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はじまりの岸  作者: インフィ
集団生活編

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第52話 決まりの外側



翌朝、決めた三日間が始まった。


男の寝床は、昨夜のうちに火から少し離れた場所へ移されていた。


食事の量は変わらない。

仕事から外されることもなかった。

男と女性を同じ作業にしないこと。

拠点の外へ出る時は、一人にしないこと。


決めたのは、それだけだった。


朝の食事を終えると、それぞれが今日の仕事へ散っていく。

女性は黒田と一緒に、水場へ向かう支度をしていた。

以前から二人で動くことはあった。

それでも、その朝は黒田が女性の歩幅を確かめるように隣へ立ち、女性もそこから離れようとしなかった。


ほかの女性たちも、一人では動かなかった。


水を運ぶ者。

食べられるものを探す者。

拠点に残る者。

誰かが立ち上がると、もう一人が自然にその後へ続いた。


昼前、二人の女性が火から少し離れた場所で話していた。

声は小さく、近くにいる者にも内容までは聞こえない。

そこへ、一人の男が縄を取りに来た。

女性たちの声が止まる。



「その横の縄、使っていいか?」



一人がうなずいた。



「うん。大丈夫」



男は束ねられた縄を持ち上げた。

女性たちは何も話さなかった。


男がその場を離れてしばらくすると、背後でまた小さな声が始まった。


振り返る。

二人は男を見ていなかった。


午後にも似たことがあった。

枝を削っていた女性たちの近くへ別の男が道具を返しに行くと、それまで続いていた会話が途切れた。

用事を済ませて離れれば、また声が聞こえ始める。


水を運んでいた二人の女性へ、別の男が手を伸ばした時もそうだった。



「重いだろ。持つよ」


「大丈夫」



返事は、男の手が容器へ届くより早かった。

女性はもう一人と両側を持ち、そのまま歩き出す。


男は上げかけた手を下ろした。

断られたことだけなら、気にするほどのことではなかった。

自分たちで運べると思っただけかもしれない。


だが、少し先で容器が傾くと、女性は近くにいた紗良を呼んだ。

三人で持ち直し、拠点の奥へ運んでいく。


男はその場に残った。

女性たちが何を話していたのかは分からない。

起きたことについて話していたのかもしれない。

ほかの誰かに聞かせたくない話だったのかもしれない。

ただ、近づくたびに会話を止められた側には、その違いは見えなかった。


夕方、最初に縄を取りに行った男が、もう一人へ声を落とした。



「俺たちまで、あいつと同じに見られてるのか?」


「誰もそんなこと言ってないだろ」


「言ってないけどさ」



男は女性たちの方を見る。



「俺が近づいたら、話すのやめたんだよ」


「聞かれたくない話だったんじゃないか?」


「だったら、俺も警戒されてるってことだろ」



返事はなかった。

否定しなかったのか。

何と答えればいいか分からなかったのか。

男は、その沈黙にも自分なりの意味をつけた。


話を聞いていたもう一人が、火へ細い枝を足した。



「俺は、あいつと一緒に見られるのは嫌だな」


「別に仲間だと思われるわけじゃないだろ」


「分からないだろ。残した方がいいって言っただけで、庇ってるみたいに見られてるやつもいるんだから」



誰の名前も出さなかった。

それでも、何人かが高瀬の方を見た。


高瀬は戸田と話していて、その視線には気づいていなかった。


夜の食事でも、決めたことは守られた。

男にも同じだけの食事が渡される。


受け取った男は火の近くへ座った。

その両隣だけが空いたままだった。


遅れて食事を受け取った一人が、その空いた場所へ向かう。

別の男が声を掛けた。



「そこに座るのか?」



足が止まる。



「いや……空いてたから」


「こっちも空いてるぞ」



