↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
はじまりの岸  作者: インフィ
集団生活編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

42/61

第42話 幼体


黒田は、踏み出しかけた足を止めた。

振り返ると、高瀬は棒を構えたまま、黒田を見ていた。



「逃がすのか」


「ああ」



高瀬の眉がわずかに寄る。



「肉は、もう明後日までしかない」


「明後日まではある」



同じ明後日の話をしているはずだった。

だが、二人の間にある時間は、同じ長さではなかった。

高瀬は罠に掛かった獣を見る。



「その先はどうする」


「こいつを仕留めても、少し延びるだけだ」


「少しでも延びる」


「この大きさだ。全員で分けたら、二日持つかどうかだぞ」


「二日あれば、次が掛かるかもしれないだろ」



黒田は何も言わず、高瀬を見た。

高瀬は棒の先を下げない。



「一日でも二日でも、次までつながれば意味はある」


「掛からなかったら?」


「その時は、また考えるしかない」


「次に掛かったのも、小さいやつだったらどうする」



高瀬が一度、口を閉じた。

小さな獣が前脚で地面を掻いた。

後ろ脚を引くたび、張った縄が低く軋む。



「今後も、小さいやつを獲り続けるなんて言ってない」


「でも、次も肉が減ってたら、今と同じことを言うだろ」


「今は今だ」



高瀬の声が少しだけ強くなる。



「先のことを考えるなって言ってるんじゃない。今、食えるものが目の前にあるのに、逃がす余裕があるのかって聞いてるんだ」



黒田の後ろで、男の一人が握っていた棒へ力を込めた。

だが、小さな獣が細い声を上げると、その指はわずかに緩んだ。

もう一人の男は、二人の顔を順に見たあと、縄が食い込んだ脚へ視線を戻した。

女性は予備の縄を持ったまま動かなかった。


誰も、うなずいてはいない。

誰も、首を横へ振ってもいなかった。


言葉が行き来するたびに、三人の視線だけが、高瀬と黒田の間を揺れていた。



「この森に、あの獣がどれだけいるか分からない」



黒田が言った。



「多いかもしれない。少ないかもしれない。俺たちは、まだ何も知らない」


「だったら、いなくなるとも限らないだろ」


「分からないからだ」



黒田は小さな獣を見た。



「小さいやつまで獲り続けたら、いつか獲るものがいなくなる。ここで生きていくなら、獲ることだけじゃなく、残すことも考えないと駄目だ」


「それは、残せるだけの余裕がある時の話だろ」


「今日食うものはある。明日もある。薄くすれば、明後日の分もある」


「なくなってからじゃ遅いんだよ」



高瀬は、罠へ続く縄を顎で示した。



「二つに増やしてから、何日空だったと思ってる。次がいつ掛かるかなんて、誰にも分からない」


「分かってる」


「分かってるなら、なおさらだろ」



黒田は答えなかった。

何日も空だった罠へ、ようやく獲物が掛かった。


肉がなくなるより先に、次を捕らえられる。

そう期待して作った罠だった。


高瀬の言っていることは間違っていない。

目の前の一頭を逃がしても、代わりの獲物が現れる保証はなかった。


小さな獣が、また身体を引いた。

縄の食い込んだ部分から、新しい血が滲む。


黒田はその赤い線を見た。



「今日、こいつを仕留めたら」



黒田は、ゆっくりと言葉を続けた。



「次に同じようなやつが掛かった時、今日も獲ったって話になる」


「今日だけで決まりになるわけじゃない」


「決めたつもりがなくても、そうなる」


「だったら、次は逃がせばいい」


「次だけ逃がす理由は?」



高瀬の口が止まった。



「こいつを仕留める理由が、肉が少ないからなら、次も同じだ」


「それでも」



高瀬は、言葉を押し出した。



「その一日をつなぐのが、生きるってことだろ」



黒田はすぐに返さなかった。

高瀬の声には、怒りだけがあったわけではない。


何も掛からなかった罠を、何日も見てきた。

残った肉が少しずつ薄くなっていくのも見てきた。

小さくても、目の前にある命を食料へ変えれば、全員の一日を伸ばせる。

それを捨てることが、高瀬には生きるための判断には見えなかった。



「俺たちは、生きなきゃいけない」



高瀬が言った。



「俺だって、生きる話をしてる」



黒田が返す。



「今日だけじゃない。この先も、ここで生きるための話だ」



森の中に、二人の荒い息だけが残った。

怒鳴ってはいなかった。


互いの言葉を聞いていないわけでもない。

分かっていないから対立しているのではなかった。


相手の言い分が分かっても、同じ方を選べなかった。


小さな獣が立ち上がろうとした。

だが、脚を引かれ、すぐに身体を崩す。


地面へ倒れた拍子に縄がさらに締まり、今までで一番高い声が響いた。

黒田が再び足を踏み出す。

高瀬が一歩横へ動き、その前へ立った。



「まだ決まってない」


「このまま話してたら、脚が駄目になる」


「だったら、今すぐ仕留めればいい」


「今日は、こいつを獲らなきゃ死ぬ日じゃない」


「なくなってからじゃ遅いって言ってるだろ」


「そのために、罠を二つにしたんだ」


「その罠が、何日も空だったんだよ」



二人の声が、初めて重なった。

高瀬は黒田の前から動かない。


黒田も引かなかった。

二頭目を捕らえたあと、獲物が掛かった時に誰が何をするかは決めた。


だが、掛かったものを必ず仕留めるのかまでは、誰も話していなかった。

決めた手順の中に、今の答えはなかった。



