第44話 同じ火
翌朝、黒田はいつもと同じ場所に立ち、見回りへ出る者の名前を呼んだ。
昨夜の話し合いに触れる者はいない。
三浦は火のそばで朝の食事を分け、戸田は持っていく縄の傷みを確かめている。
目を覚ました者から器を受け取り、食べ終えた者が道具を持つ。
やっていることは、昨日までと変わらなかった。
「遠い方の罠は、相希と戸田に頼みたい」
相希と戸田がうなずく。
黒田は続けて三人の名前を呼んだ。
呼ばれた者が立ち上がるたび、周囲の視線が一度だけその顔へ向いた。
五人。
昨日決めたとおり、意見が同数にならない人数だった。
「外した方の罠は、新しい場所を探す。俺と高瀬、それから――」
黒田が二人の名前を呼ぶ。
高瀬を含めて四人になった。
あと一人。
以前なら、手の空いている者か、前日に森へ入っていない者が選ばれるだけだった。
今朝は、誰もすぐに手を挙げない。
黒田のそばに立つ者と、高瀬の横に立つ者を見比べているようにも見えた。
直人は残っていた汁を飲み終え、器を置いた。
「じゃあ、俺が行くよ」
何人かの肩から、わずかに力が抜けた。
「直人は昨日、水だっただろ」
黒田が言う。
「だから今日は森。交代した方がいいでしょ」
「水をこぼさなくなったって、自慢してたのに?」
結衣が笑いながら言った。
「もう極めたから。次の仕事へ進むの」
「そんなに早く極められる仕事だったんだ」
小さな笑いが起きた。
直人も笑いながら立ち上がり、黒田たちの方へ歩く。
それで五人になった。
誰も、直人でなければならないとは言わなかった。
それでも、最後の一人が直人に決まると、もう組み合わせを気にする者はいなかった。
相希のいる五人と、直人のいる五人。
そう分けると決めた者はいなかった。
二人も、自分たちが一人ずつ入ったことへ特別な意味を持っていないようだった。
紗良は見回りへ持っていく水を渡しながら、何人かの表情を見ていた。
昨日までより安心しているように見える。
何に安心したのかまでは、分からなかった。
「暗くなる前には戻ってきてね」
紗良が最後の器を直人へ渡す。
「分かってる。何も見つからなくても帰ってくるよ」
「何かは見つけてきて」
「急に厳しくない?」
紗良が笑う。
その声に、見回りへ出る者も、残る者も同じように笑った。
二組は途中まで同じ道を歩き、それぞれの向かう方へ分かれた。
相希たちの姿が木々の間へ消えると、黒田が先頭に立つ。
高瀬は少し後ろを歩き、地面へ残った跡を見ていた。
「この辺りは駄目か?」
黒田が、緩く傾いた場所を指す。
高瀬は足を止め、落ち葉の上へしゃがんだ。
「通った跡はある。でも、古い」
「獣道には見えるけど」
一緒に来た男が言った。
「前は使ってたんだと思う。今も通るかは分からない」
高瀬は地面へ触れ、指先についた土を見る。
「ここへ置くなら、何日か様子を見た方がいい」
「じゃあ、印だけ残して先を見るか」
黒田が近くの木へ細い蔓を結ぶ。
高瀬は何も言わず、その先へ歩き始めた。
黒田も後へ続く。
二人の間に、昨夜の話は出なかった。
獣の通り道を探す時は高瀬が前へ出る。
支点に使えそうな木があれば、黒田が罠を置く場所を確かめる。
意見が違っていても、森の中で必要なことは変わらなかった。
途中、二人が別々の方向を見て足を止めた。
「こっちじゃないか」
黒田が左を示す。
「俺は右だと思う」
高瀬が答える。
後ろにいた二人の視線が、直人へ向いた。
直人は自分へ集まった目を見て、首を傾げた。
「俺に聞いてる?」
一人が曖昧に笑った。
黒田も直人を見る。
「直人は、どっちがいいと思う?」
「お前なら、どっちへ行く?」
高瀬も尋ねた。
直人は左と右を順番に見た。
それから、二人が示したどちらでもない、正面の木々を指す。
「じゃあ、俺はこっち」
黒田と高瀬が、直人の指した方を見る。
「……そっち?」
「うん。だって、俺も選んでいいんでしょ?」
「いや、そっちは駄目だ」
黒田がすぐに返した。
「太い木がない。左なら、罠の支点に使えそうな木がある」
「獣が通った跡もない」
高瀬も地面を見ながら言う。
「右には跡が続いてる。進むなら、そっちだ」
「じゃあ、こっち」
直人は正面へ向けていた指を下ろし、今度は高瀬が示した右側を指した。
「今度は右か?」
「跡が続いてるんでしょ? だったら、先に使えそうな木があるか見ればいいじゃん」
「なかったらどうする」
「その時は黒田さんの方。太い木があるのは分かってるんでしょ?」
「ああ」
「ね? だから、俺より二人の方が森のこと知ってるじゃん」
高瀬は直人を見た。
「お前、最初から適当に選んだだろ」
「だって、俺に聞くから」
黒田が息を吐くように笑った。
「行くぞ」
