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はじまりの岸  作者: インフィ
集団生活編

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第58話 光の下



翌朝、拠点には肉を燻す煙が漂っていた。

火から少し離れた場所へ縄が張られ、細く切られた肉が並んでいる。

夜の間にも何度か向きを変えたらしく、表面は昨日より濃い色へ変わっていた。


直人が起きた時には、すでに何人もの者が動いていた。


水を運ぶ者。

薪を割る者。

罠の見回りへ持っていく道具を確かめる者。


火の近くでは、残った肉を今日食べる分と、さらに保存する分へ分けている。


直人は肉のそばへ向かった。



「何か手伝う?」



肉を並べていた男が顔を上げる。



「こっちは足りてる。水を運ぶ方が、あと一人欲しいって言ってた」


「分かった」



直人はそのまま水の容器が置かれている場所へ向かった。

誰に聞くこともなく仕事が決まり、直人が加わらなくても肉の処理は進んでいく。


少し離れた場所では、切り分けた肉が地面へ並べられていた。

同じくらいの量になるよう、一つずつ分けている。

一人の女性が、その中から厚い肉を持ち上げた。



「これは、まだこっちじゃない?」



煙へ掛ける肉の方へ移そうとする。

向かいにいた男が手元を見る。



「それ、そっちへ持っていくのか?」


「厚いままだと傷みやすいから」


「でも、こっちの分だろ」



女性の手が止まった。

周囲にいた者たちも、二人を見る。



「切ってから戻すよ」


「なら、いいけど」



男はそれ以上言わなかった。

女性も肉を持ったまま、火の近くへ向かう。


誰も争っていない。

分け方を変えたわけでもない。


それでも、女性が肉を戻すまで、男は何度もそちらを見ていた。

昼になると、焼いた肉が全員へ配られた。


前に獣を捕らえた時と同じように、火の近くへいくつもの輪ができる。

笑い声も聞こえた。

久しぶりの肉を喜び、次はいつ捕らえられるかを話す者もいる。


だが、幼体を逃がすかどうかで同じ側に立っていた者たちが、今は別々の輪へ座っていた。

あの時、反対の意見を口にした者同士が、同じ作業をしている場所もある。


男の未遂を巡って、考え方がさらに分かれた。


誰が誰を庇ったのか。

誰が女性の側へ立ったのか。

男を残すべきだったのか。


一つの出来事で同じ意見を持っていても、次の出来事で同じ側に立つとは限らなかった。


以前は、誰と誰の考えが違うのか見えていた。

今は、一人の中にも複数の考えがあり、どこまで同じなのか分からない。


直人が肉を持って火の近くを歩く。

空いている場所は、いくつもあった。


一つの輪に近づくと、座っていた者が少し身体をずらす。



「ここ、座る?」


「うん。ありがとう」



直人が腰を下ろす。

それまで交わされていた会話は、少しだけ途切れた。



「何の話してたの?」


「別に。肉があと何日もつかって話」


「そっか」



直人が肉を口へ運ぶと、会話は再び始まった。

だが、先ほどと同じ話なのかは分からなかった。

肉が増えたことで、腹を空かせる心配は少し遠ざかった。


火の周りには、以前より多くの笑い声がある。

明るくなったはずの場所で、人と人の間にできた距離も、前よりよく見えるようになっていた。


その日の夜。


直人は、持ち帰った灰色の欠片を布の上へ置いた。

火から少し離れた場所に、相希と紗良も座っている。


欠片の表面には細かなひびが入り、崩れた断面から小石が覗いていた。

直人はしばらくそれを見たあと、口を開いた。



「これさ」



相希と紗良が直人を見る。



「やっぱり、近くに人がいるってことじゃない?」



相希は欠片へ目を落とした。



「人がいたことは分かる」


「今はいないってこと?」


「そこまでは言ってない。今もいるかどうかは分からない」


「でも、コンクリートを造れるなら、それなりの道具があったってことだろ?」


「ああ」


「だったら、これだけってことはないよな。建物とか、道路とか、ほかにも造ってるはずじゃん」


「建物の一部である可能性はある。道路とは限らない。土台や壁かもしれない」


