第56話 人の跡
朝、紗良は低く響く音で目を覚ました。
一度途切れたかと思えば、すぐにまた聞こえてくる。
薄く目を開けると、火のそばで直人が横になっていた。
最後の見張りを終えてから眠ったのだろう。
片腕を枕代わりにして、わずかに口を開けている。
紗良はしばらく直人を見たあと、身体を起こした。
「直人、いびきうるさい」
直人は目を閉じたまま、眉だけを動かした。
「起きて最初に言うこと、それ?」
「起きてたの?」
「今ので起きた」
相希は火の中へ細い枝を差し込み、残っていた熾火を起こしていた。
紗良は直人から相希へ視線を移す。
「相希、いつもあのいびきの中で寝てるの?」
「もう慣れた」
「そんなに俺のいびきうるさい?」
「今日は、いつもより大きかったな」
「最後の見張りで疲れてたんだよ」
「短い時間で、ずいぶん深く眠れたんだな」
「褒めてる?」
「事実を言ってる」
紗良が小さく笑った。
直人は不満そうな顔をしながら身体を起こし、首を回した。
「二人とも、俺が見張ってる間は安心して寝てたくせに」
「ありがとう。おかげでよく眠れた」
「紗良は、もう少し申し訳なさそうに言ってくれてもいいんだよ?」
「いびきで起こされた分を引いたら、これくらいかな」
「厳しいな」
直人はそう言いながら笑っていた。
いつもと変わらない直人だった。
けれど紗良の中には、昨夜聞いた言葉が残っていた。
「俺たちがいなかったら、どうなるんだろうな」
あの言葉がなければ、もう少し深く眠れていたかもしれない。
紗良はそれを口にせず、火のそばへ膝を寄せた。
三人は残しておいた食料を分け、水を飲んだ。
食事を終えると、直人が荷物をまとめながら二人を見る。
「昨日話した通り、昼くらいを目安にしよう。そこまで探して見つからなかったら、今日は戻る」
「ああ」
相希は周囲の地形を確かめるように森へ目を向けた。
「今日は昨日より少し森の内側へ入る。ここから斜めに進んで、拠点へ戻る方向へ弧を描くように探そう。帰りは昨日付けた印へ合流できる」
「分かった」
紗良も立ち上がり、服についた土を払った。
火を消し、上から土をかぶせる。
相希が最後に手を近づけ、熱が残っていないことを確かめてから、三人は森へ入った。
朝の森には、まだ夜の冷たさが残っていた。
葉の先についた水滴が、光を受けて揺れている。
先頭を歩く相希が進む方向を決め、その少し後ろを直人と紗良が続いた。
しばらく進むと、直人が両手を口元へ添えた。
「おーい!」
声が木々の間を抜けていく。
三人は足を止め、返事を待った。
遠くで鳥が鳴いた。
風に葉が擦れる。
それ以外の音は聞こえなかった。
「聞こえてたら、返事してくれ!」
もう一度、直人の声が響く。
しばらく待ってから、三人は再び歩き始めた。
昨日探した場所より、地面の起伏が大きい。
木の根が何本も地表へ張り出し、その間には落ち葉が厚く積もっていた。
三人は、折れた枝や沈んだ落ち葉を見つけるたびに足を止めた。
相希が周囲まで確かめる。
だが、その先へ続いているのは、人には狭すぎる隙間か、細い獣道ばかりだった。
昨日は一つ見つけるたびに期待した。
今は、違うと分かれば何も言わず歩き出すことが増えていた。
直人が何度か男の名を呼ぶ。
紗良は木の根元や低い枝の下を覗き、相希は柔らかい地面を選んで跡を探した。
返事はない。
持ち物も、衣服の切れ端も見つからなかった。
時間が経つにつれて、直人が声を掛ける間隔も少しずつ長くなっていった。
諦めたわけではない。
ただ、どこへ声を向ければいいのかすら分からなくなっていた。
やがて木々の間から差し込む光が、朝よりも白くなった。
相希が空を見上げる。
「そろそろ昼になる」
「もうそんな時間か」
直人も立ち止まり、周囲を見る。
昨日から探してきた森が、どれほどの広さなのかは分からない。
それでも三人が見られた範囲は、その中のほんの一部だった。
「あと少しだけ、このまま進もう」
直人が言った。
「そのあとは戻る」
「ああ。少し先まで見たら、昨日の印がある方へ寄せよう」
再び三人は歩き始めた。
ほどなくして、地面は緩やかな下りへ変わった。
太い木が増え、張り出した根が地面を覆っている。
そのうちの一本が途中から倒れ、根元の土を大きく持ち上げていた。
直人と相希は、その横を通り過ぎようとした。
紗良だけが足を止めた。
持ち上がった根の下に、灰色のものが覗いている。
最初は大きな石に見えた。
だが、土の中から出ている一辺だけが、不自然なほど真っすぐだった。
紗良は少しかがみ込む。
「ねえ、これって……何?」
直人と相希が振り返った。
二人も紗良のそばへ寄り、根の下を覗き込む。
「石じゃないの?」
直人が灰色の表面へ触れた。
苔と湿った土を指で払う。
