第39話 次の肉
二頭目の獣から取れた肉は、翌朝にはいくつもの葉包みに分けられていた。
今日使うもの。
明日、その次の日に使うもの。
先に傷みそうな部分と、もう少し煙を当てておく部分。
最初の獣を手にした時は、目の前に並んだ肉の量だけで皆が喜んだ。
だが今は、それを何日持たせ、どう使うかまで考えている。
三浦が葉包みを並べ、相希が肉の色と匂いを確かめていく。
その隣では、紗良と結衣が包みを蔓で縛っていた。
「結衣、そっち何個?」
「六個。紗良は?」
「まだ五個」
「じゃあ、私の勝ち」
「何の勝負よ」
紗良は笑いながら、残っていた葉包みへ手を伸ばした。
結衣もすぐに次の包みを取る。
立ち上がって葉を運び、火の様子を見て、空いた場所へ座り直す。
少し前まで周囲が気にしていた動作を、今は誰も目で追わなかった。
結衣自身も、できることを確かめるようには動いていない。
皆と同じように、自分の仕事を終わらせようとしていた。
「これで何日くらい?」
三浦が並べた包みを見ながら尋ねる。
「状態を見ながらになるけど、今日明日でなくなる量ではないと思う」
相希が答えると、三浦の表情が緩んだ。
「それだけ分かれば十分」
少し前まで、明日の食事に何を入れるかさえ決められない日があった。
今は数日先の食事を考えられる。
その余裕は、腹を満たすこと以外にも使われ始めていた。
夜になり、食事を終えたあとも、すぐに眠る者は減った。
火のそばには人が残り、元の世界で食べていたものや、ここにない調味料の話が続いた。
「味噌があったらな」
「味噌があるなら米が欲しい」
「米があるなら、この肉を焼いた方がいいだろ」
「結局、肉なんだな」
笑い声が上がる。
少し離れたところでは、葉の端を折っていた男が、その形を隣の女性へ見せていた。
「これなら、餃子って言ってもいいだろ」
女性は手元を見たまま答えた。
「前より遠くなってる」
男が包みを見直し、二人だけが小さく笑った。
何の話か分からなかった者も、つられるように口元を緩める。
肉が腹を満たしたからだけではない。
急ぐ必要のない話を続けられる時間が、拠点へ戻っていた。
「次の罠は、また別の場所を探すんだよな」
誰かが言った。
高瀬が器から顔を上げる。
「そうなる。前の二か所は、獣が暴れた跡も血の匂いも残ってる。人も何度も出入りしたからな」
「だったら今度こそ、最初から二か所探せばいいんじゃないか?」
何人かが顔を上げた。
「罠も二つ作れば、どっちかには掛かるかもしれない」
「見回りも二組に分ければいい」
声が重なる。
「場所が見つかっても、材料は二基分だぞ」
戸田が言った。
「運ぶ先も、見回る道も二つになる。人を分ければ、それぞれに経験のある人も必要になる。手間は単純な二倍では済まないと思う」
相希も続ける。
「でも、手伝える人は増えただろ?」
「場所を探す人と、材料を作る人に分かれればいい」
「見回りだって交代ならできるよ」
説明を聞いていないわけではない。
それでも返ってくる声には、増える仕事より、二つの罠の先にある肉の方がはっきり見えていた。
黒田が皆の顔を見回す。
「まずは場所を探そう。二つ作れるかは、それから決めればいい」
反対する者はいなかった。
輪の端では、別の女性が器に残った汁をゆっくり飲んでいた。
「次のことより、今あるものをありがたく食べればいいじゃない」
「ありがたく食べながら、次も欲しいって話ですよ」
「欲張りだねえ」
再び笑いが起きた。
次も捕れると思う者がいた。
二頭とも運が良かっただけだと考える者もいた。
残っている肉を見て安心する者もいれば、肉がある今のうちに次を考えるべきだと思う者もいた。
同じ鍋を囲みながら、それぞれが少しずつ違う先を見ていた。
翌日から、森へ入る者が増えた。
高瀬を中心に、日ごとに人を入れ替えながら、新しい獣道を探していく。
