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はじまりの岸  作者: インフィ
集団生活編

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第49話 ここにいて



黒田は火のそばで、戸田と明日の見回りについて話していた。

夕食の支度が始まり、三浦が器を並べている。

少し離れたところでは、直人が水の入った容器を一つずつ確かめていた。


女性は黒田まで数歩のところで足を止めた。

紗良も隣で止まる。



「黒田さん」



黒田が振り返った。



「どうした」



女性はすぐに答えられなかった。

黒田の横にいる戸田を見る。


戸田は二人の顔を順番に見たあと、持っていた縄を黒田へ渡した。



「続きは、あとでいい」



黒田がうなずく。

戸田が火の方へ戻ってから、女性はもう一度黒田を見た。



「少し、話したいことがある」


「俺にか?」


「うん」



黒田は紗良へ目を向けた。

紗良は何も言わない。



「ここじゃない方がいいか」



女性がうなずいた。

三人は、寝床の向こう側まで歩いた。

拠点の端に積まれた枝の陰へ回る。


火のそばにいる者たちの姿は見えた。

少し声を落とせば、こちらの会話までは届かない。

物置は、拠点を挟んだ反対側にあった。


黒田が足を止める。



「何があった」



女性は身体の前で両手を重ねた。



「その前に、約束してほしい」


「何を」


「最後まで聞いて」



黒田は黙って女性を見る。



「途中で、何も言わないでほしい」


「……分かった」



女性は息を吸った。

それでも、話し始める前にもう一度止まった。



「あと、聞いても、すぐには何もしないで」



黒田の眉がわずかに動く。

何を聞くのか尋ねることはしなかった。



「分かった」



女性は紗良を見た。

紗良は小さくうなずく。

代わりに口を開こうとはしなかった。



「昨日、縄をしまいに行った時」



そこで、一度声が止まる。

火のそばから、器の重なる音が聞こえた。


女性はもう一度息を吸う。



「あの人が、急に身体を引き寄せてきた」



黒田は何も言わなかった。

膝の上に置いていた手だけが、ゆっくりと握られていく。



「触られて、顔を近づけられて」



女性は言葉を探した。



「やめてって言った」



黒田の手に、さらに力が入る。

それでも、約束したとおり口は挟まなかった。



「でも、大丈夫だって言われた」


「押して離れて、戻ろうとしたら、今度は腕を掴まれた」



女性の片手が、反対側の腕へ伸びる。

掴まれた場所を確かめるように、衣服の上から押さえた。



「離してって言った。でも、離してくれなかった」



紗良は女性の隣にいた。

身体へ触れることも、言葉を足すこともしない。

ただ、女性が次の言葉を出せるまで待っていた。



「怖いって言ったら、最後は離した」



女性は腕から手を離せないまま、火の方を見た。



「それで、戻った」



女性は火のそばにいた黒田の姿を思い出した。



「黒田さんも、もう寝てた」



黒田の目が、わずかに動く。



「起こそうとは思わなかったのか」



責めるような言い方ではなかった。

それでも女性は、腕を押さえる指へ力を入れた。



「少しだけ思った」


「でも、言ったら、今までと同じではいられなくなると思った」



黒田は何も返さない。



「黒田さんが、あの人のところへ行くと思ったから」



女性は黒田を見ることができなかった。



「それに、昨日は自分でも、何があったのか分からなかった」


「何を言えばいいのかも分からなかった」



黒田の握っていた手から、少しだけ力が抜ける。



「今日は分かったのか」


「まだ、全部は分からない」



女性は隣にいる紗良を見る。



「でも、一人で何もなかったことにするのは、違うって思った」



紗良は女性の視線を受け止めるだけで、何も足さなかった。


話し終えたことが伝わっても、黒田はすぐには何も言わなかった。

約束を守っているのか、言葉が出てこないのかは分からない。


黒田は握っていた手を開き、もう一度握った。



「怪我は」


「ないと思う」


「腕は?」


「もう、痛くない」



黒田は女性の腕を見た。

確かめるために触れようとはしなかった。



「誰だ」



女性の肩に、力が入る。

紗良が女性を見る。



「私から言う?」



女性は首を振った。

少し間を置いて、自分で男の名を口にした。


黒田の顔から、表情が消えた。

立ち上がる。


女性の唇が動いたが、声にはならなかった。

黒田は振り返らなかった。


積まれた枝の陰を出て、火の方へ歩いていく。

女性も立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。


紗良が先に腰を上げる。

黒田の視線は、拠点の反対側にいる男へ向いていた。


