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はじまりの岸  作者: インフィ
集団生活編

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第43話 誰が決める



黒田は、外してきた縄を地面へ置いた。

土と血の付いた縄へ、火のそばにいた者たちの視線が集まる。



「幼体だった」



黒田が言った。



「俺が逃がした」



誰も、すぐには声を出さなかった。

肉を持ち帰れなかったことは、五人の手を見れば分かる。

だが、罠に何も掛かっていなかったのと、掛かった獲物を逃がしたのとでは意味が違った。


直人は黒田と高瀬の顔を交互に見た。



「まず、何があったか聞かせて」



黒田は、小さな獣が罠に掛かっていたことを話した。


身体は一頭目の半分にも満たなかったこと。

縄が脚へ食い込んでいたこと。

このまま話し続ければ、傷が深くなると判断したこと。

そして、罠を外して逃がしたこと。


黒田が話している間、高瀬は口を挟まなかった。

すべてを聞き終えたところで、腕を組んだまま言った。



「俺は、逃がすのに反対した」



黒田は何も言わない。



「最後に止めなかったのは、納得したからじゃない。あのまま話してたら、もっと脚を傷めると思ったからだ」



五人と一緒に戻ってきた男が、地面へ目を落とした。



「俺たちも、何も言えなかった」



隣にいたもう一人の男も、小さくうなずく。



「掛かってるって分かった時は、肉を持って帰れると思った。でも、実際に見たら……どっちにすればいいのか分からなくなった」



女性は、持ち帰った道具を足元へ置いた。



「逃がしてよかったとも、仕留めた方がよかったとも、今も言えない」



三人とも、黒田の判断へ賛成したとは言わなかった。

高瀬が間違っていたとも言わない。

その言葉を聞いていた男の一人が、火の向こうから口を開いた。



「でも、そんなに小さかったなら、逃がしてよかったんじゃないか」



すぐ隣で、別の男が顔を上げる。



「小さくても肉にはなるだろ」


「一日か二日のために、幼体まで獲るのか?」


「その一日か二日が必要なんじゃないのか。肉は、もうほとんど残ってないんだぞ」



離れたところから、短い同意の声が上がった。



「俺も、そう思う」



その声にうなずく者がいる。

一方で、最初に話した男のそばでも、二人が顔を見合わせていた。



「小さいのまで獲ってたら、そのうち大きくなるやつがいなくなる」


「黒田さんが言ってるのは、そういうことだろ」



今度は、反対側から同意が返った。

誰かが立ち位置を決めたわけではない。

ただ、似た言葉が同じ場所から続くようになっていた。


三浦は火のそばに置かれた葉包みを見た。



「肉がなくなっても、食べるものが全部なくなるわけじゃないよ」



全員の視線が三浦へ向く。



「山菜も根もある。でも、肉がなくなれば、今より身体が動かなくなる人は出ると思う。水も薪も、罠の見回りも、今と同じようにできるかは分からない」



それは、どちらかを選ぶ言葉ではなかった。

だが、聞いた者たちは、自分が立ちかけていた側へ都合よく受け取った。



「だから、食える時に食っておくべきなんだよ」


「違うだろ。先があるから、今だけで決めるなって話だ」



声が重なる。

直人は何かを言おうとしたが、その前に一人の男が高瀬へ身体を向けた。



「納得してないって言うけど、最後は止めなかったんだろ。それなら、同意したのと同じじゃないか」



高瀬の顔から、わずかに残っていた迷いが消えた。



「違う」



短い声が、火のそばに落ちる。



「俺は同意してない。話してる間にも、あいつの脚へ縄が食い込んでた。あのまま続けるくらいなら、黒田に任せるしかなかっただけだ」


「でも、止めなかったことは同じだろ」


「だから、それを同意って言うな」



高瀬の声が強くなる。

男も目を逸らさなかった。

その間へ、黒田の声が入る。



