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はじまりの岸  作者: インフィ
集団生活編

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第45話 二つの距離



新しい罠を仕掛けてから、さらに数日が過ぎた。


二つの罠の見回りは、五人ずつの二組で行われていた。

顔ぶれは毎日少しずつ入れ替わる。

それでも組み合わせを決める時には、直人と相希がどちらへ入るのかを、先に確かめる者がいた。


その朝も、黒田が見回りへ向かう者の名を呼ぶ。



「新しい方は、直人と――」



続けて四人の名が呼ばれた。

直人は自分の名に手を上げ、そばに置いてあった縄を取る。



「遠い方は、高瀬と――」



高瀬の名に続いて、火のそばにいた男が呼ばれる。

男はすぐに立ち上がり、水の入った容器を手に取った。


四人目に、昨夜は黒田の近くで話していた男の名が呼ばれた。

その男は一度だけ高瀬を見たが、何も言わずに道具のそばへ移る。


五人目まで呼び終えると、黒田は残る者の仕事も割り振っていった。



「相希は、遠い方じゃないのか?」



薪の近くにいた男が尋ねた。

相希は、戸田と並べていた予備の縄へ目を落とす。



「今日は拠点に残る。傷んだ部分を組み直しておきたい」


「でも、何か掛かってたらどうする?」



問いかけた男は、高瀬たちを見た。



「昨日まで一緒に見てる。道も罠も分かってるよ」



高瀬が答える。



「いや、高瀬たちじゃ分からないって意味じゃなくて」


「分かってる」



短い返事だった。

相希は手にしていた縄を置く。



「その場で判断するために、五人で行くことにしたんだと思う。罠の状態も、昨日までに共有してる」



男は少し迷ってから、うなずいた。



「なら、いいけど」



誰も口を挟まなかった。


男は相希を見たあと、高瀬たちへ視線を戻した。

どちらにも、それ以上は何も言わなかった。


見回り組が支度を始める。

その時になって、呼ばれなかった者たちも、自分の仕事へ向き直った。


組み合わせに異を唱える者はいない。

それでも、誰が誰と森へ入るのかを、皆が前より少しだけ気にするようになっていた。



「気をつけてね」



水を渡した女性が言った。

男は受け取った容器を腰へ結びながら、軽く手を上げる。



「そっちもな。戻ったら手伝う」


「戻ってきても、途中で投げ出さないでよ」


「一回も投げ出してないだろ」


「餃子が食べたいって騒いで、手を止めたじゃん」


「あれは休憩」



近くで聞いていた結衣が笑った。



「長い休憩だったよね」


「結衣まで言うのかよ」



黒田から声が掛かる。

男は笑ったまま女性へ背を向け、他の者たちと森へ入っていった。


見回り組が出たあと、拠点に残った者たちもそれぞれの仕事へ散った。

紗良と結衣、それに女性は、乾かしておいた植物の繊維を束ね、縄を編み始めた。


隣では薪が割られ、少し離れた場所では食料の残りが確かめられている。

交わされる声は少なくない。

誰かが足りない道具を尋ねれば、別の誰かが答える。

重いものを運ぶ時には、声を掛ける前に手が増えた。


少し離れた場所では、幼体を逃がした日の話し合いで別の意見を口にしていた二人が、一本の太い枝を運んでいた。



「持ち上げるぞ」


「待って。こっちを先に持たないと引っ掛かる」


「分かってる」


「なら、少し待ってくれ」



片方の男が枝から手を離し、絡んでいた細い枝を折る。



「もういい」


「じゃあ、せーの」



二人は歩幅を合わせ、太い枝を薪のそばへ下ろした。



「もう少し奥じゃないか」


「ここでも変わらないだろ」


「人が通る時、邪魔になる」



男は置いた枝と通り道を見比べた。

何も言わずに片側を持ち上げ、少しだけ奥へずらす。



「次、あれでいいか?」


「ああ」



交わしたのは、作業に必要な言葉だけだった。


