第51話 答えの代わり
「どういうことだ?」
誰かの声に、別の声が重なった。
「昨日って、何の話だよ」
「あいつが襲ったってことか?」
「いや、そこまでは分からないだろ」
「でも、やめろって言っても離さなかったんだろ?」
「何があったのか、全然見えないんだけど……」
火のそばにいた者たちが、男と女性を交互に見る。
少し離れたところから来た者は、何の話をしているのかも分からないまま、近くにいる者へ尋ねていた。
聞かれた側も、先ほど耳へ入った言葉を繰り返す。
腕を掴んだ。
離してと言われても、離さなかった。
断片だけが、人の間を動き始めていた。
「違う。俺は――」
男が口を開く。
「黙ってろ」
黒田の声が、それを止めた。
男は口を閉じなかった。
「俺にも話させてくれよ。このままじゃ、俺が――」
「一度、順番に話そう」
相希の声は大きくなかった。
それでも、近くにいた何人かが口を閉じる。
まだ話している者もいた。
相希は急かさず、声が少なくなるのを待った。
「もう、何もなかったことにはできないと思う」
男を見る。
次に、紗良の隣にいる女性を見る。
「誰かの想像で話が決まる前に、何があったのか整理した方がいいんじゃないか」
「整理って、何をだよ」
男が尋ねた。
「今、皆が聞いていることを」
相希は紗良へ顔を向けた。
「紗良。何があったか、彼女から聞いてる?」
「うん」
「本人がいいなら、代わりに話してもらえる?」
紗良はすぐには答えなかった。
隣にいる女性を見る。
「私から話してもいい?」
女性は集まった者たちを見なかった。
黒田の背中を一度見たあと、小さくうなずく。
「昨日、二人で縄を物置へ運んだ時」
紗良が話し始める。
「急に身体を引き寄せられて、顔を近づけられた。やめてって言ったけど、すぐには離してもらえなかった」
男が何かを言おうとした。
相希が男を見る。
「最後まで聞こう」
男は息を吐き、口を閉じた。
「そのあと、外へ出ようとした時にも腕を掴まれた。離してって言っても離してもらえなくて、怖いって言って、最後は離れられた」
紗良はそこまで話し、女性を見る。
女性は俯いたままだった。
「二人で物置へ行ったんだろ?」
火の向こうから声が上がる。
「縄を運びに行っただけだって言ってるだろ」
「分かってるよ。ただ、二人だったのか聞いただけだ」
「それで腕を掴んだのか?」
「怖いって言われるまで離さなかったってこと?」
また声が重なり始める。
相希は一度、全員を見た。
「次は、男の話を聞きたい」
「昨日、何をしたのか、最初から話してほしい」
男は黒田を見た。
黒田は男を見たまま、何も言わない。
「俺は……最近、こいつと一緒にいることが多かった」
女性の肩が、わずかに動く。
「仕事もそうだし、夜に話すこともあった。俺は、こいつも俺のことを嫌いじゃないと思ってた」
「それで、物置では?」
相希が先を促す。
「物置で二人になったから、抱き寄せた」
「その時、彼女は何と言った?」
「驚いてた。でも、最初は何がって聞いただけだ」
「そのあと」
男は一度、女性を見た。
女性は顔を上げなかった。
「やめてって言った」
「言われた時、離した?」
「すぐにっていうか……俺も急に拒まれて、何が違うのか分からなかった」
「その時点では、まだ離していなかった?」
男の眉が寄る。
「一度は離れた」
「一度は?」
「押されたから、身体は離れた」
「そのあと、外へ出ようとした彼女の腕を掴んだ?」
男はすぐには答えなかった。
「話そうとしただけだ」
「腕を掴んだ?」
少しの間が空く。
「……掴んだ」
火が小さく弾けた。
「それ、嫌がってるって分かってたんじゃないか?」
「でも、話そうとしたんだろ」
「話すのに腕を掴む必要があるのかよ」
「怖いって言われたから離したんだよな?」
「怖いって言われる前にも、離してって言われてるだろ」
男は何人もの顔を順番に見た。
自分へ向けられる言葉が増えるほど、呼吸が浅くなっていくように見えた。
「でも、あの二人、最近は結構一緒にいたよな」
少し離れたところにいた男が言った。
「ああ。俺も、そういう関係なのかと思ってた」
「夜も二人で話してたしな」
「だったら、勘違いすること自体はあるんじゃないか?」
男の顔が上がる。
「ほら。俺だけが勝手に思ってたわけじゃない」
「仲が良かったからって、何をしてもいいわけじゃないだろ」
「そうは言ってない。最初から襲うつもりだったみたいに言うのも違うんじゃないかって話だ」
「嫌だって言われたあとのことを話してるんだろ」
「だから、それを今確認してるんじゃないのか?」
言葉の向きが、起きたことから二人の普段へ広がっていく。
女性は膝の上で両手を重ねた。
指先が、反対の手の甲へ食い込んでいる。
紗良は何も言わず、女性との間を少しだけ詰めた。
