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はじまりの岸  作者: インフィ
集団生活編

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第48話 今までどおり



その夜、女性が寝床へ戻った時には、火はもう小さくなっていた。

番をしている者の背中だけが、赤い明かりの中に浮かんでいる。


女性は顔を伏せたまま、眠っている者たちの間を通った。

誰が起きているのか、確かめなかった。


男の寝床がどこにあるのかも、見ないようにした。

自分の寝床へ横になり、薄い布を肩まで引き上げる。


少し離れたところで、黒田が寝返りを打った。

女性は息を止めた。

黒田は目を覚まさなかった。


そのことに安堵しながら、どうして安堵したのかは考えないようにした。


目を閉じても、身体から力が抜けない。

腕を掴まれた感覚が戻るたび、反対の手で同じ場所を押さえた。


明日から近づかなければいい。

二人きりにならなければいい。

何も言わなければ、誰も知らないままでいられる。


同じことを何度も考えているうちに、夜が明けた。


朝の火が起こされる。

眠っていた者たちが一人ずつ起き上がり、いつもの場所へ散っていった。


女性も布を畳み、食事の支度へ向かおうとした。



「おい」



黒田に呼ばれ、足が止まる。



「何?」


「寝てないのか」



黒田は女性の顔を見ていた。



「寝たよ」


「そうは見えない」


「ちょっと寝つけなかっただけ」



女性は笑おうとした。

うまくできていたかは分からない。

黒田は水の入った器を差し出した。



「具合が悪いなら、今日は休め」


「大丈夫。動いてた方が楽だから」



器を受け取り、水を一口飲む。

黒田はまだ何か言いたそうだった。

女性は器を返し、先にその場を離れた。


少し離れたところで、紗良が二人を見ていた。


朝食のあと、黒田がその日の仕事を確認していく。

男は、高瀬たちの近くに座ったまま、空になった器を地面へ置いた。

ここ数日は食事が終われば女性たちの話へ加わっていたが、立ち上がろうとはしなかった。


一度だけ女性の方を見て、すぐに火へ目を戻す。

女性も男を見なかった。


直人は見回り組へ渡す水を並べながら、二人を順番に見た。

見回りへ向かう者が道具を取り、拠点へ残る者も必要なものを集め始めた。


女性は、紗良と結衣のそばに置かれた籠へ手を伸ばす。

その時、男も同じ方へ歩きかけた。


二人の視線が一瞬だけ重なる。

男が先に目を逸らした。

女性の指が、籠の縁を強く掴む。



「戸田さん」



直人が、組みかけの台を見ながら声を掛けた。



「そっち、あと一人いた方がよくない?」


「できれば欲しいな」



戸田が答える。

直人は近くにいた男へ顔を向けた。



「悪いけど、戸田さんの方をお願いしてもいい? こっちは三人いるから大丈夫だと思う」



男は女性たちを見たあと、うなずいた。



「分かった」



戸田の方へ歩いていく。

直人はそれ以上男を見ず、見回り組へ渡す水の確認へ戻った。


女性は籠から手を離した。



「じゃあ、始めようか」



紗良が言った。

女性はうなずき、籠の中身を地面へ広げる。

昨夜までと同じ作業だった。


土を落とし、傷んだ部分を分け、使えるものを別の籠へ移す。

手順を考えなくても、指は動いた。


結衣が一つを持ち上げる。



「これ、もう駄目かな」


「外だけ取れば使えるよ」



女性は答え、結衣から受け取った。

傷んだ部分を指で折り、残りを籠へ入れる。



「そっちじゃないよ」



紗良の声に、女性の手が止まった。

食べられる方へ入れるはずのものが、傷んだものの中へ落ちている。



「ごめん。間違えた」


「珍しいね」



結衣が何気なく言った。



「寝不足だからかな」


「休んでくる?」


「大丈夫」



女性はすぐに拾い直した。

少し離れた場所から、男の声が聞こえる。


戸田に何かを尋ねているだけだった。

それでも女性の手は、また止まった。


紗良は何も言わず、女性の前に残っていた分を自分の方へ少し寄せた。


昼前。


女性は水を飲むと言って、作業の輪を離れた。

拠点の端まで歩き、木陰へ腰を下ろす。

手にした器には、まだほとんど水が残っていた。


しばらくして、足音が近づいてくる。

女性の肩がこわばった。



「私だよ」



紗良の声だった。

女性は息を吐いた。

紗良は少し離れたところで足を止める。



「一人の方がいい?」



女性は紗良を見る。



「それとも、ここにいてもいい?」



すぐには答えられなかった。

紗良は近づかず、その場で待っている。



「……いて」



紗良は隣へ座った。

身体が触れないだけの距離を空け、地面に落ちていた細い枝を拾う。

何かを尋ねることもなく、指先で枝の皮を剥がし始めた。

女性は器の中を見たまま、水を一口飲む。


二人の間に、作業の音だけが遠く届いていた。



「多分、みんなは気づいてないと思う」



しばらくして、紗良が言った。



「でも、昨日までと少し違う」



女性の指が、器の縁をなぞる。



「何かあった?」


「何もないよ」



紗良は女性を見なかった。



「そっか」



それ以上、続けなかった。

立ち上がることもなく、枝の皮を剥がしている。


女性は一度、紗良の横顔を見た。



「何で、そう思ったの?」


「朝から、誰かが近づくたびに顔を上げてるから」



紗良は手元を見たまま答えた。



「あと、あの人の声がすると、手が止まってる」



女性は器を両手で包んだ。



「ちょっと、気まずくなっただけ」


「うん」