高瀬が地面へしゃがみ込み、薄い跡を指でなぞる。
戸田が近くの木へ手を当て、幹と根元を確かめる。
相希が拠点からの距離と、毎日通う道を見比べる。
初めて森へ入った者は、三人が足を止めるたびに同じ場所を覗き込んだ。
「ここじゃ駄目なのか?」
「通った跡が古い」
「こっちは?」
「木は使えるけど、道から外れすぎてる」
短いやり取りを重ねながら、森を歩いた。
一日目には決まらなかった。
次の日も、その次の日も別の場所を見た。
その数日、直人は拠点に残ることの方が多かった。
森へ向かう者たちを見送ると、水や薪、食事の支度を見て回った。
手の足りない場所があれば自分で入り、それでも足りなければ近くの者へ声を掛けた。
夕方、森へ続く道に人影が見えると、結果を聞こうと何人もが集まってきた。
その声が上がる前に、直人が水の入った器を差し出す。
「おかえり。とりあえず飲んで」
高瀬たちが水を飲み、息を整えるのを待ってから、直人は尋ねた。
「それで、今日はどうだった?」
「まだだ」
高瀬が答えると、残念そうな声が上がった。
「作る前から待ちきれないのかよ」
黒田が笑う。
しばらくすると、一つ目の候補が決まった。
そこからさらに数日かけて、二つ目の場所も見つかった。
どちらも拠点から離れ、二か所を一度に回るには時間が掛かる。
相希がそう説明しても、手を上げる者は減らなかった。
「二組にすればいいんだろ?」
「俺も見方を覚えるよ」
その言葉を聞いた高瀬は、少しだけ口元を緩めた。
「一日二日で覚えられるもんじゃないぞ」
「じゃあ、今日から始めればいい」
高瀬は何も返さなかったが、拒みもしなかった。
森へ行く者を決める朝は、以前より賑やかになった。
黒田に名前を呼ばれた者は顔を明るくし、選ばれなかった者は少し残念そうにする。
「全員で森へ行ったら、帰ってきた時に水も薪もないからね」
直人が笑いながら言うと、上がっていた手がいくつか下りた。
その横で三浦が水を入れる器を持ち上げる。
「森へ行かない人、先に水をお願い」
今度は、すぐには手が上がらなかった。
ほんの短い間だった。
直人が三浦から器を一つ受け取った。
「じゃあ、俺はこっち。水が終わったら材料の方も手伝うよ」
選ばれずに肩を落としていた男へ、直人が笑いかける。
「罠は森だけじゃ作れないからね。縄がなかったら、高瀬さんたちも木を見て帰ってくるだけだよ」
男も笑い、もう一つの器を持ち上げた。
ほかの者も薪や食事の支度へ散っていく。
誰かが怠けようとしているわけではない。
森へ行く仕事には、何かを見つけて戻るかもしれないという分かりやすさがあった。
水を運び、薪を集め、火を絶やさない仕事は、終えても昨日と同じ一日が続くだけだった。
紗良は、嬉しそうに森へ向かう者たちと、黙って器を持つ者たちを交互に見た。
けれど今は、その違いを口にする者はいなかった。
二つの場所が決まると、今度は材料をそろえる日々が始まった。
森から集めた蔓が拠点へ積まれ、使えるものと使えないものへ分けられる。
細い蔓を束ね、撚り合わせ、何度も引いて強さを確かめる。
枝を削り、必要な長さへそろえる。
朝から森へ入る者もいれば、一日中、拠点で蔓と向き合う者もいた。
それも一日では終わらなかった。
数日が過ぎるうちに、拠点の端へ二基分の材料が少しずつ積み上がっていった。
結衣は紗良の隣で蔓を撚り、出来上がった一本を両手で引いた。
「これなら切れないでしょ」
「戸田さんに見せないと分からないよ」
「紗良、さっきからそればっかり」
「だって私に聞かれても分からないもん」
結衣が笑い、近くにいた者もつられて笑った。
少し離れたところでは、直人が撚り終えた蔓を掲げていた。
「結衣、これは?」
結衣は受け取ると、両手で引くより先に首を振った。
「緩い」
「まだ何もしてないじゃん」