二人の手が同じ枝を持つことに迷いはない。

けれど、以前ならその場で消えていたはずの小さな苛立ちが、言葉の端へ残るようになっていた。


幼体を逃がした日のあとも、共同体の仕事が止まることはなかった。


昼を少し過ぎた頃、森へ入っていた者たちが戻ってきた。

最初に姿を見せた高瀬が、肩に掛けていた縄を下ろす。



「今日も空だ」



その一言で、作業をしていた何人かが顔を上げた。



「遠い方?」


「ああ」



高瀬はそれだけ答え、水へ向かった。


あとから入ってきた者たちも、使った道具を元の場所へ戻していく。

男は腰から水を外すと、約束どおり女性たちのもとへ来て、その場へ腰を下ろした。



「どこまでやった?」


「そこにある分まで。次はこれ」



女性が繊維の束を渡す。

男は受け取り、隣に置かれた縄を見ながら編み始めた。


少し遅れて、直人たちの組も戻ってきた。

その手に獲物がないことは、報告を聞くまでもなく分かった。



「新しい方も?」


「空だったよ」



直人は答えながら、肩に掛けていた縄を地面へ下ろした。



「両方ともか」



誰かがつぶやいた。

朝から続いていた作業の音が、少しずつ小さくなった。



「あの時、少しでも肉が増えてたらな」



薪を運んでいた誰かが、独り言のように言った。



「また、その話か」



太い枝を一緒に運んでいた男が、手を止めずに返した。



「蒸し返してない。両方とも空だったから、思っただけだ」


「聞こえるように言えば、同じだろ」


「事実は事実だ」



二人の声は大きくなかった。

それでも、近くにいた者たちの手は止まった。



「濡れた縄は、先に広げておいてくれ。束ねたままだと傷む」



戸田が、地面に置かれた道具を見ながら言った。

直人が縄の端を持ち上げる。



「俺、こっち持つ。誰か反対お願い」



近くにいた男が歩み寄り、もう一方の端を拾った。

言い合っていた二人も、それぞれ止めていた手を動かし始める。


話が終わったわけではなかった。

ただ、その続きを口にする者がいなくなった。


ほどなくして、拠点には作業の音が一つずつ戻った。

紗良と結衣が、新しい繊維を取りに席を外す。

男は手元の縄を見たまま、声を落とした。



「なあ」


「何?」


「お前も、獲った方がよかったと思うだろ?」



女性の指が止まった。

すぐには答えず、男の顔を見る。



「あの幼体?」


「ほかにないだろ」



女性は編みかけの縄へ目を戻した。



「高瀬さんが言ってたことは分かるよ」


「だよな」


「でも、私は逃がしてよかったと思う」



男の手が止まった。



「そっちなんだ」


「そっちって?」


「いや……黒田さんの方」



女性は少し考えてから、首を横へ振った。



「誰かの方っていうより、私はそう思っただけ」


「でも、肉はもうほとんどない」


「うん」


「次がいつ掛かるかも分からない」


「それも分かってる」


「じゃあ、なんで?」



責めるような強さはなかった。

男は、本当に分からないという顔をしていた。


女性は、指先に絡んだ細い繊維をほどいた。



「小さかったから」


「小さくても、肉にはなるだろ」


「そうだけど」



女性は言葉を探すように、少しだけ間を置いた。



「あれも獲ってたら、次に同じくらいのが掛かった時も、きっと獲ってたと思う」


「それは、その時に考えればいいだろ」


「その時も、今は余裕がないって言うんじゃないかな」



男は何も返さなかった。



「私も、お腹いっぱい食べたいよ。逃がして、これで安心だとも思ってない」


「だったら――」


「分かってても、同じ答えにならないことはあるでしょ」



男は女性を見た。

女性は、そこで初めて少し困ったように笑った。



「私だって、どっちが正しいかは分からないよ」



男は持っていた繊維へ視線を落とす。



「……意外だった」


「何が?」