男は戸田の近くで、組みかけの台を押さえている。

まだ、こちらには気づいていない。


水の容器を並べていた直人が顔を上げた。

黒田を見る。


その後ろにいる紗良と女性を見る。



「黒田さん」



直人が呼んだ。

黒田の足が止まる。


直人は、それ以上何も言わなかった。

何があったのか尋ねることも、戻った方がいいと続けることもしない。


ただ、黒田を見ていた。

黒田は男へ向けていた顔を、直人へ向ける。


二人の間には、火を囲む者たちの声が流れていた。

直人は目を逸らさない。


黒田も動かなかった。

やがて黒田が、短く息を吐いた。


男へ向けていた身体を戻す。

来た道を引き返し、積まれた枝の陰へ戻ってきた。


直人は黒田の背中を追わなかった。

足元に置いていた容器を持ち上げ、何もなかったように火の方へ運んでいく。


女性へも、紗良へも顔を向けなかった。

紗良は、火へ戻る直人の背中を見た。


直人は一度も振り返らなかった。


黒田は、先ほどまでいた場所へ戻った。

女性の前に立ったまま、何も言わない。


女性は黒田を見上げた。



「だから、言いたくなかった」



責めるような声ではなかった。

黒田は、男のいる方を一度だけ振り返る。


それから地面へ腰を下ろした。

先ほどよりも、女性との間を空けている。



「……悪い」



女性は返事をしなかった。



「約束したのに」


「ああ」



黒田は地面を見た。



「悪かった」



紗良も座り直す。

三人の間へ、夕食の匂いが流れてきた。


誰かが黒田を呼びかけたが、戸田が代わりに返事をしていた。

黒田はすぐには顔を上げなかった。



「俺に、どうしてほしい」



女性は黒田を見た。

その問いを向けられるとは思っていなかったように、しばらく黙っていた。



「分からない」



黒田は何も言わない。

答えを待つようにも、急かすようにも見えなかった。



「どうしたいのか、本当に分からない」


「そうか」



女性は腕を押さえていた手を、膝の上へ戻した。



「でも、近づいてほしくない」


「あいつに?」


「うん」



言葉にしたあと、女性の肩から少しだけ力が抜けた。



「同じ仕事もしたくない。二人にもなりたくない」


「分かった」



黒田の返事は短かった。

何をするかは口にしなかった。



「でも、追い出してほしいわけじゃない」



黒田が顔を上げる。

女性は視線を落とした。



「違う。追い出してほしくないのかも、まだ分からない」



自分の言葉を直す。



「今、分かるのは、近づいてほしくないってことだけ」



黒田はしばらく女性を見ていた。



「分かった」



今度の返事は、先ほどよりもゆっくりしていた。



「今日は何もしない。あいつのところにも行かない」



女性は小さくうなずいた。



「ほかの人には」



女性が言いかける。



「まだ、言わないでほしい」


「分かった」


「あの人にも、私が話したことは言わないで」



黒田はすぐには答えなかった。

男のいる方へ向けかけた視線を、途中で止める。



「今日のところは、何も言わない」



女性は、その言い方にわずかに顔を上げた。



「明日は?」


「明日のことは、明日また聞く」



黒田は女性を見る。



「今、決められないなら、それでいい」



女性はしばらく黒田を見たあと、もう一度うなずいた。



「寝る場所は、いつものところでいいのか」


「うん。変えたら、みんなが気づくから」



黒田は何か言いかけたが、口を閉じた。



「黒田さんも、近くにいるでしょ」


「いる」


火のそばから、食事ができたと呼ぶ声が聞こえる。


紗良は立ち上がりかけ、女性を見る。

女性も紗良を見た。



「私は、先に戻っても大丈夫?」



女性は黒田を見た。

黒田は先ほどと同じ場所に座っている。



「うん」



紗良は立ち上がった。

女性の肩へ触れる代わりに、その場で一度うなずく。



「すぐ近くにいるから」


「ありがとう」



紗良は火の方へ戻っていった。

途中、水の容器を置き終えた直人とすれ違う。


直人は何も聞かなかった。

紗良も何も言わない。

二人は一度だけ目を合わせ、そのまま別々の方へ歩いた。


枝の陰には、女性と黒田だけが残った。

黒田は、空けた距離を縮めなかった。

女性へ手を伸ばすこともしない。


火のそばへ戻ろうと促すこともなかった。

女性は膝の上で両手を重ねた。


少しして、黒田の名を呼ぶ。



「黒田さん」


「何だ」



女性は火の方を見た。

夕食を受け取る者たちの姿が、積まれた枝の隙間から見える。



「今は、ここにいて」



黒田は女性を見た。



「ああ」



黒田は、それ以上何も言わなかった。

座った場所からも動かなかった。


女性は、自分の腕を押さえていた手を、ゆっくりと離した。



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