第55話 捜索
拠点を離れてしばらくは、三人とも何度も歩いた道が続いた。
水場へ向かう時に使う道だった。
踏まれた草は倒れ、土の見えている場所には、いくつもの足跡が重なっている。
相希は何度か足を止め、その跡を確かめた。
「分かる?」
紗良が尋ねる。
相希は立ち上がり、首を横へ振った。
「ここは皆が毎日歩いてる。新しい跡だけを見分けるのは難しい」
「やっぱり、水場へ行ったと思う?」
「まずは、そこへ向かった可能性が高いと思う」
直人が前に続く道を見る。
「でも、見つかりたくないなら、いつもの道は使わないんじゃない?」
「その可能性もある。ただ、一人で森を歩いた経験はほとんどない。最初から知らない方向へ入るより、水を確保できる場所までは知っている道を使う方が動きやすい」
相希は、道の両側へ目を向けた。
「途中で外れた跡がないか見ながら進もう」
三人は、それまでより歩く速度を落とした。
直人が先を見て、相希が地面を確かめる。
紗良は、二人が見落とした場所がないか探すように、道の両側へ何度も顔を向けた。
時折、直人が男の名を呼ぶ。
返事はない。
聞こえるのは、木々の上で揺れる葉の音と、遠くから届く鳥の声だけだった。
水場へ着いても、男の姿はなかった。
直人は上流と下流を見渡し、もう一度、大きな声で名を呼んだ。
声は水の音へ重なり、そのまま森の中へ消えていく。
相希は水際へしゃがみ、湿った地面を調べた。
足の形に見える窪みはいくつもある。
昨日、水を運んだ者が残したものかもしれない。
夜のうちに男が通ったものかもしれない。
崩れた土だけでは、どちらとも決められなかった。
「ここで水を汲んだかどうかも分からない?」
「分からない。容器を置いたように見える跡はあるけど、前からあった可能性もある」
相希は立ち上がり、流れの向こう側を見る。
「ここから先は、互いの姿が見える範囲で少し広がって探した方がいいと思う」
「川の向こうも?」
「渡った可能性はある。ただ、最初から範囲を広げすぎると、どこも確かめきれなくなる」
まずは、こちら側から探すことにした。
三人は互いの姿と声が届く距離を保ち、水場の周囲を歩いた。
直人が低い草を分ける。
相希は土が露出した場所を見つけるたびに立ち止まる。
紗良は少し遅れて二人の後を追いながら、木の根元や枝の間へ目を向けていた。
「ねえ」
紗良の声に、二人が振り返る。
「ここ、誰か通ったように見えない?」
紗良が示した先で、低い枝が一本だけ折れていた。
完全には落ちず、裂けた部分を残して下へ垂れている。
相希が近づき、折れた箇所を見る。
「折れてから、それほど時間は経ってないと思う」
「あの男かな?」
「まだ分からない。獣が通っても折れる高さだと思う」
直人は、その先に続く木々を見る。
「でも、今あるのはこれだけだよね」
「そうだな」
「なら、一度こっちを見てみようよ」
相希もうなずいた。
「何もない方向へ進むよりはいいと思う」
三人は水場から離れ、折れた枝の先へ進んだ。
しばらくは、誰かが通ったようにも見える隙間が続いた。
だが、足跡は見つからない。
衣服の一部も、持ち物も落ちていない。
枝を越えるたび、直人が男の名を呼んだ。
相希も、少し離れた場所を確かめてから戻る。
紗良が見つけた折れた枝が、本当に男の残したものだったのかさえ、次第に分からなくなっていった。
太陽が頭上へ近づいた頃、三人は大きな木の根元で足を止めた。
持ってきた水を飲み、食べ物を少しだけ口にする。
紗良は、水を飲む直人を見た。
「見つけたら、どうするの?」
「どうするって?」
「戻りたくないって言われたら」
直人は容器の口を閉じた。
「まず、話す」
「それでも戻らないって言ったら?」
直人は少し考えた。
「無理に連れて帰ることはできないと思う」
「じゃあ、見つけても置いてくるの?」
「今持ってるものだけじゃ長くはもたない。それはちゃんと伝える」
相希が答えた。
「戻らないなら、その先でどうするつもりなのかも聞いた方がいいと思う」
直人がうなずく。
「それでも残るって決めるなら、最後は本人が決めることだよ」
紗良は手の中の食べ物へ目を落とした。
「あの人は、戻ってきてほしいのかな」
誰のことか、二人にも分かった。
直人はすぐに答えなかった。
「分からない」
少し間を置く。
「でも、生きてるか死んでるかも分からないままよりは、ちゃんと選んだって分かる方がいいと思う」
