第37話 待つ時間
罠を仕掛けた翌朝。
まだ空が白み始めたばかりなのに、何人かはもう森の方を気にしていた。
「見に行く?」
「まだ早いだろ」
「でも、掛かってたらそのままにしておくのもまずくない?」
高瀬が火のそばで水を飲みながら、苦笑した。
「そんな簡単に掛からないって」
それでも結局、その日は黒田、高瀬、戸田、直人、相希の五人に、ほか二人を加えて見に行くことになった。
前回の獣のことを考えれば、獲物が掛かった後に人手が必要になる可能性もある。
何より、みんな気になっていた。
ただし、罠の近くまで行くのは、以前から確認してきた五人だけにした。
同行する二人には、少し離れた場所で待ってもらう。
森へ入る途中も、同行した二人は落ち着かない。
「どれくらいの大きさだと思う?」
「まだ掛かってないから」
直人が笑う。
「いや、でも前くらいだったら、また結構持つだろ」
「だから掛かってないって」
「分かってるよ」
言いながらも、声はどこか弾んでいた。
候補地へ着く。
罠は、そのままだった。
縄も外れていない。
周囲に大きく荒れた跡もない。
「空だな」
戸田が言った。
「まあ、一日目だし」
直人はそう言って、周囲を見回した。
高瀬は獣道へ近づきすぎない位置から、土の状態を確認する。
相希も、以前置いた枝や石が動いていないかを見ていた。
「壊れてはいない」
「じゃあ、このまま?」
同行していた一人が尋ねる。
相希は罠を見る。
「今は触らない方がいいと思う」
高瀬もうなずいた。
「人が何度もいじる方が警戒される」
その日は、それだけ確認して拠点へ戻った。
戻ると、すぐに声が飛んできた。
「どうだった?」
「駄目。空」
直人が答える。
「そっか」
一瞬だけ残念そうな顔が並んだ。
だが、誰かがすぐ笑った。
「まあ明日だな」
その言葉に、みんなもうなずいた。
二日目も、同じように見に行った。
また空だった。
ただ、獣道には新しい足跡があった。
罠のすぐそばではない。
少し離れた位置を通っている。
「近くには来てるんだな」
黒田が言う。
「そうみたいだな」
高瀬は足跡を見ながら答えた。
「だったら場所ずらした方がいいんじゃない?」
同行した男が聞く。
戸田が首を振る。
「今動かすのは早い」
「でも、向こう通ってるんだろ?」
「だからって、次も同じ場所を通るとは限らない」
相希が補う。
「今の罠が壊れているわけじゃない。条件を変えすぎると、何が良くて何が悪かったのか分からなくなる」
男は少し考えたあと、納得しきれないままうなずいた。
三日目。
やはり空だった。
その日の帰り道は、初日ほど会話がなかった。
拠点へ戻ると、誰かが遠くから尋ねる。
「今日も?」
直人が片手を上げた。
「今日も」
少し笑いが起きた。
だが初日のような明るさはなかった。
火のそばに吊るされた肉は、確実に減っていた。
骨から取れる汁も、前より薄くなっている。
まだ腹を空かせて眠るほどではない。
それでも、食事のたびに残りを気にする視線が増えた。
「あと、どれくらい持つかな」
誰かが呟く。
「すぐなくなるわけじゃないよ」
三浦が答える。
「でも、次が掛からなかったら?」
その言葉に、一瞬だけ手が止まる。
少し前までなら、
「それまでには掛かるだろ」
と誰かが笑っていた。
この日は、その言葉を口にする者はいなかった。
翌朝、食事のあとに、罠のことが話題になった。
「もう一個作った方がいいんじゃない?」
一人が言った。
「一個より二個の方が、確率上がるだろ」
高瀬が答える。
「置けばいいってもんじゃない」
「でも今の、掛かってないじゃん」
少しだけ空気が止まった。
戸田が手元の縄を置く。
「罠そのものは問題ない」
「じゃあ場所?」
「それも今の段階じゃ分からない」
「じゃあ、ずっと待つの?」
高瀬は少し息を吐いた。
「罠って、そういうもんだよ」
「でも前は掛かっただろ」
今度は黒田が口を開いた。
「前が、うまくいきすぎたんだ」
周囲の視線が集まる。
黒田は続ける。
「あの時も、場所を探して、何回も失敗して、ようやく掛かった」
高瀬もうなずいた。