「二人が一緒にいる時間が増えていたことは、周りも見ていた」
相希が言った。
「そこは事実でいいと思う」
男が相希を見る。
「でも、周りが二人をどういう関係だと思っていたかと、彼女自身がどう思っていたかは同じではない」
「でも、俺がそう思った理由にはなるだろ」
「理由にはなるかもしれない」
相希は否定しなかった。
「ただ、近づく前にどう受け取っていたかと、断られたあとにどうしたかは、分けて考えた方がいい」
男は何も言わなかった。
周囲から向けられていたいくつかの視線が、一度下がる。
「俺は、無理やり何かしようとしたわけじゃない」
男が言った。
「本当にそういうつもりなら、すぐそこに皆がいる場所でやるわけないだろ。誰かが来るかもしれないのに」
「見つからなければよかったのか?」
黒田の声だった。
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味だ」
「俺は、こいつも同じ気持ちだと思ってたって言ってるんだ」
男は女性へ顔を向けた。
「責めるつもりはない。でも、俺だけが勝手に勘違いしたみたいに言われるのは違うだろ」
女性の手へ、さらに力が入る。
「最初からそんなつもりがないなら、そう言ってくれれば――」
黒田が立ち上がった。
「お前、どこまでいっても自分のことだけだな」
男も立ち上がる。
「何がだよ。俺だって悪かったと思ってるから、謝りに来たんだ」
「謝りたいのも、お前が楽になりたいからだろ」
「違う」
「怖がってるから近づくなって言っても、お前は引かなかった」
黒田が一歩、男へ近づく。
「今度は、こいつの態度が悪かったって言うのか。この野郎――」
直人が立ち上がった。
二人の間へ入り、黒田の前に立つ。
「黒田さん。一回、座ろう」
「直人、どけ」
「今は、どけない」
直人は黒田を押さえなかった。
腕を広げることもない。
ただ、男へ進めばぶつかる場所に立っていた。
「こいつが何を言ったか、聞いてただろ」
「聞いてたよ」
「だったら、どけ」
「聞いてたから、今はどけない」
黒田は直人を睨んだ。
直人も目を逸らさない。
後ろにいる男を振り返ることもなかった。
「俺は、そいつを庇ってるんじゃない」
直人が言った。
「黒田さんに座ってほしいだけ」
しばらく、誰も動かなかった。
黒田の拳が、強く握られている。
やがて黒田は男から視線を外し、元いた場所へ戻った。
直人は黒田が座るまで、その場から動かなかった。
それから二人の間へ腰を下ろす。
相希は、全員が再び座るのを待った。
「今の話で、確認できたことを一度まとめる」
誰も口を挟まなかった。
「男は、彼女から好意を持たれていると思っていた。二人が一緒にいる時間が増えていたことは、周りも見ている。ただ、彼女が同じ気持ちだったかについては、二人の認識が一致していない」
相希は言葉を切った。
「女性がやめてと伝えたことは、二人とも認めている。そのあと、女性が押し返して一度離れた。外へ出ようとした女性の腕を、男がもう一度掴んだ。最後は女性が怖いと伝えて、男が離した」
男は地面を見ていた。
女性も顔を上げなかった。
「事実として確認できるのは、ここまでだと思う」
相希は、それ以上何も付け足さなかった。
正しかったのは誰か。
何と呼ぶべきなのか。
男をどうするのか。
どの答えも出していない。
短い沈黙のあと、黒田が言った。
「こいつには、出ていってもらう」
全員の視線が黒田へ向く。
「ここには置いておけない」
「ちょっと待ってくれ」
高瀬が身体を起こした。
「いきなり過ぎないか」
「何がいきなりだ。今の話を聞いてただろ」
「聞いてた。だからって、今すぐ森へ出すのか?」
「残して、また同じことが起きたらどうする」
「起きないように分ければいい。作業も寝る場所も、接触しないようにできる」
「誰がずっと見てるんだ」
「一人にしなければいいだろ」
黒田が高瀬を見る。
「こいつを残すために、全員の動きを変えるのか」
「森へ一人で放り出すよりはいい」
二人の声が、火を挟んでぶつかる。
「俺は、黒田さんの言う通りだと思う」
高瀬の近くにいた男が言った。
幼体が罠へ掛かった夜、その男は小さくても捕らえるべきだと話していた。
「次が起きてからじゃ遅い。残すなら、女たちはずっと怖いままだろ」
高瀬が、少し意外そうに男を見る。
今度は、黒田のそばに座っていた別の男が口を開いた。
「でも、森へ一人で出すのは違うと思う」
幼体を逃がしてよかったと話していた男だった。
「ここを出たら、生きられないかもしれない。今の感情だけで、そこまで決めていいのか?」
「お前、前は黒田さんの判断に賛成してただろ」
「幼体の話と、これは別だ」
「何が別なんだよ。どっちも皆が生きるための話だろ」
「だから、追い出す以外の方法を考えろって言ってるんだ」
一つの声へ、以前とは違う場所から同意が返る。