呼ばれた男は一度だけ男の方を見た。

それから向きを変え、声を掛けた者の隣へ座る。


男は何も言わなかった。

手に持った食事へ視線を落とし、そのまま口へ運んだ。


誰も食事を取り上げていない。

誰も仕事から外していない。


誰も、ここから出ていけとは言っていない。

だが、誰の隣へ座るかまでは決めていなかった。


食事を終えた男が立ち上がる。

空いていた両隣は、男がいなくなるとすぐに埋まった。

そこに座った者たちは、何事もなかったように話し始めた。


二日目の朝、外へ出る組を決め直すことになった。

罠の見回りと、別の場所で使う材料探しを同時に進めるためだった。

男と同じ組に名前を挙げられたのは、話し合いの中で、森へ一人で出すのは違うと言った男だった。



「悪いけど、俺は別の組にしてくれ」



名前を読み上げていた戸田が顔を上げる。



「何かあるのか?」


「そうじゃないけど……ほかの組じゃ駄目なのか?」


「人数を変えるなら、誰かと代わらないと足りない」



男は周囲を見る。

目が合った者はいた。

しかし、代わると言う者はいなかった。



「あの時、森へ出すのは違うって言ってただろ」



誰かが言った。

男の顔がわずかに強張る。



「それと、俺が一緒に行くのは別だ」


「何が別なんだよ」


「俺まで同じに見られたくないんだよ」



言ったあとで、男は口を閉じた。

視線が一度、女性たちの方へ向く。



「だったら、高瀬でいいだろ」



別の者が言った。



「残せって言ったのは高瀬なんだから」



高瀬が眉を寄せる。



「俺は、こいつを庇ったわけじゃない」


「でも、追い出すなって言っただろ」


「追い出すことと、一緒に仕事をすることは別の話だ」


「じゃあ、誰が行くんだよ」



誰も答えなかった。



「もういい」



少し離れたところで聞いていた男が立ち上がった。



「俺一人で行く」


「それだと、昨日決めたことと違う」



相希が言った。

男が相希を見る。



「見張りがいないと駄目か?」


「見張りとして決めたわけじゃない」


「でも、一人じゃ行かせないんだろ」



相希はすぐには答えなかった。



「今は、そうした方がいいと皆で決めた」



男は周囲を見る。


自分を見ている者もいた。

目を逸らす者もいた。



「俺が行く」



高瀬が道具を持ち上げた。



「それなら足りるだろ」



戸田は高瀬と男を見たあと、もう一人の名前を加えた。

誰も反対しなかった。


森へ入ってからも、必要な言葉以外はほとんど交わされなかった。

先頭の高瀬が道を確かめ、男がその後ろを歩く。

最後の一人は、男との間を少し空けていた。


道が細くなると、男は前から回ってきた枝を押さえた。

後ろの一人が通るまで待つ。



「どうぞ」



声を掛けられた男は、枝ではなく脇の木へ手を置いた。

男が押さえている場所を避けるように身体を横へ向け、何も言わずに通り過ぎる。


手を放すと、枝が元の位置へ戻った。

葉が擦れる音だけが、三人の間に残った。


一つ目の罠に異常はなかった。

餌を確かめ、周囲に残る跡を見る。


次の場所へ向かう途中、高瀬が足を止めた。



「少し休むか」



三人は倒れた木の近くへ腰を下ろした。

最後を歩いていた男は水を飲むと、少し離れた場所で周囲を見始めた。


男は高瀬を見た。



「高瀬は、俺が悪いと思ってるのか?」



高瀬は持っていた容器から口を離した。



「悪くないとは言えない」


「じゃあ、結局お前も同じか」


「同じじゃない」



高瀬は容器を地面へ置いた。



「お前がしたことと、お前をここから追い出すことは別だって言ったんだ」


「俺の味方をしたわけじゃないってことか」


「味方とか敵とか、そういう話じゃないだろ」



男は前を向いた。



「……そうか」



それ以上は何も聞かなかった。

高瀬も続けなかった。


休憩を終えると、高瀬が立ち上がった。

