第47話 明かりの外
物置までは、火のそばから歩いてもそれほど遠くない。
それでも明かりが背中へ回ると、足元は急に見えづらくなった。
女性は抱えた縄を少し持ち直す。
「そこ、段差あるよ」
「分かってる」
男は先に段差を越え、屋根の下へ入った。
物置と呼んでいても、柱を立てて屋根を掛けただけの簡素な場所だった。地面には何本かの木が並べられ、その上に縄や道具が置かれている。
女性は乾いた縄の置き場所を確かめた。
「前のやつ、少し奥へ寄せてくれる?」
「これ?」
「その隣」
「ああ、こっちか」
男が古い縄の束を動かす。
女性は空いた場所へ、自分が持ってきた束を下ろした。
束の下に挟まっていた細い枝が転がる。
男が拾い、入口の脇へ投げた。
「それ、明日また入ってくるんじゃない?」
「じゃあ、どこに置けばいいんだよ」
「外まで持っていって」
「細かいな」
「ここへ置くものが増えたからね。一回散らかると、必要な時に探せなくなるよ」
男は面倒そうに言いながらも、枝を拾い直して屋根の外まで運んだ。
「これでいい?」
「うん。ありがとう」
「それもここでいい?」
「うん。下の縄と向きだけ合わせて」
「向きまで決まってるのかよ」
「崩れたら、また積み直すことになるでしょ」
「はいはい」
男は笑いながら縄を置いた。
女性も小さく笑い、重なった束の端を揃える。
火のそばから、誰かの大きな声が聞こえた。
続いて、何人かが笑う。
何を話しているのかまでは分からなかったが、いつもの夜と変わらない声だった。
「これで全部。戻ろう」
女性は縄から手を離し、入口へ身体を向けた。
その腰へ、男の腕が回った。
引かれた身体が、男の胸元へぶつかる。
「なあ、いいだろ?」
言葉の意味より先に、近すぎる顔が目へ入った。
女性は何が起きたのか分からず、男の腕を見る。
「え、何?」
男は答えなかった。
腰へ回した腕を離さないまま、もう一方の手を女性の腿の外側へ置く。
衣服の上から触れられていると気づいた瞬間、女性はその手を払いのけた。
「ちょっと、何。やめて」
「大丈夫だって」
男が、もう一度身体を引き寄せる。
女性は両手を男の胸へ当てた。
「大丈夫じゃない。離して」
「何だよ、急に」
急に、という言葉が理解できなかった。
女性は、火を離れてからのやり取りを辿ろうとした。
二人で残ろうと言ったわけでもない。
男が半分持つと言い、自分は縄を任せた。
それだけだった。
女性が腕の中から抜けようとすると、男の手が腰から首の後ろへ移った。
そのまま顔を近づけられ、女性は横を向く。
男の唇は、女性の口元へ触れなかった。
「やめてって言ってるでしょ」
女性は男の胸を強く押した。
今度は身体が離れた。
男は押された場所へ目を落とし、それから女性を見る。
「でも、お前だって俺と二人で来ただろ」
「縄をしまいに来ただけ」
男が、積み終えた縄へ一度目を向けた。
それでも、女性の答えを受け入れたようには見えなかった。
「今までだって、ずっと――」
「戻る」
女性は男の横を通ろうとした。
伸びてきた手が、その腕を掴む。
「待ってくれ」
「離して」
「違う。待ってくれ」
男は女性の腕を掴んだまま、一歩だけ入口側へ動いた。
屋根の外にある火の明かりが、男の肩に遮られる。
女性は空いている方へ身体をずらそうとした。
そこには、積み上げた道具がある。
反対側には男が立っていた。
「どいて」
「だから、少し待てって」
「何が違うの」
「俺は、無理やりとか、そういうつもりじゃなくて」
「離して」
「だから、ちゃんと話せば――」
女性は腕を引いた。
男の指に、力が入る。
先ほどまで隣で笑っていた人と、今、自分の腕を掴んでいる人が、女性の中でうまく重ならなかった。
外から、また笑い声が聞こえた。
すぐそこに人がいる。
少し大きな声を出せば、誰かには届く。
それなのに、声が喉の奥から出てこなかった。
男の向こうには、火が見えている。
戻るには、その横を通らなければならない。
「離して」
もう一度口にした声は、自分でも驚くほど小さかった。
男は何かを言おうとした。
女性は掴まれた腕を見たまま、言った。
「怖い」
男の口が止まった。
男は、女性の腕を掴んでいる自分の手を見た。
それから、女性の顔を見た。
男の指が、一本ずつ離れた。
女性はすぐに腕を引き、胸元へ抱える。
男が一歩下がったことで、火までの道が見えた。
「……そんなつもりじゃなかった」
女性は答えなかった。
今ここで何を答えても、また自分の言葉とは違う意味に受け取られるような気がした。
男の横を通り、屋根の外へ出る。
背中へ視線を感じたが、振り返らなかった。
追ってくる足音はなかった。
火へ近づくにつれ、そこにいる者たちの姿が見えてくる。
戸田が薪を一本持ち上げ、火の番をする者へ何かを言っていた。
結衣は自分の寝床へ戻るところだった。
紗良は三浦と、空になった器を重ねている。
誰も、こちらを見ていない。
誰も、物置で何があったのか知らない。
女性は歩みを緩めた。
あと少し進めば、火の明かりが足元へ届く。
誰かに声を掛けられたら、いつもどおり返事をしなければならない気がした。
何をしていたのか聞かれたら、縄をしまっていただけだと答えることになる。
それは間違っていない。
一人でも大丈夫だと、自分は言った。
男は、二人の方が早いと言った。
自分は、縄を半分任せた。
そこから先の何かを許した覚えはなかった。
それなのに、その言葉を口にすることもできそうになかった。
女性は明かりへ入る手前で足を止めた。
火から離れるように向きを変え、拠点の外側へ数歩進む。
少し離れた地面へしゃがみ、掴まれていた腕を押さえた。
痛みがあるのかも分からなかった。
ただ、指のあった場所だけが、自分の身体ではないように感じられた。
手を離せば、その感覚まで広がってしまう気がして、腕を押さえる指に力が入る。
すぐに誰かを呼ぶこともできた。
紗良なら、話を聞いてくれるかもしれない。
黒田へ言えば、何かを決めようとするだろう。
そこまで考えたところで、女性は目を閉じた。
何を、どこから話せばいいのか分からなかった。
男が自分へ何をしようとしたのかさえ、まだ自分の言葉にしたくなかった。
息を整えようとして、ゆっくり吸う。
途中で止まり、もう一度やり直した。
物置の方は見なかった。
火のそばでは、変わらず会話が続いている。
薪が崩れ、誰かが火ばさし代わりの枝で直す。
その音に重なるように、また笑い声が上がった。
火の明かりの中には、さっきまで自分が座っていた場所が残っていた。
そこまで、ほんの数歩しかない。
女性は、その数歩を戻ることができなかった。