「でも、道路の可能性もあるんだろ?」


「否定はできない」



直人は少し身を乗り出した。



「じゃあ、あの先に行けば道が残ってるかもしれない。道があれば、どこかへ続いてる」



相希は何も言わなかった。

直人の言葉を止めず、その先を待つ。



「俺たちが見つけられなかっただけで、案外すぐ近くに建物があるとかさ。森を抜けたら町が見えるとか」



直人は自分で話しながら、少し笑った。



「灯台下暗しってやつ」


「今も使われている道や建物なら、人が通った跡も残ると思う」



相希が言った。



「周囲に道らしいものはなかった。煙や明かりも見ていない」


「木に隠れてるだけかもしれないだろ」


「その可能性もある」


「だよな」



直人は、すぐに次の考えへ移った。



「でも、ここが日本なら変じゃないか?」


「何が?」


「だって、日本ってどこへ行っても道くらいあるだろ。山の中だって電線とか看板とかあるし。ここまで何も見つからないなんて、おかしいじゃん」


「日本にも、人がほとんど入らない山や離島はある」


「それでも、コンクリートがある場所なら、近くに何かあるだろ?」


「そうかもしれない。ただ、コンクリートがあることだけで、ここが日本ではないとも言えない」



直人が眉を寄せた。



「相希と話してると、全部分からないに戻るな」


「分からないものを、分かったことにはできない」


「それはそうだけどさ」



直人は欠片を指先で動かした。



「もし、この先に町があったら、俺たち戻れるかもしれないよな」



紗良が直人を見る。



「戻るって?」


「普通の生活に」



直人は灰色の欠片を見たまま答えた。



「人がいる場所まで行けたら、警察でも何でも頼れる。家に連絡できるかもしれない。船が沈んでから何があったのかも分かる」



火の中で、薪が小さく崩れた。



「俺たちが、見つけてもらえてないだけかもしれない」



直人の声は、先ほどより小さくなっていた。

相希はすぐには答えなかった。



「その可能性は、否定できない」



直人が顔を上げる。



「ただ、今のところ、現在の生活へ繋がるものは見つかっていない。あの欠片だけで、近くに町があると考えて動くのは危険だと思う」


「分かってるよ」



直人は欠片から手を離した。



「まだ決めてるわけじゃない。考えてるだけ」


「それならいい」


「相希はどう思う?」


「今あるものだけでは、誰が、いつ、何のために造ったのか判断できない」


「それ以外は?」


「それ以上の材料が必要だと思う」



直人は僅かに肩を落とした。



「夢がないな」


「間違った期待を持たせるよりはいい」


「期待くらいさせてくれてもいいだろ」



二人のやり取りを聞いていた紗良が、灰色の欠片へ手を伸ばした。

持ち上げず、崩れた端へ指先で触れる。



「私、見つけた時に思ったんだけど」



直人と相希が紗良を見る。



「これ、木が倒れてなかったら、たぶん誰も見つけられなかったよね」


「ああ」



相希がうなずく。



「ほとんど土の中だった」


「今も誰かが使ってるなら、あんなふうに埋まったままにはしないんじゃない?」



直人は答えず、欠片を見る。



「道だったら、上を歩くよね。建物だったら、木が生える前に何かすると思う」


「使われなくなってから時間が経っている可能性はある」



相希が答えた。



「造った人たちは、もういないのかな」


「分からない。別の場所へ移っただけかもしれない」


「でも、これだけじゃないよね」



紗良は森の方を見る。



「一つ造れるなら、ほかにも何か造ってると思う。私たちが見つけてないだけで、土の下に残ってるのかもしれない」


「道路も?」



直人が尋ねる。



「それは分からない」



紗良が答えた。

直人が相希を見る。



「相希が二人いる」


「分からないものは分からないでしょ」



紗良は少し笑ったあと、もう一度欠片へ目を落とした。



「でも、誰が造ったのかは知りたい」



その言葉に、直人は何も返さなかった。

相希は、欠片ではなく紗良の横顔を見る。


紗良自身も、口にするまでそこまで考えていたのかは分からなかった。


