第40話 数えるもの
二つの罠の見回りが日課になってから、さらに数日が過ぎた。
朝になると、黒田が二組に分けた見回り役の名前を呼ぶ。
呼ばれた者は水の入った器を受け取り、高瀬や戸田と森へ入っていく。
昼を過ぎた頃、一組目が戻る。
夕方が近づくと、もう一組も帰ってくる。
二つの罠は、そのたび仕掛けた時と変わらない姿で残っていた。
「今日は、何か跡くらいなかったのか?」
「近くを通った跡はあった。でも、新しいかは分からない」
「じゃあ、明日は掛かるかもしれないな」
初めのうちは、そんな声も返っていた。
だが、同じ報告が続くにつれ、笑う者は少しずつ減っていった。
三浦が朝に取り出す葉包みも、日ごとに少なくなっている。
肉がなくなったわけではない。
汁の中にはまだ細く裂いた肉が入り、全員の器へ行き渡っていた。
ただ、葉包みを開くたび、肉が前の日よりも薄く切られていることは誰にでも分かった。
「今日、見回りに行ける人」
黒田が声を掛けると、いくつもの手が上がる。
前の日に森へ入った者まで手を上げていた。
「昨日も行っただろ」
隣にいた女性が、男の腕を軽く叩く。
「昨日は向こう。今日はこっち」
「同じ森じゃない」
男は笑いながら手を下ろした。
女性も呆れた顔をしていたが、森へ向かう者が決まると、男が持っていく器へ水を入れた。
「こぼさないでよ」
「子供じゃないんだから」
「前にこぼしたでしょ」
そのやり取りに、近くの者が笑った。
見回りの人数が決まると、次は水と薪、食事の支度をする者を決める。
その時になると、上がる手は少なくなった。
直人は皆の顔を見回し、空いていた器を持ち上げた。
「じゃあ、俺は水。戻ったら薪もやるよ」
「直人、最近そっちばっかりじゃないか?」
「森は高瀬さんたちがいるからね。俺が行っても、見つけた跡を踏むくらいしかできないし」
「踏むなよ」
高瀬がすぐに返す。
「だから行かないんですよ」
直人が笑うと、いくつかの笑い声が重なった。
その笑いを残し、二組は森へ向かった。
見送る側からは、「今日こそ頼むぞ」と声が飛ぶ。
水を汲みに行く者へ、同じ声を掛ける者はいなかった。
直人はもう一つの器を持った者と川へ向かった。
水を運び終えると、薪を割った。
それが終われば、傷んだ籠の蔓を結び直す。
森へ入った者が戻るまでに必要なことを、一つずつ埋めていった。
その日の午後、相希と高瀬は遠い方の罠へ向かっていた。
直人も朝とは別の一人と、二度目の水汲みに出ており、拠点には戸田と数人が残っていた。
戸田は予備の縄の傷みを確かめ、三浦は火のそばで山菜を選り分けている。
紗良は少し離れた場所で、乾かしていた葉を重ねていた。
会話が途切れた時、別の男が森の方を見ながら口を開いた。
「一つ、気になってるんだけどさ」
誰も答えず、男は続けた。
「本当に、あの場所でよかったのかな」
戸田が縄から目を上げる。
「どういう意味だ」
「いや、ずっと何も掛からないだろ。相希が最後に大丈夫って言ったから、皆そう思ってるけど」
男は言葉を切り、周囲の顔を見た。
「相希だって、全部分かるわけじゃないだろ?」
戸田は確かめていた縄を膝の上へ置いた。
「お前、ここまで相希に助けられておいて、今度はあいつを疑うのか」
「そんなつもりじゃないって」
「獣道を見たのは高瀬だ。木を見たのは俺だ。作ったのは、俺たち全員だろ」
男の表情が固くなった。
「最後に相希へ聞いたのも、俺たちだ。分からない時はあいつの答えを待って、結果が出なければ相希一人で決めたことにするのか。そりゃ違うだろ」
「いや……冗談だよ。ただ、何日経っても掛からないから、どこか悪いんじゃないかと思っただけで」