「見れば分かる」
「判定が早すぎない?」
直人が笑うと、周囲にも笑いが広がった。
結衣は蔓をほどきながら、撚る向きと力の入れ方を見せる。
直人は言われた通りにやり直した。
森から戻った戸田は、三人の前へ積まれた縄を一本ずつ確かめた。
「これなら使える」
結衣は小さく拳を握り、紗良と手を合わせた。
その日の夕食にも肉が入っていた。
最初の日ほど大きな塊ではない。
煙を当てておいた肉が、山菜や骨から取った汁と一緒に煮られ、全員の器へ少しずつ分けられている。
それでも、肉が入っているだけで会話は明るかった。
「今日、候補の木を見てきた」
森から戻った者が話し始めると、周囲に人が集まった。
「相希が大丈夫って言ってたから、あそこなら作れる」
「俺だけで決めたわけじゃない。高瀬さんが道を見つけて、戸田さんが木を確認した」
相希が訂正する。
「でも、最後に大丈夫って言ったのは相希だろ?」
悪意のない言葉だった。
相希は一度だけ高瀬と戸田を見たが、それ以上は訂正しなかった。
材料がそろうと、設置が始まった。
朝になるたび、縄や枝が森へ運ばれていく。
夕方に戻ってくる頃には、持っていったものが減り、代わりに土と汗で汚れた者たちが増えていた。
一つ目が形になるまでに数日。
そこから二つ目を作るために、さらに数日。
高瀬と戸田、相希は二つの場所を行き来し、ほかの者たちは教わったことを次の者へ伝えた。
人の手は増えていた。
それでも、経験まで人数分に増えたわけではない。
高瀬が一方を見ている間、もう一方では次の作業を待つこともあった。
戸田が持ち帰った部材を直せば、予定していた拠点の仕事が後へずれた。
だが、目に見えて形になっていく罠を前に、それを不満として口にする者はいなかった。
最初の罠が完成した時、戸田が仕掛けを動かし、高瀬が周囲の跡を確かめた。
黒田もうなずいた。
それでも、そこにいた者たちの視線は相希へ集まった。
相希は縄の位置を確かめ、戸田と高瀬を見る。
「二人が問題ないなら、俺もこれでいいと思う」
その言葉を聞いて、張りつめていた空気が緩んだ。
二つ目が完成した時も同じだった。
「こっちも問題ないと思う」
相希が答えると、今度ははっきりと歓声が上がった。
「これで、あとは待つだけだな」
誰かが言った。
待つことも罠の仕事だと、皆もう知っている。
それでも、その声には、二つあればどちらかには掛かるという期待が混じっていた。
二つの罠が完成してから、また数日が過ぎた。
朝、水を汲みに行く者が決まり、薪を集める者が決まり、そのあとに二組の見回り役が呼ばれる。
最初の日、二つの罠はどちらも空だった。
「まあ、初日だからな」
戻った者がそう報告すると、火の周りから笑いが起きた。
「明日だ、明日」
誰かが気軽に答えた。
次の日も、その次の日も、罠には何も掛からなかった。
それでも、空の罠を見て帰る者たちの足取りはまだ重くない。
「二頭とも、よく掛かったよな」
報告を聞いた黒田が呟く。
「運だけじゃないだろ。ちゃんと通る場所に作った」
罠作りへ加わった一人が言った。
「運だけじゃない。でも、作ったから必ず掛かるわけでもない」
高瀬はそう答えたあと、少しだけ笑った。
「そのうち掛かるさ」
言葉を聞いた者たちも笑った。
その夜も、食事のあとには人が火のそばへ残った。
「次は、一頭目みたいなのがいい」
「俺は今回くらいで十分だ。運ぶのが大変だからな」
「掛かる前から選ぶなよ」
「二つもあるんだから、そのうちどっちかには掛かるだろ」
「そういうのが欲張りなんだって」
笑い声が夜の拠点へ広がった。
三浦はその輪から少し離れたところで、明日使う葉包みを一つ取り出した。
残った包みへ目を向け、指先で静かに数え直す。
二つの罠は、まだどちらも空だった。
それでも火のそばでは、次の肉の話が続いていた。




