはやめよう。中に砂が入る」
相希はそう言って、背後の木々との境目へ目を向けた。
砂浜から少し上がったところに、短い草が生えた平らな場所がある。
二人は濡れた荷物を抱え、そこまで移動した。
草の上へリュックと救急バッグを並べる。
今、手元に残っているのは、相希のリュックと、直人が持ち出した救急バッグだけだった。
相希はリュックのファスナーへ手を掛け、ゆっくりと開いた。
中から、一つずつ道具を取り出していく。
雨具。
ヘッドライトと予備の電池。
金属製のボトル。
小さな調理器具。
ロープ。
折り畳まれたシート。
手袋。
方位磁針。
ナイフやはさみ、小型のノコギリなどが一つにまとめられたマルチツール。
直人は草の上に並んでいく道具を見ながら、思わず相希の顔を見た。
「本当にサバイバルするつもりだったのか?」
「だから、キャンプ用だって言っただろ」
「キャンプ一泊で、こんな七つ道具まで持ってくる?」
「念のためだよ。荷物になるような大きさでもないしな」
相希はそう言いながら、濡れた衣類を脇へ分けた。
リュックの中まで完全に水が入ったわけではないらしく、奥に入っていた物の一部は濡れずに残っていた。
最後に相希は、小さな防水ケースを取り出した。
中には防水マッチと、火花を起こすためのファイアースターターが入っている。
「火は起こせそう?」
直人が尋ねた。
「道具は無事だ。ただ、実際に使えるかは試してみないと分からない」
「でも、何もないよりはずっといいな」
「ああ」
相希は防水ケースを閉じ、ほかの道具と一緒に草の上へ置いた。
相希は並べた道具を一通り確認すると、今度は救急バッグへ目を向けた。
「次はそっちだな」
直人はうなずき、救急バッグを草の上へ置き直した。
肩紐を外し、留め具へ手を掛ける。
船内では開く直前に吹き飛ばされたため、中身がどうなっているのかは分からなかった。
直人がゆっくりとバッグを開く。
中には、包帯やガーゼ、消毒液、医療用のテープ、使い捨ての手袋などが隙間なく詰め込まれていた。
小さなはさみやピンセットのほか、箱に入った薬もいくつかある。
一部は濡れていたが、個別に包装されたものの多くは形を保っていた。
「思ったより残ってるな」
直人が言うと、相希は薬の箱を手に取り、表示を確認した。
「痛み止めと解熱剤。あとは抗生物質らしいものもある」
「使える?」
「薬は種類も量も限られてる。必要になるまで、むやみに使わない方がいい」
相希は確認したものを、濡れている物と無事な物に分けていく。
「これだけあれば、怪我をしても何とかなるか?」
「軽い傷ならな。大きな怪我や病気まで治せるわけじゃない」
「まあ、ないよりは全然いいか」
直人はバッグの中を見つめた。
包帯や薬を目にすると、船内で助けようとした男の姿が頭に浮かんだ。
「……あの人、どうなったんだろうな」
相希の手が止まった。
「分からない」
「戻るって言ってたのにな」
「戻る前に、海へ落ちたからな」
相希は短く答えると、薬を元の箱へ戻した。
直人も、それ以上は何も言わなかった。
考えても答えは出ない。
二人は使えそうな物を確認し終えると、濡れた衣類や道具を草の上へ広げた。
空は明るく、日差しもある。
このまま置いておけば、少しは乾くだろう。
相希はズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。
海水に浸かった端末の画面は暗く、電源ボタンを押しても反応しない。
直人も自分のスマートフォンを取り出したが、結果は同じだった。
「もう一台あるぞ」
直人は反対側のポケットから、仕事用のスマートフォンを取り出した。
相希が少し驚いたように目を向ける。
「二台とも持ってたのか」
「仕事の連絡が入るかもしれないからな」
「一週間の旅行中まで?」
「営業は、いつ連絡が来るか分からないんだよ」
直人は電源ボタンを押した。
一瞬だけ画面に光が灯ったが、すぐに消えてしまった。
「惜しい」
「電池か、内部に水が入ってる。しばらく触らない方がいい」
相希は三台のスマートフォンを、直射日光の当たらない草の上へ並べた。
通信手段は使えない。
現在地も調べられない。
二人は改めて周囲を見回した。
目の前には穏やかな海。
左右へ続く砂浜。
背後には、奥の見えない木々が広がっている。
「無人島なのかな」
直人が呟いた。
「まだ決めつけるのは早い」
「でも、建物も人も見えないぞ」
「海岸の一部を見ただけだ。島かどうかも分からないし、少し離れた場所に町があるかもしれない」
「じゃあ、探しに行くか?」
直人が立ち上がろうとすると、相希が手で制した。
「その前に、今夜休める場所を決めよう」
「こういう時って、まず最初に水分確保じゃないの?」
「水も必要だ。でも、当てもなく探し回って、日が暮れてから寝床を探す方が危険だ」
相希は太陽の位置を確かめるように空を見上げた。
「まず拠点を決めよう。荷物をそこへ移してから、周辺を探す」
「なるほど。帰る場所を先に作っておくってことね」
「ああ。海岸から見える範囲なら、船や人が来た時にも気づきやすい」
相希は背後の木々と、砂浜の両端を順番に見渡した。
「ただし、波打ち際は避ける。潮が満ちた時に、どこまで海水が来るか分からない」
直人も砂浜へ目を向けた。
波から離れた場所には、流木や枯れ草が帯のように積み重なっている。
「この辺まで波が来るってことか?」
「おそらくな。それより高くて、雨風を避けられる場所がいい」
二人は乾かしていた道具をリュックと救急バッグへ戻した。
まだ濡れている衣類だけは広げたままにし、周囲から見えるよう、草地の中央へまとめて置く。
「服は残していくのか?」
「とりあえずな。まずは、この近くを見て回るだけだ」
直人は救急バッグを再び肩から掛けた。
相希もリュックを背負い、木々に沿って視線を巡らせる。
砂浜から二、三十メートルほど奥まった場所に、大きな岩が見えた。
岩の下には影があり、一部が張り出しているように見える。
「相希、あそこは?」
直人が指を差した。
相希はしばらく岩の形と周囲の地面を観察した。
「行ってみて確認しよう」
二人は草地を離れ、岩の方へ歩き始めた。