冗談という言葉に、笑う者はいなかった。
戸田は男をしばらく見たあと、膝の縄を持ち直した。
「罠は、作れば獲物を呼べる道具じゃない。仕掛けに問題がなくても、獣が来なければ掛からない」
「……分かったよ」
「前の二頭が続けて掛かったから、待つことを忘れてるだけだ」
男は小さくうなずいた。
三浦が山菜を分ける音だけが残る。
その時、川へ続く道から直人が戻ってきた。
「ただいま。誰か、こっち持ってくれる?」
直人が声を掛けると、男がすぐに立ち上がった。
「俺、持つよ」
いつもより早い動きに、直人は器を渡しながら男の顔を見た。
「ありがとう。……何かあった?」
「別に。何もないよ」
直人が戸田へ目を向ける。
戸田はすでに縄へ視線を戻していた。
直人はそれ以上聞かず、残った水を火のそばへ運んだ。
紗良は、直人が何かを感じ取り、それでも聞かなかったことを見ていた。
夕方、相希と高瀬が戻ると、何人かがすぐに集まった。
「どうだった?」
「掛かってはいない。仕掛けにも、大きな変化はなかった」
落胆した息が重なる。
水を差し出そうとしていた直人の前で、今度は別の男が尋ねた。
「少し場所を動かした方がいいんじゃないか?」
「動かすって、どこへだ」
戸田が聞き返す。
「それは分からないけど、このまま待ってても同じだろ」
相希はすぐには答えず、高瀬を見た。
「高瀬さんは、どう思う?」
「まだ動かさない方がいい。近くの跡が消えたわけじゃない」
「俺も同じ意見だ。今動かすと、別の場所を探すところからやり直すことになる。もう少し、このまま見た方がいいと思う」
「……じゃあ、そうするか」
話が終わり、人が離れていく。
高瀬が先に答えていた。
それでも皆が納得して離れ始めたのは、相希が同じ答えを返したあとだった。
紗良は何も言わず、その順番を見ていた。
直人はようやく相希へ水を渡した。
「おかえり。とりあえず飲めよ」
「ありがとう」
相希が器を受け取り、一息で半分ほど飲む。
「ずいぶん囲まれてたな」
「いつものことだろ」
「前より増えてない?」
「二つとも空だからな」
相希はそれだけ言うと、残った水を飲んだ。
直人は空になった器を受け取り、少し前まで相希を囲んでいた者たちの背中を見た。
さらに数日が過ぎた。
森へ入る者は、戻るたびに何を見たかを聞かれた。
新しい足跡があった。
縄が少し緩んでいた。
罠の近くに落ちていた枝の向きが変わっていた。
小さな変化でも、報告を聞く者は意味を求めた。
「それなら、近くにはいるってことだろ?」
「明日は掛かるかもしれないな」
期待する声の隣では、残った葉包みを数える者がいた。
見回りに二日続けて入った者は、自分の足の痛みを口にした。
水を何度も運んだ者は、その声を黙って聞いた。
誰も、自分だけが働いているとは言わなかった。
それでも、誰がどこへ行き、何をしていたかを覚えている者が増えた。
ある日の夕方、二組目の見回りがなかなか戻らなかった。
日が傾き、三浦は火へ薪を足しながら、何度も森へ続く道を見る。
食事の支度は遅れていた。
午前の水汲みに時間が掛かり、集めた山菜を洗い終えた頃には、いつもより日が高くなっていた。
直人と結衣も隣へ座り、残った根を削っている。
「これ、もう入れていい?」
直人が聞くと、三浦は鍋の中を見た。
「まだ。先にそっちを小さくして」
「結構、小さくしたつもりなんだけど」
「直人の小さいは大きいの」
結衣が横から言う。
「また俺だけ判定厳しくない?」
「雑なんだよ」
結衣は直人の手から根を取り、半分に割って見せた。