「お前も、同じだと思ってた」


「なんで?」



男は口を開きかけ、やめた。



「何となく」


「何それ」



女性は小さく笑った。

男はすぐには笑わなかった。


そのまま黙り込んだ男を見て、女性が首を傾げる。



「怒った?」


「怒ってない」


「本当に?」


「意見が違っただけだろ」



女性は男の手元を見た。



「うん。だから、そこ、また緩んでる」


「今それ言う?」


「意見が違うことと、今やってること、関係ある?」



男は緩んだ部分を指で押さえた。



「ないけどさ」


「じゃあ、もう少し強く引いて」


「切れない?」


「それ、さっきも聞いた」


「答えを忘れた」


「切れない」



女性が端を持ち、男が反対側を引く。



「このくらい?」


「もう少し」


「厳しくない?」


「誰かさんが途中で休憩するから」


「もうしないって」



今度は、男の口元にも笑みが戻った。

紗良と結衣が新しい繊維を抱えて戻ってくる頃には、二人の間でも、また作業の話が続いていた。


夜。


食事を終えたあとも、火の周りにはいくつかの会話が残っていた。

座る場所を決めているわけではない。

それでも、話し始める時に向ける顔は、数日前からあまり変わらなくなっていた。


高瀬の近くでは、明日の見回りと罠の話が続いている。

黒田のそばでは、薪の使い方と食料の残りが話されていた。

そのどちらからも少し離れた場所で、紗良と結衣、女性が今日の作業について話している。


男は高瀬のそばに座っていた。



「明日も、今日と同じ五人で行くか」



高瀬の言葉に、男がうなずく。



「その方が早いと思う。もう道も分かってるし」


「また同じ組なのか?」



火を挟んだ向こう側から声が飛んだ。

黒田の近くに座っていた男が、高瀬たちを見ている。



「人を替えながら、皆が場所を覚える話だっただろ」


「全員を一度に替えるとは言ってない」



高瀬が答える。



「でも、同じ顔ばかり残ったら、結局ほかのやつが分からないままだ」



高瀬はすぐには返さなかった。

黒田が二人を見てから口を開く。



「二人だけ替えよう。三人残れば、道も教えられる」



男は少し考えたあと、うなずいた。



「それならいい」


「誰を替えるかは、朝に決める」



話はそこで収まった。

誰も声を荒らげていない。

決め方にも、無理はなかった。


それでも、翌日の仕事を決めるだけの会話にまで、誰と誰が組むのかを気にする言葉が混じるようになっていた。



「明日は、先に奥の方から見るか」


「そうだな。帰りに近い方を見れば、時間も読みやすい」



高瀬の言葉に答えながら、男は火の向こうへ目を向けた。

女性が、紗良たちと笑っている。


昼間と何も変わらない顔だった。

何度目かに視線が合う。


女性は男の顔を見たあと、自分の横に置いていた小さな籠を持ち上げた。

少し身体をずらし、空いた地面を手で軽く叩く。



「こっち、空いてるよ」



男は高瀬を見る。



「続き、明日でいい?」


「大体決まった。いいぞ」



男は立ち上がり、火の向こう側へ回った。



「何の話?」


「結衣が、昼に見つけた実を食べようとした話」


「食べてないよ。匂いを嗅いだだけ」


「口元まで持っていってたじゃん」


「それは食べてない」



男が女性の隣へ腰を下ろす。



「結衣なら、そのうち何でも食べそうだな」


「ちょっと、どういう意味?」



結衣の声に、紗良が笑う。

女性も笑い、男もその話へ加わった。


火の周りにある会話の輪は、最後まで一つにはならなかった。

それでも、輪と輪の間を移る者がいなくなったわけではない。


女性が空けたのは、親しい仲間が一人座れるだけの場所だった。

男には、そのわずかな場所が、自分のために残されていたように思えた。



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