第38話 二度目
罠を仕掛けてから、さらに数日が過ぎた。
見回りは、もう特別な仕事ではなくなっていた。
朝になれば、水を汲む者が決まり、薪を集める者が決まり、食事の支度をする者が動き出す。
その中に、
「今日、罠誰だっけ?」
という確認が一つ加わっただけだった。
最初の頃のように、誰も「今日は掛かるかな」と口にしなくなっていた。
期待していないわけではない。
ただ、毎日のように空の罠を見続ければ、それを口にする回数も自然と減っていく。
その日の見回りにも、三人が森へ向かった。
拠点では、いつもと変わらない時間が流れていた。
結衣は座ったまま縄を直し、紗良は三浦と食事の準備をしている。
直人は薪を運び終え、積み方が悪いと戸田に言われた場所を直していた。
「これ、そんなに変?」
「崩れた時に下敷きになるぞ」
「じゃあ最初からやってよ」
「お前がやるって言ったんだろ」
そんなやり取りをしていた時だった。
森の方から、枝を踏み折る音が聞こえた。
誰かが顔を上げる。
一人の男が、木々の間から飛び出してきた。
走ってきた勢いのまま拠点へ入り、膝に手をつく。
息が上がり、言葉が出ない。
「どうした?」
黒田が立ち上がった。
男は何度か呼吸を繰り返し、それでも整わないまま顔を上げた。
「掛かった……」
周囲の手が止まる。
「罠……掛かってる!」
一瞬、誰も声を出さなかった。
何日も聞かなかった言葉だった。
意味が遅れて届いたように、次々と人が立ち上がる。
「本当に?」
「何が掛かった?」
「でかい?」
いくつもの声が重なった。
黒田が手を上げる。
「待て。ほかの二人は?」
「残ってる。言われた通り、離れたところから見てる」
高瀬がすぐに聞く。
「近づいてないな?」
「うん。触ってもない」
戸田が息を吐いた。
「それならいい」
直人は男へ水を渡した。
「ゆっくりでいい。どんなやつだった?」
男は何口か水を飲んでから答えた。
「前のやつよりは小さい。でも、すげえ暴れてる」
「鹿っぽい?」
「いや……猪みたいだった」
「猪?」
「多分。地面ずっと掘ってるし、こっち見つけると突っ込もうとしてくる。牙みたいなのもあった」
高瀬の表情が少し変わった。
「小さくても近づくのは危ないな」
誰もすぐには森へ向かわなかった。
前回とは違う。
掛かった後にどう動くかは、すでに決めてある。
相希が周囲を見た。
「一度、役割を決めてから行こう」
皆の視線が集まる。
相希は少し考えながら続けた。
「高瀬さんには、現場で動きを見てもらった方がいいと思う」
高瀬がうなずく。
「戸田さんは、罠の状態を確認してもらえる?」
「ああ」
「黒田さんは、近づく時の補助をお願いしたい」
黒田は答えなかった。
相希はそのまま次へ視線を移した。
「長い棒を持てる人を何人か。近づきすぎず、向きを変えられるようにしておいた方がいい」
直人が周囲を見回す。
「じゃあ俺、使えそうなの持ってくる人決めるよ」
人が動き始める。
相希の視線が最後に直人へ向いた。
直人も、その視線を受け止めた。
相希は、直人が何も感じていないとは思っていなかった。
むしろ、あの感触が残っているからこそ、同じものをほかの誰かへ渡したくないのだろう。
それでも今回は、直人が勝手に前へ出るわけではない。
全員で役割を決め、その一つを直人へ託す。
「最後は、直人にお願いしたい。いいか?」
直人は、ほんの少し目を見開いた。
相希が自分を心配していないわけではない。
それでも託してくれたのだと分かった。
「……うん。任せて」
相希がうなずく。
その時だった。
「待ってくれ」
黒田が言った。
皆が振り返る。
「俺にやらせてくれ」
直人が黒田を見る。
「黒田さん?」
黒田は、少しだけ言葉を選んだ。
「これからも罠を使うなら、仕留めるところまで直人一人に任せる形はよくないと思う」
「誰か一人しかできない仕事にしたら、その人がいない時に困る」
黒田は、直人をまっすぐ見た。
「次は全員でやるって決めただろ」
直人はすぐには答えなかった。
「でも、黒田さんがやる必要はないですよ。俺がやれます」
「ああ。お前ができるのは分かってる」
黒田は一度うなずいた。
「だから、お前にしかできないままにしたくない」
理由としては、それで十分だった。
実際、その通りでもある。
獣を捕らえることが、これからの生活の一部になるなら、最後の一手まで一人に依存するわけにはいかない。
それでも直人には、黒田が合理的な理由だけで前へ出ているようには思えなかった。
前回の獣を仕留めた時、黒田もすぐそばにいた。
直人が何をしたのかも、その後どうだったのかも見ている。
だから今回、自分も一度そこへ立っておきたいのだ。
直人は、そう受け取った。
少し黙ったあと、黒田を見る。
「……分かりました」
「ああ」
「じゃあ、お願いします」
相希は何も口を挟まなかった。
直人へ託した判断を取り消したわけではない。
直人は黒田の覚悟を理解したうえで、自分に託された役割を渡した。
今回は、誰か一人が勝手に前へ出たわけではなかった。