その時、森の道から人影が現れた。
高瀬たちは汗と土にまみれ、重い足取りで戻ってきた。
「悪い。遅くなった」
「何かあった?」
黒田が立ち上がる。
「罠は何ともない。帰りに一人、足を滑らせただけだ。怪我もしてない」
皆の肩から力が抜ける。
高瀬は火のそばまで来ると、その場へ腰を下ろした。
「腹減った。飯まだ?」
悪気のない声だった。
三浦の手が止まる。
「こっちも今日、ずっと動いてたんだけど」
高瀬が顔を上げた。
「責めてるわけじゃない」
「分かってる。でも、戻ってきたら勝手に出てくるわけじゃないよ」
火の周りから会話が消えた。
高瀬も三浦も、声を荒らげてはいない。
それでも何人もの目が、同じように直人へ向いた。
直人は手にしていた根と、皆の顔を交互に見た。
「高瀬さん、飯を早くする方法があります」
「なんだよ」
「腹減ったって言った人から手伝う決まりが、今できました」
高瀬が一度、目を瞬いた。
「今できたのかよ」
「できたてです」
小さな笑いが起きた。
直人が削りかけの根を差し出すと、高瀬は息を吐いて受け取った。
「これを小さくすりゃいいんだな」
「俺より小さくできれば合格です」
「それなら誰でもできる」
結衣が言い、今度は三浦も口元を緩めた。
「三浦、悪かった。急かすつもりじゃなかった」
「こっちもごめん。ちょっと余裕なかった」
二人はそれ以上続けず、同じ火のそばで手を動かした。
直人も作業へ戻った。
以前なら、それで終わったと思えた。
だが、自分が口を開くまで誰も何も言わなかった、あの短い時間だけが、直人の中に妙に長く残った。
食事ができると、三浦が皆の器へ汁を分けた。
肉は入っていたが、探さなければ見つからないほど細くなっていた。
以前なら、入っているだけで喜んだ。
今は、隣の器と見比べる視線があった。
「そっちの方が少し大きくない?」
誰かが冗談めかして言う。
「ほとんど同じだよ」
三浦も笑って返した。
けれど、誰も続けて笑わなかった。
直人は何か言おうとして、やめた。
今の沈黙は、無理に笑いへ変えればいいものではない気がした。
葉で餃子を作っていた男は、自分の器に入っていた肉を隣の女性へ移した。
「今日、水を二回運んだだろ」
「あんたも森を歩いたでしょ」
女性は肉を半分に分け、男の器へ戻した。
「じゃあ半分」
男は何も言わず、それを食べた。
少し離れた黒田が、女性のそばに水がないことへ気づき、自分の横にあった器を差し出した。
「飲むか?」
「大丈夫。あとでもらう」
「そうか」
それだけのやり取りだった。
紗良は、自分の器を両手で包みながら、火の周りを見ていた。
空気が張れば、皆は直人を見る。
罠の話になれば、相希の答えを待つ。
二人が何かを命じたわけではない。
直人が空気をほどき、相希が考えを話すたび、皆は安心して次へ進んだ。
だから次も、同じ二人を見る。
少し前まで、そのことに違和感はなかった。
今は、二人がいない場所で出た言葉まで知っている。
紗良は何も言わず、細い肉を口へ運んだ。
翌日も、二つの罠は空だった。
その次の日も変わらなかった。
夕方、直人は人数分の水を用意し、森へ続く道を見ていた。
木々の間から、見回りの者たちが姿を現す。
歩き方だけで、結果は何となく分かった。
それでも直人は器を持ち、迎えに出た。
「罠は?」
直人が声を掛けるより先に、後ろから誰かが尋ねた。
戻ってきた者たちの足が止まる。
「……駄目だった。どっちも何も掛かってない」
直人は持っていた器を差し出した。
「そっか。おかえり。とりあえず飲んで」
同じ言葉だった。
けれど、その言葉が最初ではなくなっていた。