「最後は運だよ。獣がそこを通るかどうかなんて、こっちじゃ決められない」
戸田が罠の材料へ目を落とす。
「だから、壊れてもないのに触る方がよくない」
相希も静かに続けた。
「下準備でできることはやったと思う。その後は待つしかない」
誰かが苦笑する。
「なんか、もっと捕れるもんだと思ってた」
「俺も最初はそう思ってたよ」
直人が言った。
「前の鹿が掛かった時、なんか俺たち、急に狩り上手くなったみたいな感じだったじゃん」
高瀬が鼻で笑う。
「勘違いするなよ」
「してたよ。ちょっとだけ」
「お前だけだろ」
「いや絶対みんな少し思ってたって」
黒田まで笑った。
張っていた空気が、少し緩む。
直人はそこで、ふと思った。
自分たち五人と、拠点に残っていた者たちでは、罠に対して見てきた時間が違う。
直人は少し考えてから口を開いた。
「毎回、俺たち全員で見に行く必要ないんじゃない?」
黒田が直人を見る。
「どういうことだ?」
「確認だけなら、二、三人で十分だろ。拠点の仕事もあるし」
高瀬がうなずいた。
「人が多いと跡も増えるしな」
「じゃあ、俺たちの誰か一人と、あと一人か二人くらいで回せばいいんじゃない?」
「交代で?」
「うん。今後も罠を使うなら、見方も少しずつ覚えてもらった方がいいだろ」
戸田もうなずく。
「それなら、毎回五人揃う必要もないな」
「そうそう。黒田さんたちも、ずっと森に出っぱなしじゃ他のことできないし」
直人はそう言って、周囲を見回した。
口にした理由に、嘘はなかった。
だが、それだけではない。
何も掛かっていない罠を見て、そのまま帰る。
次の日も、同じことを繰り返す。
成功した結果だけではなく、その時間まで含めて知ってもらった方がいい。
言葉で説明するより、自分で見た方が早い。
直人はそう思っていた。
黒田が少し考えてから、うなずいた。
「それならいいんじゃないか」
そこで相希が口を開いた。
「ただ、掛かっていた場合の動きは決めておいた方がいいと思う」
直人が相希を見る。
相希は周囲へ視線を向けた。
「二人で行った場合は、一人がその場に残る。もう一人が拠点へ戻って人を呼ぶ」
「三人なら?」
「一人が戻って、二人が残る形がいいと思う」
高瀬が続けた。
「掛かってても、勝手に近づかないこと。暴れてたら何するか分からないからな」
戸田も言う。
「縄や支点も、触らずに見るだけでいい。壊れてそうなら戻ってから言えばいい」
黒田が全体を見回した。
「仕留める時は、前みたいに一人でやらない。みんなで行く」
直人は黙ってうなずいた。
それでいい。
今度は、その場にいた誰か一人が、全部を決めなくていい。
持ち回りは、その日から始まった。
初日は、黒田とほかの二人。
次の日は、高瀬と別の二人。
その次は、戸田と一人。
見に行く者は変わった。
罠は変わらず空だった。
初めて見回りへ加わった者は、空の罠を見て残念そうに帰った。
二度目に向かう頃には、足跡の位置を覚えようとする。
三度目には、罠そのものより周囲の土を見るようになった。
ある日の帰り。
高瀬と一緒に見回りへ行った男が、拠点へ戻るなり笑った。
「前って、本当に運良かったんだな」
高瀬は肩をすくめた。
「まあ、こんなもんだよ」
男は火のそばへ座り込む。
「罠置けば、もうちょい簡単に掛かると思ってた」
「俺らだって獣に予約取ってるわけじゃないからな」
「明日来てくださいって?」
「来るなら頼むよ」
周囲に笑いが起きた。
直人はそのやり取りを少し離れた場所から聞いていた。
説明した時よりも、その言葉の方がずっと届いているように思えた。
それでも、日が重なるほど拠点の空気は少しずつ重くなった。
見回りへ行った者は、掛からないことに慣れていく。
だが保存肉は、その間にも減り続ける。
食事の量を露骨に減らすほどではない。
それでも、誰かが肉を一切れ多く取れば、別の誰かの目が一瞬だけそこへ向く。
誰かが、何気なく尋ねる。
「もう一個くらい、罠作れないのかな」
以前なら、すぐに否定されていたかもしれない。
高瀬は一度考えてから答えた。
「場所が見つかればな」
「前に掛かった場所へ、もう一個置けばいいじゃん」
