第50話 謝りたいだけ
夕食が終わる頃には、火を囲んでいた者たちも一人ずつ立ち上がっていた。
使い終えた器が集められ、明日の朝に使う薪が火の近くへ運ばれる。
見回りの順番を確かめる声や、寝床へ戻る前に水を飲む者の足音が重なっていた。
女性も、自分の器を洗い終えていた。
いつもと同じ場所へ戻り、畳んであった布を広げる。
少し離れたところには、黒田が座っていた。
近づきすぎることもなく、何度も女性を見ることもない。
ただ、いつもと同じようにそこにいた。
夕食の間も、黒田は誰にも分かるような振る舞いをしなかった。
女性の器だけを受け取ることも、隣へ座る者を遠ざけることもなかった。
戸田に話を振られれば答え、高瀬が薪を足せば、火の近くにいた者たちと一緒に身体を引いた。
女性が望んだ、今までと同じ夜の中にいた。
女性は布の端を伸ばし、膝の上へ手を置いた。
火を挟んだ向こう側で、紗良と一度だけ目が合う。
紗良は近づかなかった。
女性がここを選んだことも、今は黒田にいてほしいと決めたことも知っている。
小さくうなずき、そのまま三浦と器を重ねていた。
向かい側では、男が戸田のそばに座っていた。
昼間と同じように、必要なこと以外は誰ともほとんど話していない。
時折、顔を上げる。
その視線がどこへ向いているのか、女性は見ないようにしていた。
火へ新しい薪が入れられた。
乾いた音とともに炎が大きくなる。
女性が反射的に顔を上げた時、男が立ち上がるのが見えた。
男は戸田へ何かを言い、こちらへ歩いてきた。
女性の手が、広げた布の端を掴む。
黒田も男に気づいた。
それでも立ち上がらなかった。
男は二人から数歩のところで足を止めた。
すぐに距離を詰めようとはしなかった。
その顔には、昨日のような思い込みも、笑いかければ元へ戻れるという軽さもなかった。
何度も頭の中で言葉を選んできたように見えた。
「少しだけ、話せないか」
女性は答えなかった。
男はその場で待った。
「昨日のこと、ちゃんと話したい」
女性の指に力が入る。
黒田が顔を上げた。
「来るな」
男が黒田を見る。
「黒田さんには関係ないだろ」
「今は来るな」
黒田の声は低かった。
男は一度、女性へ目を向ける。
その視線を受けた瞬間、女性の肩がわずかに上がった。
「見れば分かるだろ」
黒田が言った。
「お前が近づくのを怖がってる」
男の顔がこわばった。
女性は自分の膝を見ていた。
怖がっていないとは言えなかった。
そうだとも言えなかった。
「俺は、謝りに来ただけだ」
男の声は、まだ抑えられていた。
「昨日のことは悪かったと思ってる」
男は女性へ向き直った。
「驚かせるつもりはなかった。怖がらせるつもりもなかった」
女性の指が、布の端をさらに強く掴む。
男はそれを見ても、まだ言葉を続けようとした。
「だから、一度ちゃんと謝らせてほしい」
「今は聞きたくないって顔してるだろ」
「でも、俺だってこのままじゃ――」
「お前が謝りたいかどうかじゃない」
黒田は立ち上がった。
男へ向かっては行かず、女性との間に入ることもしない。
その場で男を見ていた。
「謝って、お前が楽になりたいだけだろ」
「そんなつもりじゃない」
「だったら、怖がってる相手に近づくな」
「話さないと、何も分からないだろ」
「何を分かってほしいんだ」
「俺が、そんなつもりじゃなかったってことだよ」
「それを聞かせて、どうしたい」
男は言葉に詰まった。
「……このまま避けられてても、俺だってどうすればいいか分からないだろ」
「それを、今こいつに決めさせるな」
「今、話したくないのは分かるだろ」
「本人がそう言ったのか?」
男が女性を見る。
答えを求める視線だった。
女性は布から手を離し、反対側の腕を押さえた。
黒田の表情が変わる。
「その目を向けるな」
「俺は本人と話してるんだ」
「話せてないだろ」
二人とも、怒鳴ってはいなかった。
それでも、火のそばに残っていた声が一つずつ止まっていった。
男もそれに気づき、一度周囲を見る。
何人かがこちらへ顔を向けていた。
男の目が、その視線を追う。
見られていると気づいたことで引き返せなくなったのか、口元が硬くなった。
声を落とす代わりに、男は半歩だけ黒田へ近づいた。
「俺だって、悪かったと思ってるんだよ」
「だから何だ」
「謝ることまで止めるのか」
「今日は近づくなって言ってる」
「何で黒田さんが決めるんだよ」
最後の言葉だけが、夜の拠点へ大きく響いた。
戸田が立ち上がる。
「どうした?」