誰かがいる場所へ戻りたいのか。

もういなくなった誰かの跡を知りたいのか。


二つは似ているようで、同じではない。

三人はそれぞれ別のものを見ながら、同じ灰色の欠片を囲んでいた。


結局、その夜も答えは出なかった。

分かったのは、もう一度あの場所へ行き、その先を見なければ何も増えないということだけだった。


翌日も、共同体の生活は続いた。

保存する肉は少しずつ水分を失い、色を濃くしていく。


罠の見回りも、水場への往復も、決めた通りに行われた。

男の痕跡は見つからなかった。


昼前、直人が薪を運んでいると、一人の男が近づいてきた。



「なあ、あれ、いつ見に行くんだ?」


「あれ?」


「コンクリートだよ。ほかにもあるかもしれないんだろ?」


「まだ決めてないよ」


「でも、調べた方がいいんじゃないか? 人がいるかもしれないなら」



男が離れたあと、今度は別の者が直人へ声を掛けた。



「昨日の話、本当に見に行くのか?」


「まだ決めてない」


「今の生活ができてるのに、わざわざ危ないところへ行く必要はないと思う」


「うん」


「相希は何て言ってる?」



直人は少し間を置いた。



「相希も、まだ分からないって」


「そっか」



その者は、それだけ聞くと離れていった。

調べたい者も、近づきたくない者もいる。


どちらも、自分の考えだけでは決めようとしなかった。


直人がどうするのか。

相希が何と言っているのか。

それを確かめてから、自分の立つ場所を選ぼうとしている。


生活のことなら、もう直人たちを待たない。


水が足りなければ人を動かす。

罠が壊れれば直す。

肉が増えれば、食べる分と残す分を決める。


それでも答えのないものが一つ現れると、視線はまた二人へ戻ってくる。


三日目。


火の近くに吊るされた肉は、持ち運べる固さに近づいていた。

食べ物には、しばらくの余裕がある。


その日の見回りも、直人が起きる前に人が決まっていた。

戸田が道具を確かめ、高瀬が森へ入る者を集める。


黒田は水を運ぶ組と、拠点に残る者の不足を見ていた。

誰か一人がすべてを決めているわけではない。


一つの役割が、別の役割へ繋がっている。

二人がいなくても、共同体は生きていける。


直人には、もうそれを疑う理由がなかった。

一方で、火の周りにできる輪は元へ戻らない。


幼体のことで同じ意見を持っていた者が、今は別々の場所に座っている。

あの時に争った者同士が、今は同じ作業をしている。


協力できないわけではない。

だが、以前のように相手の言葉をそのまま受け取ることもできなくなっていた。


誰かが何かを言えば、その言葉の裏に別の意味を探す。

誰の側に立っているのかを考える。

自分の言葉が、どちらの味方として受け取られるのかを気にする。


人々は、同じ場所で暮らしている。

同じ火を使い、同じ肉を食べている。

それでも、同じ輪へ戻ったわけではなかった。


直人は、自分が答えを出したあとのことを考えた。


人工物を調べると言えば、それに賛成する者が集まる。

調べないと言えば、残ることが正しいものとして扱われる。


どちらを選んでも、直人の言葉が新しい境目になる。

直人が間に立ち続ければ、争いを止めることはできるかもしれない。


だが、そのたびに人々は、自分で決める前に直人を見る。

それは、共同体が続くこととは違う気がした。


日が落ち、人々が一人ずつ寝床へ戻ったあと。

直人は火のそばに残っていた相希へ声を掛けた。



「なあ、あいき」


「何だ」


「相希。俺、ここを出ようと思う」



相希はすぐには答えなかった。



「……あの人工物の先を確かめるためか」


「それもある」



直人は少し迷ってから、続けた。



「俺さ。戻れるなら、戻りたいんだ」


「元いた場所へ?」


「ああ。ここへ来てから、一度も言ってなかったけど……向こうには、待ってる人もいるし」



相希の目が、わずかに細くなる。



「婚約者か」


「……ああ」



直人は短く答え、火へ視線を落とした。



「待ってるかどうかは、分からないけどな。向こうじゃ、もう俺は死んだと思われてるかもしれない。事故からどれくらい経ってるのかも、俺たちがどうなったことになってるのかも分からない」