反対の声も、同じように別の場所から上がった。
誰が黒田の近くにいたのか。
誰が高瀬の言葉へうなずいていたのか。
それだけでは、次に何を言うのか分からなくなっていた。
「追い出さないなら、少なくとも女と二人にはするな」
「それは当然だろ」
「当然って、誰が毎回見てるんだ?」
「男同士で組めばいい」
「見回りも罠も、今の人数で回してるんだぞ」
「じゃあ、安全より仕事を優先するのか?」
声がまた重なる。
以前なら、似た意見は同じ場所から続いていた。
今は、誰かが口を開くたび、その隣にいる者が驚いたように顔を向ける。
「彼女は、追い出してほしいとは言ってない」
紗良の声に、何人かが口を閉じた。
「今は、近づかないでほしいって言ってる」
黒田が紗良を見る。
高瀬も何も言わない。
「それ以上のことは、まだ分からないって」
紗良は女性へ顔を向けた。
「ここにいる? 少し離れる?」
女性はしばらく迷い、紗良の方へ身体を寄せた。
紗良は立ち上がる。
女性も続いた。
二人が火から少し離れる間、誰も呼び止めなかった。
「あいつが追い出せって言ってないから、残すのか?」
黒田が低い声で言った。
「本人が決める話でもないだろ。ここで暮らしてる全員に関わる」
「だったら、全員で決めればいい」
「今決めるのか?」
「いつなら決められる」
高瀬が黒田を見る。
「俺は、こいつがやったことを庇ってるんじゃない」
「なら、何で残す」
「森へ一人で出すってことは、死ねって言うのと同じだからだ」
「それは、こいつが――」
黒田の言葉が止まる。
「幼体は生かすのに、男は殺すのか」
火のそばから、声が消えた。
薪の端が崩れ、赤い火の粉が一つだけ上がる。
黒田は高瀬を見ていた。
幼体は、誰かを傷つけたわけではない。
男は違う。
そう返すことはできた。
だが、その先にあるのは、男を森へ出す理由だった。
黒田は何も言わなかった。
誰も、すぐには次の言葉を出せない。
以前なら、自分の近くにいる者の顔を見ればよかった。
今は、その相手が同じ答えを持っているかも分からない。
一人が相希を見る。
その視線を追うように、別の者も顔を向ける。
「相希」
一人の女性が呼んだ。
「どうすればいい?」
相希はすぐには答えなかった。
黒田を見る。
高瀬を見る。
二人の間に座る直人を見る。
少し離れた場所にいる紗良と女性にも目を向けた。
「俺が決めることではないと思う」
それでも、誰も相希から視線を外さなかった。
「でも、今夜どうするかは決めないと駄目だろ」
誰かが言う。
「同じ場所へ寝かせるのか?」
「明日も今までどおり組ませるのか?」
相希は少し考えた。
「結論を出すのが難しいなら、結論とは別に、今夜からできることだけ決めるのはどうだろう」
誰も答えない。
相希は続けた。
「男と彼女は、同じ作業にしない。男から彼女へ話しかけるのも、今はやめてほしい」
男が顔を上げる。
「作業や拠点の外へ出る時は、一人にせず、必ず複数で動く。寝る場所も離す」
「俺を見張るってことか?」
「そう感じると思う」
相希は否定しなかった。
「ただ、食事を減らしたり、仕事から外したりする必要はないと思う。これは処分を決めるためではなく、今の安全を確保するためのものだから」
「いつまでだよ」
男が尋ねた。
「三日」
相希は皆を見る。
「三日後に、もう一度話すのはどうだろう」
短い沈黙のあと、一人がうなずいた。
「三日なら、それでいいんじゃないか」
「今は他にないだろ」
「相希がそう言うなら」
別の場所からも、同意が続く。
「じゃあ、三日後にもう一度話す。それで決まりだな」
相希が口を開く。
「決めたというより、提案しただけだけど」
「反対するやつはいるか?」
誰も手を挙げなかった。
納得したからなのか。
これ以上話したくなかったからなのか。
その違いは分からない。
高瀬が男を見る。
「残るなら、今は受け入れろ」
男はしばらく地面を見たあと、短くうなずいた。
「……分かった」
黒田は何も言わなかった。
少し離れた場所で、紗良が女性へ何かを尋ねる。
女性は迷ったあと、うなずいた。
紗良も火のそばへ向けて、小さくうなずく。
それを見た者から立ち上がった。
戸田と高瀬が、男の寝床をどこへ移すか話し始める。
別の者は、明日の作業で誰と組ませるかを確認した。
先ほどまで黒田の近くにいた者が、高瀬の言葉へうなずく。
高瀬の隣にいた者が、黒田へ明日のことを尋ねる。
もう、座っている場所だけでは何も分からなかった。
相希は火のそばに残っていた。
求められたから、一つの方法を出した。
誰かへ命じたわけでも、正しいと決めたわけでもない。
それでも人々の中には、相希が決めた三日間として残っていく。
決まったのは、三日間をどう過ごすかだけだった。
三日後に何を決めるのかは、誰にも分からなかった。