高瀬は、相手の顔を見た。
あの場所が今どうなっているのか、この男は見ていない。
一度捕まえた場所なら、また使えると思うのも無理はなかった。
「あそこは、獣が暴れて荒れてる。血の匂いも残ってるし、俺たちも何度も出入りした。捕まえる前と同じ条件じゃない」
「でも、一度は通ったんだろ?」
「一度はな。でも、今も獣が来る保証はない。罠を増やすなら、また場所を探すところからだ」
高瀬は、少しだけ声を和らげた。
「今は焦って適当な場所へ置くより、今の罠に集中した方がいい」
男は納得しきれないように、小さく息を吐いた。
高瀬は、それ以上言葉を重ねなかった。
焦る側も間違ってはいない。
待つ側も、何もしていないわけではない。
ただ、同じ一日が、少しずつ違う長さに感じられ始めていた。
何度か持ち回りを繰り返したあと。
その日の確認は、直人と相希の番になった。
朝の空気は少し冷たかった。
二人は必要なものだけを持ち、森へ入る。
しばらく歩いてから直人が言った。
「今日も空だったら、また誰か言うかな」
「何かは言うだろうな」
相希が答える。
「相希は、もう一個作った方がいいと思う?」
「条件のいい場所が見つかれば。ただ、数を増やせば同じ割合で捕れるとも限らないと思う」
「だよねえ」
直人は前を向いたまま笑った。
「まあ、待つしかないか」
「ああ」
それきり、しばらく会話はなかった。
罠へ着く。
今日も空だった。
相希は周囲を確認する。
昨日までとは違う足跡が、少し離れた場所に残っている。
罠そのものにも異常はない。
「近くは通ってるみたいだな」
相希が言う。
「じゃあ、そのうち来るかもね」
直人はそう言いながら、罠へ目を向けた。
その瞬間、相希は先日の作動試験と同じように、直人の身体がほんのわずかに固くなるのを見た。
肩なのか、腕なのか。
はっきりとは分からない。
ただ、昨日と同じ反応だった。
次の瞬間には、もういつもの直人に戻っていた。
「今日も駄目か」
しゃがみ込み、少し離れたところから縄の状態を見る。
相希は何も言わなかった。
直人も、何もなかったように立ち上がった。
帰り道。
森には、二人の足音だけが続いていた。
来た時と同じ道。
同じ木々。
同じ沈黙。
しばらく歩いたところで、直人がぽつりと言った。
「あの獣さ」
相希は横を向いた。
直人は前を見たまま、足も止めなかった。
「俺が仕留める前、泣いてたように見えたんだ」
数歩ぶんの沈黙を置いて、相希は答えた。
「そうか」
直人が相希を見る。
「それだけ?」
「ほかに何と言えばいい」
直人は少し笑った。
「いや、ほら。相希なら何かあるのかなって」
「何かって?」
「脳がどうとか。死ぬ前の反応とか。そういうの」
相希は直人を見た。
「聞きたいのか?」
直人は少し考えた。
「……いや」
それから、もう数歩歩いた。
「多分、聞きたくない」
「なら、しない」
直人は小さく息を吐いた。
「たまに戻ってくるんだよ」
「何が」
「目とか。声とか」
少し間を置く。
「あと……刺した時の感触」
相希は何も挟まなかった。
直人は、言葉を探すように足元へ目を落とした。
「別に、もう肉が食えないとかじゃないんだよ。普通に食ってるし」
「ああ」
「仕方なかったのも分かってる」
「ああ」
「でも、分かってるのに残ってる」
相希はしばらく黙ってから言った。
「必要だったことと、平気だったことは、別の話だろ」
直人は一瞬だけ目を見開いた。
それから、力が抜けたように短く息を漏らし、わずかに口元を緩めた。
「何それ」
「違うか?」
直人は前を向き直った。
「……多分、違わない」
それ以上、相希は何も言わなかった。
直人も話さなかった。
直人は、何かを隠していたわけではない。
誰かに話さないと決めていたわけでもない。
ただ、自分の中に残ったものを、誰かへ渡すという発想がなかった。
それが今、相希の前では自然に言葉になった。
相希には、それで十分だった。
相希は、少し先を歩く直人との距離を一歩だけ詰めた。
声は掛けなかった。
直人も、振り返らなかった。
森を抜けるまで、二人の足音が離れることはなかった。