その下から現れた面には細かなひびが入り、ところどころが崩れていた。
断面には、いくつもの小石が混じっている。
直人の手が止まった。
「これ……コンクリート?」
相希がしゃがみ込み、露出している部分を見る。
指先で端をなぞり、周囲の土を少しだけ掻き出した。
「そう見える」
「やっぱり?」
「断定はできない。ただ、小石が同じ材料で固められている。それに、この直線は自然にできたものとは考えにくい」
紗良も土を払った。
灰色の面は、倒木の根元から少し離れたところまで続いている。
ほとんどが崩れているのに、一部だけ平らな形が残っていた。
直人は立ち上がり、周囲を見回した。
「ほかにもあるんじゃないか?」
三人は近くの落ち葉や苔の間へ目を向けた。
灰色の塊も、倒木が地面を持ち上げなければ、そのまま土の下に隠れていたはずだった。
しばらくして、紗良が少し離れた場所で再び足を止める。
「こっちにもある」
木の根と根の間から、灰色の角が僅かに出ていた。
直人が表面の苔を払う。
先ほど見つけたものより小さい。
だが、色も断面もよく似ていた。
「さっきのと繋がってるのかな」
「地中が見えないから分からない。同じものの一部である可能性はある」
相希は二つの灰色を交互に見た。
その間には木が生え、太い根が地面を覆っている。
今の森だけを見ても、そこに何があったのかは想像できなかった。
「建物か何かだったのかな」
紗良が尋ねる。
「それも分からない。道や土台の一部だった可能性もある」
「どのくらい前のものなんだ?」
直人の問いに、相希は崩れた断面を見る。
「見た目だけで年代を決めるのは無理だ。使われている材料や、土の中の水分でも劣化の仕方は変わる」
「じゃあ、何も分からないってこと?」
「少なくとも、誰かがここで何かを造った可能性は高い」
相希は周囲の森へ目を向けた。
「それと、俺たちが持ってきたもの以外で、ここに元からあった人工物を見るのは、これが初めてだと思う」
「あ……」
直人の声が止まった。
船から持ち出したものはあった。
海岸へ流れ着いたものもあった。
だが、地面に造られ、そのまま残っていたものは一つも見ていない。
「俺たち、勝手にここを無人島だと思ってたよな」
「正確には、ここが島なのかどうかも分かってない」
「今、そこからひっくり返す?」
「確認できていないのは事実だ」
「私も、ずっと島だと思ってた」
紗良が言った。
直人は小さくうなずく。
「そう思うよな。人もいない。家も道もない。やっと会えた紗良たちだって、俺たちと同じ船に乗ってた」
「私たちも、ここへ来てから、誰かが暮らしていた跡は見つけてない」
「なのに、これはある」
直人は足元の灰色へ目を落とした。
「これ、誰が作ったんだ?」
「分からない」
「でも、前にここへ人がいたってことだよな?」
「人がいたか、少なくとも人がここを使っていたことになる。ただ、今もどこかにいる証拠にはならない」
誰もすぐには続けなかった。
風が抜け、頭上の葉が揺れる。
紗良は、灰色の塊が沈んでいる土の先を見た。
「人が造ったものなら、ほかにも残ってるんじゃない?」
「そうだよな。これだけってことはないだろ」
直人が辺りを見回す。
相希は、倒木の下に露出した灰色と、もう一つの角を順番に見た。
「壊れたのかもしれない。土に埋もれたのかもしれない。森に覆われて、俺たちが見つけられなかった可能性もある」
「見えてなかっただけ?」
紗良が足元を見る。
今までなら、ただの地面として通り過ぎていた場所だった。
その下に何があるのかなど、考えたこともない。
「そうかもしれない」
相希は答えた。
「これがあるなら、気になるのは、これが何だったのかだけじゃない」
「ほかに何がある?」
「どうして今まで、これ以外の人工物を一つも見つけなかったのかだ」
直人は何も答えなかった。
人がいた痕跡を一つ見つけた。
それは、この場所について知るための答えになるはずだった。
けれど一つ見つけたことで、これまで何もなかったことの方が、初めて不自然に思えた。
相希は近くの木へ目印を残し、帰りに辿れる位置を確かめた。
「今度こそ戻ろう」
「ああ」
直人は答えたあと、倒木の根元に落ちていた小さな欠片を拾い上げた。
「これ、持って帰ってもいいよな?」
相希が欠片を見る。
「元から崩れていたものなら、問題ないと思う」
直人は土を払い、布へ包んで荷物に入れた。
最後にもう一度、男の名を呼ぶ。
返事はなかった。
三人は、昨日付けた印へ向かって歩き始めた。
探していた男の跡は、最後まで見つからなかった。
直人の荷物に加わったのは、いつ、誰が残したのかも分からない、灰色の欠片だった。
行きにはただの森だった場所が、帰りには何かを覆い隠しているように見えた。