「勝手に決めるなよ」



高瀬が言った。



「この罠は、お前一人で作ったものじゃない」


「分かってる」


「逃がしたら、もう戻せないんだぞ」


「仕留めても戻せない」



高瀬の目が細くなる。

黒田は、その目を逸らさずに見返した。



「戻ってから、俺の判断だったって話す」


「そういう話じゃない」


「分かってる。でも、今は待てない」



また、縄が軋んだ。

小さな獣の身体は、最初に見つけた時よりも動かなくなっていた。

諦めたように伏せているわけではない。

息をするたびに腹が大きく上下し、立ち上がる力を失い始めていた。


高瀬は獣を見た。

次に黒田を見る。

その後ろにいる三人へも視線を向けた。


三人は何も言わなかった。

男の一人は棒を握ったまま俯き、もう一人は黒田と高瀬のどちらにも目を合わせなかった。


女性は獣の脚を見つめていたが、黒田へ近づこうとはしなかった。

誰も、高瀬へ仕留めろとは言わない。


誰も、黒田へ逃がせとも言わない。

その沈黙は、賛成でもなく、反対でもなかった。


決められないという意思だけが、そこに残っていた。

高瀬は短く息を吐き、構えていた棒をわずかに下げた。



「……分かった」



黒田の肩から、少しだけ力が抜ける。



「ただし、戻ったら全員で話すぞ」


「ああ」


「俺は納得したわけじゃない」


「分かってる」



高瀬は黒田の前から退いた。

それで、どちらが正しかったのか決まったわけではない。


今、この場では黒田の判断を受け入れる。

決まったのは、それだけだった。


黒田が小さな獣へ近づく。



「二人で押さえてくれ」



棒を持った二人の男が、一度だけ顔を見合わせた。

それから左右へ分かれ、ゆっくりと獣との距離を詰める。

一本の棒が肩の後ろへ、もう一本が腰の手前へ当てられた。


二人が地面へ向けて力を掛ける。

小さな獣は逃れようと身体を捩った。


だが、二人が身構えていたほどの力は返ってこなかった。

前脚が何度か土を掻き、細い身体が小さく震える。


それだけだった。

二人が強く押さえ込むまでもなく、獣は地面から身体を起こせなくなった。



「強く押すな。動けないようにするだけでいい」



黒田が言った。

高瀬は獣の頭側へ回り、棒を低く構えた。



「後ろには入るな。脚はまだ動く」


「分かった」



黒田は横から近づき、縄が食い込んだ脚のそばへ膝をついた。


まず支点側の縄を緩める。

張っていた縄から少しずつ力が抜けていく。

それでも、脚へ食い込んだ輪は固く締まったままだった。


黒田は輪と脚の間へ指を入れ、少しずつ隙間を広げていく。

獣が細い声を漏らした。


脚が一度だけ跳ねたが、二人の男が持つ棒を押し返すほどの力はなかった。

やがて輪が広がり、傷ついた脚から縄が外れた。


黒田は外した縄を手にしたまま、ゆっくりと後ろへ下がる。



「離すぞ」



高瀬の声に合わせ、二人の男が棒を持ち上げた。


小さな獣は、すぐには動かなかった。

地面へ伏せたまま、腹を大きく上下させている。

しばらくして前脚を立てた。


身体を起こそうとして、一度崩れる。

それでも、もう一度立ち上がった。


傷ついた脚を地面へつけることはできなかった。

残る三本の脚で身体を支え、何度もよろめきながら茂みへ向かう。


誰も追わなかった。

やがて小さな身体が葉の向こうへ消え、枝の揺れる音も遠ざかっていった。


獣は振り返らなかった。

五人も、その姿を追わなかった。


地面には、外された縄と、わずかな血だけが残っていた。

高瀬は縄を拾い上げ、血のついた部分を確かめる。



「傷んではいるけど、まだ使える」


「持ち帰ろう」



五人は、罠を外していった。


獣が何度も暴れた地面は深く抉れ、周囲の枝も折れている。

わずかに残った血の匂いも消せない。

ここへ同じ罠を掛け直しても、すぐに別の獲物が通るとは思えなかった。


縄を巻き、支点に使った枝を抜く。

二つへ増やした罠は、また一つになった。


その一つにも、今は何も掛かっていない。

獲物を見つけた時に浮かんだ喜びは、もう誰の顔にも残っていなかった。


帰り道、高瀬が先頭を歩いた。

黒田は少し間を空け、その後ろを進む。


残る三人も、行きと同じように二人の後へ続いた。

誰も口を開かなかった。


空になった手。

巻き取った縄。


肉を持ち帰れなかったことより、その理由をどう伝えるかが、それぞれの足を重くしていた。

途中、大きな根が張り出した木の前で足を止めた。


女性が水を回す。

行きには一つの器を順に受け取っていた。


帰りも、やっていることは同じだった。

だが、誰も隣の者の顔を見なかった。


高瀬は水を飲み、器を黒田へ渡した。



「戻ったら、俺からも話す」


「ああ」


「お前だけの判断で、全部決まったことにはさせない」


「分かってる」



黒田は器を受け取り、水を飲んだ。

それ以上、二人は話さなかった。


休憩を終えると、また同じ順番で歩き始めた。

しばらくして、木々の向こうに拠点の煙が見えた。


先に気づいた者たちが、見回り組へ顔を向ける。

五人の手に肉がないことは、遠くからでも分かった。

直人が持っていた器を置き、こちらへ歩いてきた。



「おかえり。どうだった?」



高瀬が足を止める。

黒田も、その隣で止まった。

二人の後ろでは、誰も顔を上げなかった。



「掛かってた」



高瀬が言った。


直人の視線が、空の手と、巻かれた縄へ落ちる。

火のそばにいた者たちも、次の言葉を待っていた。


黒田は、外した縄を地面へ置いた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。