「高瀬は同意してない」



男が黒田を見る。



「逃がしたのは、俺の判断だ。そこは一緒にするな」



黒田が高瀬を庇ったようにも聞こえた。

だが、高瀬の表情は緩まなかった。


別の男が、五人と一緒に戻った男へ尋ねる。



「本当に、二日分にもならないくらいだったのか?」


「正確には分からない。でも、一頭目と比べるような大きさじゃないほど、ずっと小さかった」


「それでも、少しは取れたんだろ」


「お前は現場を見てないだろ。あの大きさも、傷も見てない」


「見てなくても、肉がもうほとんど残ってないのは分かる」



幼体をどうするべきだったのかという話が、少しずつ別の形へ変わっていく。


どちらが現実を見ているのか。

どちらが皆のことを考えているのか。

言葉の向きが、獣から人へ移りかけていた。


その時、森の方から足音が聞こえた。

相希と戸田たちが、拠点へ戻ってくる。


四人の手にも、肉はなかった。

言い合っていた者たちが口を閉じる。

戸田は集まった人の多さを見たあと、地面に置かれた縄へ目を向けた。



「何かあったのか?」


「その前に、そっちは?」



高瀬が尋ねる。

相希は持っていた道具を下ろした。



「空だった。罠に異常はない。周囲にも、新しい痕跡は見つからなかった」



その報告に、高瀬の近くにいた男が息を吐く。



「ほら。次がいつ掛かるかなんて、やっぱり分からないんだ」


「獣が少ないかもしれないなら、なおさら幼体まで獲るべきじゃないだろ」



同じ報告が、正反対の理由へ使われる。

相希は二人を見たが、すぐには何も言わなかった。


戸田が直人から話を聞き、罠で起きたことを確かめる。



「現場で決めるしかなかったんだろ」



戸田が言った。



「そのために、経験のある人間を入れて組んだ。戻ってくるまで罠へ残してたら、もっと傷が深くなってたかもしれない」


「でも、皆が食べる肉だぞ。現場にいた一人だけで決めていいことなのか?」


「黒田さんだけで見回りに行ったわけじゃない」


「他の三人は、何も言えなかったって言ってるだろ」



戸田が口を閉じた。


現場に任せるために、拠点へ戻らず対応できるようにした。

だが、現場で意見が分かれた時に誰が決めるのかは、決めていなかった。


戻ってくれば傷が深くなる。

その場で決めれば、拠点に残った者は判断へ加われない。

どちらにも、今起きたことを変えずに済む答えはなかった。



「高瀬さんは、肉が欲しいから言ってるんじゃないと思う」



それまで黙っていた紗良が言った。

多くの視線が向くと、紗良は少し言葉を探した。



「違ったら、ごめん。でも、次がいつ掛かるか分からないまま、食べられるものを逃がすのが怖かったんじゃないかな」



高瀬は紗良を見た。

すぐには答えず、やがて小さくうなずく。



「そうだ。獲りたいから獲れって言ってるんじゃない。何も掛からない日が、この先どれだけ続くか分からないんだ」



紗良は今度は黒田を見る。



「黒田さんも、可哀想だからだけじゃないと思う」



黒田の眉が、わずかに動く。



「幼体まで獲ることが、これから普通になるのが怖かったんじゃないかな。今日だけって思っても、次も同じ理由で獲ることになるかもしれないから」



黒田は地面の縄へ目を落とした。



「ああ。そういうことだ」



二人の言い分は、先ほどより分かりやすくなった。

それでも、近づきはしなかった。


むしろ言葉を得たことで、うなずく側がはっきりしていく。

先ほどまで両方の話へうなずいていた者たちは、次第に口を開かなくなっていた。

どちらも分かると言えば、次はどちらを選ぶのかと聞かれる気がした。


黒田のそばにいた男が、直人へ顔を向ける。



「直人だって、あんな小さい獣なら逃がしただろ?」



問い掛けの形をしていたが、その中にはすでに望む答えが入っていた。

直人はすぐにうなずかなかった。



「分からない。俺は実際に見てないし、その場にいたら俺も迷ったと思う」


「でも、仕留めろとは言わないだろ」



男は、もう一度答えを求めた。