紗良は小さくうなずいた。
休憩を終えると、三人は再び歩き始めた。
折れた枝の先に、明確な道はなかった。
それでも、水場から大きく離れないように進み、地面と木々の間を探した。
何度、男の名を呼んでも返事はない。
どこかで倒れている姿も、こちらを避けて息を潜めている姿も見つからなかった。
森の中へ差し込む光が傾き始めた頃、相希が足を止めた。
「今日は、この辺りまでにした方がいいと思う」
直人が空を見る。
「まだ明るいよ」
「探すことはできる。ただ、進んだ分だけ、暗くなってから寝る場所と薪を探すことになる」
「あと少しだけでも駄目?」
「駄目ではない」
相希は、さらに先の森を見る。
「でも、明日も探すなら、今日のうちに安全に夜を越した方が動けると思う」
紗良も空を見上げた。
「明日の朝、ここから続ければいいよ」
直人はしばらく先を見ていた。
もう一度だけ男の名を呼ぶ。
返事がないことを確かめるように息を吐き、二人へ向き直った。
「分かった。場所探そう」
三人は水の流れる音が僅かに届くところまで戻った。
相希は、地面の傾きと周囲の木を確かめる。
水際に近すぎず、獣が通った跡もない。
風を強く受けず、三人が身体を横にできるだけの広さがある場所を選んだ。
直人が太い枝を集める。
紗良は地面の石を除き、乾いた葉と細い枝を集めた。
相希は持ってきた布と縄を木の間へ渡し、夜露を避けられる形を作っていく。
「二人とも、前もこうやって泊まったの?」
紗良が尋ねる。
「あの時は、こんなに準備できてなかったけどね」
直人が枝を抱えたまま答えた。
「場所を選べるだけ、今回は余裕がある」
「私、ちゃんと役に立ってる?」
「俺より細い枝見つけるのうまいよ」
「それ、褒めてる?」
「すごく褒めてる」
三人が動くうちに、夜を越す場所が少しずつ形になった。
森には、まだ僅かに明るさが残っている。
相希は周囲の草木を見渡した。
「暗くなる前に、食べられるものも探しておこうと思う」
「この辺にもあるの?」
「黒田さんに教えてもらったものと、同じ条件なら、いくつかあると思う」
相希は二人の声が届く範囲を歩き、葉の形や茎の色を確かめていった。
黒田から教わったのは、食べられるものの形だけではない。
生えている場所や葉の匂い、似たものと見分ける時に確かめる箇所まで、相希は何度も一緒に採りながら覚えていた。
知識の中にある植物と似ていても、この森で同じものとは限らない。
黒田に教わり、実際に食べても問題がなかったものだけを、教わった順番で見分けていく。
紗良も相希の後ろを歩く。
「これは?」
足元に生えていた葉を指す。
「それは採らない方がいい」
「似たの、拠点で食べてなかった?」
「似てるけど、茎の色が違う。黒田さんも、そこが違うものは避けた方がいいって言ってた」
紗良は伸ばしかけた手を戻した。
少し離れた倒木の陰には、小さなキノコが固まって生えていた。
相希は傘の裏と柄を順番に見て、そのうちのいくつかだけを採る。
「全部じゃないの?」
「隣の小さいものは、傘の裏が違う。同じ場所に生えていても、同じものとは限らない」
直人が太い枝を抱えて戻ってきた。
「食えるものあった?」
「少し。これだけで三人分にはならないから、持ってきたものと一緒に食べよう」
「黒田さんに教わったやつ?」
「ああ。何度か一緒に採った。生えている場所も、その時と近い」
「だったら、この辺の森なら、拠点から離れても何も食えないってことはなさそうだな」
「量は多くない。でも、同じ条件を探せれば、最低限を補うことはできると思う」
「温かいものになるなら、それだけで十分」
採った山菜とキノコを水で洗う。
小さな火がつく頃には、森の中の光はほとんど消えていた。
三人は持ってきた鍋へ水を入れ、山菜とキノコへしっかり火を通した。
湯気と一緒に、拠点でも嗅いだ青い匂いが上がる。
火を囲み、残しておいた食べ物と、温かい山菜やキノコを分ける。
紗良は湯気へ息を吹きかけ、汁を一口飲んだ。
「温かい」
直人もキノコを一つ口へ運ぶ。
「拠点で食べてるのと同じだ」
「同じものを選んだ」
「分かってるけど、森で見つけて食べると、ちょっと違うな」
直人はもう一つ手に取り、紗良も今度はキノコを口にした。
拠点で聞こえていた話し声も、作業の音もない。
炎が枝を割る音だけが、三人の間へ落ちていた。
「静かだね」
紗良が言った。
「向こうは今頃、見回りが戻ったくらいかな」