相希は二人の選択を受け取り、役割だけを組み直した。
準備を終えると、必要な者だけで森へ向かった。
現場へ近づくにつれ、低い鳴き声が聞こえてきた。
前回の獣とは違う。
短く、荒い。
時折、枝が大きく揺れる音が混じる。
先に残っていた二人が、離れた場所から手を上げた。
「まだ掛かってる!」
高瀬が先へ出る。
「全員、ここから先は一回止まって」
獣道の先。
罠に掛かった獣がいた。
前回の獣より、確かに小さい。
だが、身体は低く、横幅がある。
太い首を振りながら、何度も地面へ鼻先をぶつけていた。
人の気配を感じるたび、短い脚で踏み込み、こちらへ突進しようとする。
縄が張り、身体が引き戻される。
そのたびに地面が削れた。
「猪……だよな?」
直人が小さく言った。
相希は獣を見る。
全体としては、確かに猪に近い。
ただ、見慣れた猪の印象とは少し違った。
胴が妙に厚い。
鼻先も、思っていたより短い。
耳は大きく、その一部がわずかに垂れている。
牙も、身体つきのわりには目立たない。
「多分」
相希が答えた。
直人が横を見る。
「多分?」
「少し違うようにも見える」
「新種?」
「分からない」
相希はそれ以上考えるのを止めた。
今は、そこではない。
高瀬が獣の動きを見る。
戸田は縄の張り方と支点を確認した。
「罠は持ってる。無理に近づかなければ大丈夫そうだ」
数人が長い棒を持ち、距離を保ったまま位置につく。
黒田は一度だけ深く息を吐いた。
前回のように、その場で誰か一人がすべてを判断する必要はなかった。
高瀬が獣の動きを見ながら、棒を持つ者へ声を掛ける。
「右へ振る。そっちは一歩下がって」
獣の向きが変わるたび、周囲も合わせて位置を変えた。
戸田は縄と支点から目を離さない。
「支点は持ってる。焦らなくていい」
直人は、黒田のすぐ後ろに立った。
万が一、獣が予想と違う動きをすれば、すぐに黒田を引ける位置だった。
相希は獣だけでなく、全員の位置を見ていた。
誰か一人が前へ出るのを、ほかの者が見守っているわけではない。
それぞれが、自分の役割を持ってそこにいた。
「今だ」
高瀬の声に合わせて、棒を持つ者たちが獣の向きを変える。
黒田が前へ出た。
獣が再び激しく暴れる。
それでも、誰も持ち場を離れなかった。
戸田が縄を確認し、高瀬がもう一度タイミングを測る。
次の瞬間、黒田は迷わず踏み込んだ。
やがて、獣の動きが止まった。
森に、急に静けさが戻る。
黒田はすぐには立ち上がらなかった。
しばらくその場にしゃがみ、獣を見ている。
それから、自分の手へ目を落とした。
呼吸を整えてから、小さく言った。
「……思ってたより、嫌なもんだな」
直人は少し離れたところから黒田を見た。
「はい」
それだけ答えた。
励ます言葉も、慰める言葉も浮かばなかった。
必要だとも思わなかった。
前回、自分が立っていた場所に、今は黒田がいる。
それだけで十分だった。
獣を拠点へ運び込むと、待っていた者たちが一斉に集まった。
歓声が上がる。
何日も空だった罠が、ようやく獲物を連れて帰ってきた。
「本当に猪だ」
「すごいな」
「また肉食えるぞ」
そんな声の中で、一人が獣を見下ろした。
「でも、前より小さいな」
別の者も、隣から覗き込む。
「これだと、前ほど肉は取れないか」
高瀬の手が、一瞬だけ止まった。
「……掛かっただけでも十分だろ」
二人が高瀬を見る。
最初に口にした男は、すぐにうなずいた。
「そうだな。何日も待ったんだもんな」
「ああ」
高瀬は短く答え、獣を運ぶ手伝いへ戻った。
周囲では、変わらず喜びの声が続いている。
誰かが悪かったわけではない。
肉の量を気にするのも、生活を考えれば当然だった。
ただ、一頭目の時には出なかった「前より」という言葉が、二頭目には自然と出てきた。
それだけ、皆が一度目の豊かさを覚えていた。
その後の作業は、前回よりずっと早かった。
誰かが細かく指示を出さなくても、人が動く。
肉を分ける者。
保存の準備をする者。
皮や骨を扱う者。
使った道具を洗う者。
一度経験しているだけで、拠点の動きはまるで違った。
夕方には、肉の一部が火に掛けられた。
前回ほどの量ではない。
それでも、久しぶりの匂いに皆の顔が明るくなる。
食事が始まれば、しばらく前までの張った空気も薄れていった。
誰かが肉を口に入れ、満足そうに言う。
「やっぱり肉あると違うな」
別の者が笑った。
「次は、もうちょい大きいの掛からないかな」
「もう次の話?」
直人が笑う。
「だって、これで二回目だろ。次もあるかもしれないじゃん」
「捕まえたばかりなんだから、まずは今の肉を食べようよ」
周囲に笑いが広がった。
一頭目の時は、肉があることそのものが喜びだった。
次の獲物を口にする者はいなかった。
二頭目の肉を囲む今、まだ食べ終えてもいないのに、会話はもう三頭目へ向かい始めている。
誰かが強欲になったわけではない。
今日の先を考えられるだけの余裕が生まれたのだ。
一頭目の肉は、明日を与えた。
二頭目の肉は、その先を想像させた。