直人は少し黙ってから、黒田と高瀬を見た。



「……多分、すぐには言えなかったと思う」



その返事を聞き、男は小さくうなずいた。

直人がどちらも選ばなかったことより、自分に近い言葉だけを受け取ったようだった。


今度は、高瀬の近くにいた男が相希を見る。



「相希なら分かるだろ。次がいつ掛かるか分からないのに、食料を逃がすのは危険だよな?」



相希は少し間を置いた。



「次にいつ獲物が掛かるか分からない。それは事実だと思う」


「だろ?」


「でも、その事実だけで、幼体を仕留めるべきだったとは言えない」



反対側にいた者の顔が上がる。



「じゃあ、逃がして正解だったってことか」


「そうとも言ってない」



相希は地面の縄を見た。



「この森に、同じ獣がどれだけいるか分からない。幼体を一頭獲ることが先へどれだけ影響するのかも分からない。今ある情報だけでは、どちらが正しいとは断言できない」



答えが出ないことを説明した言葉だった。

それでも、双方から向けられる視線は消えなかった。



「じゃあ、次に同じことが起きたら、誰が決めるんだ?」



誰かが尋ねた。



「また黒田さんが決めるのか?」


「俺は、自分が決めるとは言ってない」


「その場にいる全員で決めればいいだろ」


「今日みたいに分かれたら?」


「そのたびに拠点へ戻るのか?」


「それじゃ、現場で対応できるようにした意味がない」



言葉が、また同じ場所を回り始めた。

直人や相希へ連絡する方法はない。


どちらかを必ず見回りへ入れれば、その二人がいないと決められないままになる。

だが、そのことを口にする者はいなかった。



「相希」



一人の女性が呼んだ。



「どうすればいいと思う?」



相希は、すぐには答えなかった。


黒田を見る。

高瀬を見る。


その周りで黙っている者たちにも視線を向けた。



「……とりあえず、次に同じことが起きたら、その場にいる全員が意見を言う」



相希は言葉を選びながら続けた。



「それでも分かれた場合は、多い方に合わせるのはどうだろう」


「同じ人数になったら?」


「意見が同数にならないように、今後の見回りも奇数で組んだ方がいいと思う」



誰も、すぐには話さなかった。

それまでと違い、次にすることが形になっていた。



「相希がそう言うなら、それが一番いいんじゃないか」



最初に声を上げた男へ、いくつかのうなずきが続く。



「全員で決めるなら、誰か一人のせいにもならないしな」


「人数も奇数なら、答えは出る」



短い同意が重なり、先ほどまで別々の場所から出ていた声が、一つの方向へ揃っていく。



「じゃあ、次からは相希が言ったやり方で決まりだな」



相希がわずかに口を開いた。

だが、その前に高瀬が言った。



「一人が決めるよりはいい」



皆の視線が黒田へ移る。

黒田はしばらく地面の縄を見たあと、短く息を吐いた。



「……分かった」



その一言で、話し合いを終える空気が広がった。

誰かが立ち上がり、止まっていた薪割りを再開する。

別の者は、地面へ置かれた道具を片づけ始めた。


相希が決めたわけではない。

求められたから、一つの方法を出しただけだった。


それでも皆の中には、相希が決めたやり方として残っていく。


紗良は、離れていく者たちの顔を見た。

納得したように見える者は少なかった。

多くの者が安堵していたのは、答えが見つかったからではなく、もう話さなくてよくなったからだった。


次からは、その場の人数で決まる。


だからこそ、誰がどちらへうなずいたのかが、今までより重くなる。

どちらにも決められなかった者も、次は数の一つにならなければならない。


決め方は決まった。

何を選ぶべきだったのかは、決まらないままだった。


火のそばでは、三浦が葉包みを開いていた。

薄い肉を取り出し、さらに細く切っていく。


全員へ行き渡るように。

明後日まで、残るように。



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