直人が火へ枝を足す。
「出る前に役割は組み直せてた。少なくとも、今日一日で止まる仕事はないと思う」
相希が答えた。
「そっか」
直人は、それ以上聞かなかった。
「明日は、どう探す?」
紗良が尋ねる。
「今日見た範囲の先を、水から離れすぎないように進もうと思う」
相希は火の向こうにある暗闇を見る。
「昼までに何も見つからなければ、そこで戻る。二人とも、それでどう?」
「俺はいいよ」
「私も」
紗良は膝を抱えた。
「近くにいるのに、私たちの声を聞いて隠れてたらどうする?」
「それもあるかもしれない」
直人は否定しなかった。
「でも、呼ばないと出てきたいかどうかも分からないから。明日も同じように探すよ」
三人の会話は、それきり途切れた。
火のそばにいても、日中歩き続けた疲れは隠せない。
夜の火は、三人で順番に見ることにした。
最初は相希、次に紗良、最後を直人が見る。
何かあれば、時間に関係なく二人を起こすことも確かめた。
紗良が先に立ち上がった。
「私、そろそろ横になってもいい?」
「もちろん」
直人が答える。
「何か気になったら、すぐ声掛けて」
「うん。おやすみ」
紗良は布の下へ入り、持ってきたものを枕代わりにして横になった。
背中を火へ向け、目を閉じる。
身体は疲れていた。
それでも、拠点では人の声に紛れていた虫の音や、風で枝が擦れる音が気になり、すぐには眠れなかった。
火のそばでは、直人と相希が小さな声で話している。
「なあ、あいき」
「何だ」
「結衣がああなった時さ」
相希は直人を見る。
直人は火の中の枝を動かしていた。
「みんなで動けて、よかったって思ったんだよ」
「ああ」
「できること探して、足りないもの運んでさ。あの時は、ここに来てよかったって思った」
「俺もそう思う」
直人は枝から手を離した。
「でも、あの辺からかな」
「何が?」
「なんか、少しずつ変わったの」
相希は答えず、直人の言葉を待った。
「肉が取れた時も、みんな喜んでたじゃん」
「ああ」
「俺も嬉しかった。余裕ができたら、もっと楽になると思ってた」
「生活は楽になった」
「うん。でも、楽になったところに、別のものが入ってきたっていうか」
直人は、自分でもうまく言葉にできないまま続けた。
「もっと欲しいとか、誰が決めたとか、誰が悪いとか。そういうの考える余裕もできたんだろうな」
火の中で、細い枝が音を立てて折れた。
「何か起きるたびに、みんな俺たちを見るようになった」
「俺たちも、そのたびに答えた」
「そうなんだよな」
直人は、小さく息を吐いた。
「悪いことしたつもり、ないんだけどな」
「してない」
迷いのない返事に、直人が僅かに笑った。
「即答だな」
「必要だと思ったことをしてきた」
「うん」
直人は、炎の向こうへ目を向けた。
「でも、それだけじゃ駄目だったのかな」
相希は少し間を置いた。
「仕組みにしたつもりだった」
「罠とか?」
「罠も、水も、見回りも。俺たちがいなくても続けられる形にしてきた」
相希は、火へ新しい枝を置いた。
「でも、答えのないことが起きると、みんな俺たちを見る。仕組みの中心から、俺たちを外せていなかった」
「今日もそうだったな」
「ああ」
「俺、行きたいって言っただけなんだけど」
直人が笑う。
今度の笑いには、先ほどよりも疲れが混じっていた。
「残った人たちは、自分たちで役割を組み直してた」
相希が言った。
「じゃあ、大丈夫なのかな」
「今日一日だけでは分からない」
「そっか」
直人は火を見たまま、しばらく黙っていた。
「俺たちがいなかったら、どうなるんだろうな」
相希は、直人の横顔を見る。
その問いは、共同体が回るかどうかだけを尋ねたものには聞こえなかった。
直人はまだ、ここを出るとは言っていない。
自分でも、そこまで決めていないのかもしれない。
それでも相希には、直人が自分たちのいない拠点を、すでに一度は思い浮かべているように見えた。
相希は、その先を尋ねなかった。
直人も、それ以上は話さなかった。
少しして直人も横になり、相希だけが火の前に残った。
横になっている紗良は、二人へ背を向けたまま目を閉じていた。
やがて会話が途切れ、火へ枝が足される音だけが残る。
探していた男の姿は見つからないまま、捜索の一日目は終わった。
けれど紗良は眠りに落ちるまで、火の向こうから聞こえた「俺たちがいなかったら」という直人の言葉を、胸の内から追い出すことができなかった。