返事を待たず、二人の方へ歩いてきた。
高瀬も火の向こうから顔を上げる。
三浦は重ねかけていた器を置いた。
少し離れた寝床でも、横になりかけていた者が身体を起こす。
女性は、今夜も同じ場所で眠ると自分で決めた。
寝床を変えれば、誰かに気づかれると思ったからだった。
今は、その変えなかった場所へ、周囲の視線が一つずつ集まっていた。
「何でもない」
黒田は周囲へ言った。
「戻ってくれ」
「何でもなくないだろ」
男が返した。
「何でもないなら、何で俺だけ止められるんだよ」
戸田が二人の間へ視線を動かす。
「何があったんだ」
「何でもない。こいつが話をしたいって来ただけだ」
「だから、その話をさせてくれって言ってるんだよ」
男の声が、先ほどよりも強くなる。
黒田のそばで、女性は俯いたままだった。
紗良が火のそばから立ち上がる。
直人も、水の入った容器から手を離していた。
相希は二人の声を聞きながら、集まり始めた者たちを見ていた。
誰も事情を知らない。
それでも、黒田と男の間にあるものが、普段の言い合いではないことだけは伝わっていた。
「黒田」
高瀬が近づいてくる。
「戻れって言われても、これじゃ戻れないだろ」
「今は話すことじゃない」
「じゃあ、いつ話すんだよ」
男が黒田へ言った。
「俺は謝りに来ただけだ。それを、こいつが勝手に止めてる」
「勝手に来たのはお前だろ」
「昨日から、このままにしておけないと思ってたんだよ」
「今夜はやめろって言ってる」
「このまま戻ったら、みんな俺が何かしたと思うだろ」
「誰もそんな話はしてない」
「でも、そういう目で見てるじゃないか」
男は周囲へ向けて話しているわけではなかった。
それでも、集まった者たちに届く声で続けた。
「何を謝るんだ?」
戸田が尋ねる。
男はすぐに答えなかった。
女性を見る。
女性は顔を上げなかった。
黒田が男の視線を遮るように、一歩だけ横へ動く。
「もういい。黙れ」
「よくないだろ」
男は黒田を見た。
「俺だけ悪いみたいにするなよ」
黒田の手が握られる。
直人が二人へ一歩近づいた。
まだ間には入らない。
黒田が動かないことを確かめるように、その場で足を止めた。
「昨日、少し勘違いしたんだ」
男が言った。
「何を?」
三浦の近くにいた者が尋ねる。
男は口を開きかけ、一度言葉を選ぶように止まった。
集まった者たちに説明するためというより、自分のしたことを、自分にも分かる形へ直しているようだった。
「最近、ずっと一緒に作業してたから」
男は女性の方を見た。
「俺たち、そういう感じなんだと思ってた」
誰もすぐには意味を返さなかった。
誰かが隣にいる者の顔を見た。
別の者は女性へ向きかけ、黒田の背中を見て視線を止めた。
火の中で、薪が小さく崩れる。
「そういう感じって、何だよ」
戸田の声から、先ほどまでの柔らかさが消えていた。
「だから……お互い、悪く思ってないっていうか」
「それで?」
「少し近づいただけだ」
男はそう言ってから、周囲の顔を見た。
「無理やり何かしようとしたわけじゃない」
紗良が女性のそばまで歩いてくる。
声は掛けず、肩が触れないところで止まった。
女性は、自分の腕を押さえたままだった。
男が話すたび、昨夜の出来事が短い言葉へ置き換わっていく。
勘違いした。
少し近づいた。
嫌がられた。
どれも間違いではないように聞こえた。
それでも、女性が物置で感じたものは、その中には残っていなかった。
「嫌がったから、ちゃんとやめた」
男の言葉が途切れた。
男は口を閉じ、集まった者たちの反応を待った。
集まった者たちの視線が、男から女性へ移る。
何を聞けばいいのか分からない者もいた。
男の言葉を辿るように、眉を寄せる者もいた。
女性の隣で、紗良は何も言わなかった。
黒田も、女性の代わりに話そうとはしなかった。
女性は腕を押さえていた手を離した。
膝の上で指を組み、ゆっくりと顔を上げる。
「……やめたんじゃない」
男が女性を見る。
「やめてって言っても、離してくれなかった」
女性は一度、息を吸った。
「私が押し返して、それでも腕を掴まれて」
昨夜、自分の腕に食い込んでいた指の感覚が戻る。
それでも、女性は目を伏せなかった。
「怖いって言ったら、やっと離したの」
女性はそれ以上、何も言わなかった。
誰もすぐには、次の言葉を出せなかった。
女性が変えないことを選び、黒田が何も変えずに守ろうとしたいつもの場所は、もう誰の目にも、今までと同じには見えなかった。