「私が変にしたのかもしれない」



紗良の手が止まる。

それでも、すぐには言葉を挟まなかった。



「昨日、縄をしまいに行った時……」



女性の声は、ほとんど息のようだった。



「あの人が、急に」



そこで言葉が途切れる。

紗良は待った。



「触ってきて」



女性は器から片手を離し、自分の腕を押さえた。



「やめてって言ったんだけど……離してくれなくて」



紗良の指から、剥がしていた枝が落ちた。

拾おうとはしなかった。



「最後は、離してくれた」



女性が付け足す。



「私が、怖いって言ったら」



紗良は小さく息を吸った。



「今、あの人が近くに来るのは嫌?」



女性はうなずいた。



「黒田さんに話した方がいいと思う」


「それは駄目」



女性は、今までよりも強い声で答えた。



「黒田さんには言わないで」


「分かった。私からは言わない」



紗良がすぐに返す。

女性は張っていた息を吐いた。



「黒田さんに言ったら、大ごとになる」


「うん」


「あの人のところへ行くと思う。多分、殴る」



紗良は否定しなかった。



「それに、皆にも分かる。もう、今までみたいにはいられなくなる」


「うん」


「私が近づかなければいいだけだから」



女性は自分へ言い聞かせるように続けた。



「もう同じことはしないと思う。最後は離してくれたし」



紗良は何も答えなかった。

言いたいことがないわけではなかった。

ただ、今ここで女性の言葉を押し返せば、話してくれたものまで閉じてしまう気がした。



「少しだけ、ここにいてくれる?」


「うん」



紗良は落ちた枝を拾った。

女性が立ち上がるまで、黒田の名をもう一度口にしなかった。



午後。


紗良は空になった容器を持ち、直人と水の置き場所へ向かっていた。

直人は二つの容器を抱え、朝から変わらない調子で歩いている。



「直人」


「何?」



紗良は少し迷った。



「もし、自分が我慢すれば、今までどおりでいられるって思ってる人がいたら、どうする?」



直人が横を向く。



「紗良、何か聞いた?」


「それは言えない」



直人は数歩歩いてから、前へ向き直った。



「そっか。じゃあ、聞かない」



容器を置く場所まで、もう少しだった。

紗良は直人の返事を待つ。



「でもさ」



直人が言った。



「一人が我慢しないと続かないなら、それってもう、今までどおりじゃないんじゃない?」



紗良は直人を見た。


直人は、何か特別なことを言ったつもりもない顔で歩いている。

自分のことになると、そんなふうに考えないくせに。


紗良の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。



「何?」


「ううん。何でもない」



直人は首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。


紗良は、朝の直人を思い出した。

戸田へ人手が必要か尋ね、男を女性たちから離したこと。


あれが偶然だったのか、紗良には分からない。

直人も、何があったのかは知らない。


それでも今日は、二人が同じ作業になることは一度もなかった。


夕方が近づく頃、紗良はもう一度女性のそばへ行った。

女性は乾かしていた布を一枚ずつ取り込み、端を揃えている。

男は拠点の反対側で、戸田たちと台の続きを作っていた。



「少し、いい?」



女性の手が止まる。



「黒田さんの話?」


「うん」



女性は布へ目を落とした。



「言わないでって言ったよね」


「私から勝手には言わない」



紗良は女性の隣へ座る。



「黒田さんに話したら、今までどおりではいられなくなるかもしれない」


「だったら――」


「でも、今自分が我慢してるのも、もう今までどおりじゃないと思う」



女性は何も言わなかった。



「あの人がここにいられることも、黒田さんが怒らないことも、皆が今までと同じでいることも」



紗良は、女性の手元にある布を見る。



「全部、あなた一人で守ろうとしてる」


「だって、私が言ったら壊れるから」


「うん。変わると思う」



紗良は否定しなかった。



「でも、変わることと、あなたが我慢し続けることは同じじゃないよ」



女性の手が、畳みかけた布の上で止まる。



「黒田さんが怒るのは、私も想像できる」


「黒田さんが、あなたのことを大事にしてるのも分かってる」



女性が紗良を見た。



「……気づいてたの?」


「何となくだけど」


「あの人を殴るかもしれない」


「だから、一人で話さなくていい」



紗良は女性を見る。



「私も一緒にいる」


「それでも、止められなかったら?」


「最初に、最後まで聞いてほしいって言おう」



止められるとは言わなかった。

代わりに、紗良は続けた。



「まずは黒田さんだけ。どこまで話すかも、先に一緒に決めよう」


「皆には?」


「あなたが話していいって言うまでは、私からは言わない」



女性は畳んだ布を見つめていた。

拠点には、夕食の支度を始める音が広がっている。


黒田は火の近くで、戸田と明日の話をしていた。

いつもと同じ場所に、いつもと同じ人たちがいる。


女性は長い間、その光景を見ていた。



「……紗良も一緒に来て」


「うん」



女性は畳み終えた布を置いた。

すぐには立ち上がれなかった。


紗良も急かさず、隣で待った。

やがて、女性が自分から立ち上がる。


紗良も続いた。


二人は、今までどおりに見える場所へ並んで歩き出した。



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