燃え崩れた薪から、火の粉が一つ浮かんだ。



「でも、俺の中じゃ、まだ何も終わってないんだ」



相希はしばらく黙っていた。



「直人。あの破片から分かるのは、人の手で作られたものだということだけだ。その先に町があるとも、元の場所へ戻る方法があるとも限らない」


「分かってる」


「願っていることと、分かっていることは分けた方がいい」


「ああ。それも分かってる」



直人は膝の上で手を組んだ。



「それでも、見つけたのに見なかったことにはできない。もしかしたらって思いながら、ずっとここにいるのは無理だ」



そこで一度、言葉を切った。



「ただ、それだけで出ていくんじゃない」



直人は、眠り始めた共同体の方を見る。



「あいきも気づいてるだろ。俺たちがいなくても、ここはもう回ってる」



相希は続きを待った。



「俺たちがいない間も、ここは動いてた」



直人は、煙の向こうに吊るされた肉を見る。



「罠に獣が掛かって、皆で仕留めて、運んで、肉にしてた。水も薪も足りてた。明日の仕事だって、俺たちが何も言わなくても決まってる」


「二日動いたことと、この先も続けられることは同じじゃない」


「分かってる」



直人はすぐに答えた。



「失敗もすると思う。肉を駄目にすることもあるだろうし、罠が壊れても直せない時があるかもしれない」


「それでも離れるのか?」


「失敗する前に俺たちが全部答えたら、いつまでも自分たちでできるようにならないだろ」



相希は何も言わなかった。



「肉が捕れて、余裕が戻った。でも、前みたいには戻ってない」



直人は火の周囲にある空いた場所を見る。



「誰と話すか、誰の隣に座るか、何を言ったらどっちの味方だと思われるか。皆、前より気にしてる」


「俺たちが出ても、それはなくならない」


「ああ」



直人はうなずいた。



「なくすために出るんじゃない」


「じゃあ、何のためだ?」


「自分たちで何とかするしかないって分かってもらうためかな」



直人は、うまく言葉を選べないまま続けた。



「俺たちがいると、何か起きるたびに皆こっちを見る。俺たちが答えれば、その答えを正しいことにできる。でも、それで違うと思ったやつは、今度は俺たちと反対の側になる」



火の中で、枝が音を立てて折れた。



「俺たちがいなければ、争わなくなるとは思ってない。たぶん、これからも揉める」


「そうだろうな」


「でも、自分たちで揉めて、自分たちで決めるしかないんだと思う」



相希は、直人の横顔を見る。



「今が、その時だと思うのか?」


「今なら、しばらく食べ物もある。罠も水も、自分たちで回せてる」



直人は、暗くなった拠点を見渡した。



「もっと早かったら、置いていけなかった。もっと遅くなったら、俺たちがいない形を作れなくなる気がする」


「事件から離れたいだけじゃないのか?」



直人はすぐには答えなかった。

火へ目を落とし、少し考える。



「それも、全くないとは言えない」



相希は黙って聞いている。



「俺がここにいたら、また誰かの間に立とうとすると思う。放っておけないから」


「ああ」


「でも、それをずっと続けるのが、ここにいる人たちのためになるとは思えない」



直人は相希を見る。



「だから、今なんだと思う」



相希は、しばらく火を見ていた。


森の中で見つけた人工物。

三人がいなくても続いた生活。


見えなくなった人と人の境目。

どれか一つだけなら、直人はここを離れようとはしなかったのかもしれない。



「相希は、どうする?」



直人が尋ねた。

相希は顔を上げた。



「当たり前のこと聞くなよ」



直人は驚かなかった。

ただ、僅かに肩の力を抜いた。



「いいの?」


「俺も、あれが何なのか確かめたい」



相希は暗い森へ目を向けた。



「ここに残っても、今ある材料以上のことは分からない」


「そっか」


「ああ」



二人の間で、それ以上の確認は必要なかった。


まだ、共同体の誰にも伝えていない。

いつ出るのかも、どこまで進むのかも決まっていない。


それでも、その夜。

直人と相希の間だけで、ここを離れることが決まった。



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