男も続く。

最後の一人は、二人が歩き始めてから少し遅れて腰を上げた。


見回りは、何の問題もなく終わった。

男は言われたことをこなし、勝手な行動もしなかった。

それでも帰り道の並びは変わらない。

高瀬が先頭を歩き、男が続き、もう一人が距離を空けて後ろを歩いた。


拠点へ戻ると、火の近くにいた女性たちの声が止まった。

高瀬と、もう一人も一緒だった。

それでも三人の誰かが近づいた瞬間に、声は消えた。


高瀬が女性たちを見る。

一人が小さく頭を下げ、道を空けた。

それだけだった。


高瀬は何も言わず、持ち帰ったものを戸田へ渡した。

最後を歩いていた男は、拠点へ戻るとすぐに二人から離れた。


夕方、直人が男へ声を掛けた。



「明日、罠の方を見るんだけど、一緒に来てくれない?」



男は少し意外そうに直人を見る。



「俺を?」


「うん。材料も少し運びたいから、人手がいるんだよ」


「監視も兼ねてるのか?」


「違うよ」



直人はすぐに答えた。



「普通に手を貸してほしいだけ」


「でも、ほかにも誰か来るんだろ」


「今は、一人で出ないって決めたからね」



男は小さく笑った。

直人には、その笑った理由が分からなかった。



「分かった」



男はそれだけ言い、直人から離れた。


直人は呼び止めなかった。

頼み方を間違えたのかと少し考えたが、ほかにどんな言い方があったのかは分からなかった。

見回りに人手が必要だったことも、複数人で行くと決めたことも本当だった。

どちらかだけを言えば、かえって嘘になる気がした。


二日目の夜。


明日になれば、三日間をどう過ごしたか、もう一度皆で話すことになっていた。

火の近くには、いくつもの輪ができていた。


黒田の隣には女性がいる。

紗良はほかの女性たちと話していた。

戸田と高瀬は、明日の見回りについて話している。

直人と相希は、少し離れた場所で道具を確かめていた。


男は、火の明かりが弱くなる場所に一人で座っていた。


話し合いで男を森へ出すことへ反対した者も、火の近くにいた。

だが、その誰も男の隣にはいない。


追い出してはいけないと言った者はいた。

ここに残ってほしいと言った者はいなかった。


少なくとも、男にはそう見えていた。


直人が道具を置き、男の方を見る。



「そこ、寒くない?」


「平気だ」


「もう少し、こっち来れば?」


「ここでいい」



直人は少しだけ男を見ていた。

無理に呼ぶことはせず、相希の隣へ戻る。


男の前にも、火のそばにも、座れる場所は残っていた。

それでも男には、そのどれもが自分のために空いているようには見えなかった。


夜が深くなるにつれ、一人ずつ寝床へ戻っていく。


男も立ち上がった。

誰かと目を合わせることなく、火から離れた自分の寝床へ向かう。


火のそばには、その夜の火番が残っていた。


男の寝床は、昨夜のうちに火から離れた場所へ移されている。

火番の位置から見えるのは寝床の一部だけで、森に近い側は木々の影と重なっていた。


男が寝床へ着くと、その姿は暗がりに紛れた。

そのあと、朝まで男へ声を掛けた者はいなかった。


三日目の朝。


戸田が、その日の作業を確認するために男を呼んだ。

返事はなかった。

もう一度呼ぶ。

それでも何も聞こえない。


高瀬が、男の寝床へ向かった。

少しして、足を止める。



「いない」



近くにいた者たちが顔を上げた。

寝床にしていた場所には、誰もいなかった。

男が水を入れていた容器と、普段持ち歩いていた道具もいくつかなくなっている。


置き書きはなかった。


黒田が拠点の外を見る。

高瀬も同じ方へ顔を向けた。


いつ出ていったのか。

どこへ向かったのか。

誰にも分からなかった。


三日後にもう一度、話し合うはずだった。

けれど三日目の朝、話し合う相手がいなくなっていた。



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