高瀬が右へ歩き始める。
黒田もその後へ続いた。
「ほら、決まった」
「お前が決めたみたいに言うな」
先ほどまで直人を見ていた男も笑い、二人の後へ歩き始めた。
残る一人も、その後に続いた。
その日は、罠を仕掛ける場所までは決まらなかった。
いくつか印を残し、暗くなる前に拠点へ戻る。
相希たちも少し遅れて帰ってきた。
罠は空だった。
壊れた部分も、新しい痕跡もなかった。
「じゃあ、明日も同じ組?」
男の一人が尋ねる。
黒田が答えるより先に、別の者が口を開いた。
「同じ人ばかりだと疲れるだろ。交代した方がいい」
「でも、場所を見た人がいた方が早くないか?」
「全員替える必要はないよ」
直人が言った。
「何人か残って、何人か替われば場所も分かる。奇数にもできるでしょ」
黒田が人数を数え、翌日の名前を決めていく。
相希は遠い方から外れ、新しい場所を探す組へ入った。
直人は拠点へ残る。
今度は、相希の名前が呼ばれたところで、それまで組み合わせを見ていた者がうなずいた。
翌日も、新しい場所は決まらなかった。
遠い方の罠にも、何も掛かっていない。
その次の日、使えそうな獣道が見つかった。
高瀬が新しい跡を確かめ、戸田が近くの木を見て回る。
相希は、罠を作った時に縄の力が逃げない距離かを確かめた。
三人の意見が揃い、そこへ仕掛けることになった。
作業は、以前より早かった。
誰かが細かく指示を出さなくても、必要な材料を持つ者、地面を整える者、縄を結ぶ者へ自然に分かれる。
直人も相希も手を出していない部分で、罠は形になっていった。
拠点でも同じだった。
水を運ぶ者が戻る前に、別の者が空いた器を並べる。
薪を割る音が止まれば、休んでいた者が代わる。
三浦が採ってきたものを広げると、結衣と紗良が傷んだ葉を除いていく。
誰かが足りない仕事を探さなくても、暮らしは進んでいた。
それでも、休む時に座る場所は少しずつ同じになった。
新しい罠の話をする者は、高瀬の近くへ集まる。
幼体を逃がした場所について話す者は、黒田のそばで声を落とす。
どちらの話にも加わらない者たちは、少し離れた場所で水や薪の話をしていた。
同じ相手と話そうと決めている者はいない。
一度会話が途切れたあと、次に口を開く者が、近くにいる相手を選んでいるだけだった。
三浦が取り出す肉も、日ごとに減っていった。
最後の葉包みを開いた日、三浦は中に残っていた肉を細く裂いた。
汁へ入れると、形が見えなくなるほど小さかった。
それでも一人ずつ器を受け取り、誰も何も言わずに食べた。
翌日、汁の中から肉がなくなった。
代わりに根が少し多く入り、刻んだ山菜が浮いている。
「前にも食ってたはずなんだけどな」
戸田が器の中を見ながら言った。
「何が?」
三浦が尋ねる。
「肉のないやつ」
「不満なら食べなくていいよ」
「そうは言ってない」
戸田は器を抱え込み、一口飲んだ。
「うまい。肉がなくても、すごくうまい」
「急に遅い」
三浦の返しに、笑い声が上がった。
黒田も、高瀬も笑っていた。
離れた場所にいた者たちの声まで重なり、その瞬間だけ、火の周りに一つの笑いが広がる。
笑いが消えると、高瀬の近くでは翌日の見回りの話が始まった。
黒田のそばでは、新しい罠の周囲をどこまで歩くかを話している。
そのどちらにも加わらない者たちは、結衣が見つけた食べられそうな実の話を聞いていた。
直人は器を持ったまま、一つの話へ加わり、少しすると別の声に呼ばれた。
「直人、明日は森へ行けるか?」
「行けるよ。どっち?」
尋ねた男は、一瞬だけ黒田と高瀬を見た。
「新しい方。最初の見回りだから」
「分かった」
直人が答えると、男は安心したようにうなずいた。
少し離れたところでは、相希も別の者から翌日の予定を聞かれていた。
「相希は遠い方へ行ける?」
「問題ないと思う」
「じゃあ、そっちは相希に頼もう」
誰も二人へ、判断を任せるとは言わなかった。
見回りを頼んでいるだけだった。
それでも、二つの組に一人ずつ名前が入ると、翌日の話はそれ以上続かなかった。
紗良は空になった器を集めながら、火の周りを見た。
全員が同じ食事を取り、同じ見回りの結果を待ち、同じ場所で夜を過ごしている。
一人で座っている者はいない。
誰かが水を求めると、近くの者が器を取り、隣へ渡した。
器はいくつもの手を通り、火の反対側まで運ばれていく。
「ありがとう」
受け取った者が言う。
「飲んだら戻して」
声が返り、また別の場所で笑いが起きた。
誰かを嫌っているわけではなかった。
協力することをやめた者もいない。
火は、昨日までと変わらず一つだった。
その周りにできた会話の輪だけが、いつの間にか三つへ分かれていた。




